それから数日、学生生活は何事もなく過ぎた。
というか慣れるのに必死で、余計なことをしている暇がなかった、のかもしれない。
気になるサークルも幾つかあったものの、それよりも絵を描くことに費やしたいと思った結果、家と学校を往復する毎日になっている。
山の斜面に立った大学は、毎日大階段を上(のぼ)るところから始まる。そしてさらに坂道を上ったり、階段を上ったり。制作ばかりの学生を鍛えるためにここに建てたんじゃないかと思うような場所である。
シラバスを睨み、受講したい授業のスケジュールを組む。
一応両親を説得したときに教職課程を取ると約束したから、『教師論』なる授業も履修しておく。
履修登録もすべて終え、必要な学内施設も一通り把握し、今日はもう帰ろうとした昼下がり。
春めいたあたたかい風が心地良い度合いで吹いている。
大学は白川通(しらかわどおり)に面して建っていた。
南北に走るこの通りを下れば銀閣寺をはじめとする観光地にぶつかるが、このあたりは比較的のんびりしている、と思っている。
そののんびりした通りへと大階段を下りていると、不意に音も気配もなく、俺を追い越していく真っ黒な影があった。いきなりのことに驚いたものの、それは三日月紫苑だった。
そして彼に気づいたと同時に、背中を誰かに押されたような感触があった。
え、と思ったときにはもう遅く、身体が前に傾いている。
思わず振り返った視界の端に、やたら美形で髪の長い成人男性の笑顔が映った気がしたものの、それは一瞬で消える。
ただ、もう時季は終わったはずの、梅の香りが漂っていた。
などと思ったときには、俺の身体は前方を行く人間にぶつかっていた。そしてその相手も予想外の衝撃に身体を支えることはできなかったようで、あっさりと倒れていく。
あとはもう、崩れ落ちるだけだった。ふたりして仲良く、大階段の踊り場まで転がっていった。
俺がぶつかった相手は確かめるまでもない、三日月紫苑だ。
「えっと、大丈夫か」
幸い、踊り場まであと数段のところだったので自分にはたいした怪我はなかった。デニムが汚れたのと手を少々すりむいたぐらい。
ただいきなりのことに頭は多少混乱していた。
確実に誰かに背中を押されたし、他人も巻き込んでしまったし、落ち着いて現状を把握しようと思うのが精一杯だ。
周囲の人間がちらちらこちらを見ていくが、近づいてくるような人間はいなかった。
三日月紫苑は、なぜか正座の体制で、俺をじっと見ていた。そのきれいな顔に傷がなくて良かった、と安堵する。
が、そのまま視線を下に落とすと、左手首をさすっていることに気がつく。
というか慣れるのに必死で、余計なことをしている暇がなかった、のかもしれない。
気になるサークルも幾つかあったものの、それよりも絵を描くことに費やしたいと思った結果、家と学校を往復する毎日になっている。
山の斜面に立った大学は、毎日大階段を上(のぼ)るところから始まる。そしてさらに坂道を上ったり、階段を上ったり。制作ばかりの学生を鍛えるためにここに建てたんじゃないかと思うような場所である。
シラバスを睨み、受講したい授業のスケジュールを組む。
一応両親を説得したときに教職課程を取ると約束したから、『教師論』なる授業も履修しておく。
履修登録もすべて終え、必要な学内施設も一通り把握し、今日はもう帰ろうとした昼下がり。
春めいたあたたかい風が心地良い度合いで吹いている。
大学は白川通(しらかわどおり)に面して建っていた。
南北に走るこの通りを下れば銀閣寺をはじめとする観光地にぶつかるが、このあたりは比較的のんびりしている、と思っている。
そののんびりした通りへと大階段を下りていると、不意に音も気配もなく、俺を追い越していく真っ黒な影があった。いきなりのことに驚いたものの、それは三日月紫苑だった。
そして彼に気づいたと同時に、背中を誰かに押されたような感触があった。
え、と思ったときにはもう遅く、身体が前に傾いている。
思わず振り返った視界の端に、やたら美形で髪の長い成人男性の笑顔が映った気がしたものの、それは一瞬で消える。
ただ、もう時季は終わったはずの、梅の香りが漂っていた。
などと思ったときには、俺の身体は前方を行く人間にぶつかっていた。そしてその相手も予想外の衝撃に身体を支えることはできなかったようで、あっさりと倒れていく。
あとはもう、崩れ落ちるだけだった。ふたりして仲良く、大階段の踊り場まで転がっていった。
俺がぶつかった相手は確かめるまでもない、三日月紫苑だ。
「えっと、大丈夫か」
幸い、踊り場まであと数段のところだったので自分にはたいした怪我はなかった。デニムが汚れたのと手を少々すりむいたぐらい。
ただいきなりのことに頭は多少混乱していた。
確実に誰かに背中を押されたし、他人も巻き込んでしまったし、落ち着いて現状を把握しようと思うのが精一杯だ。
周囲の人間がちらちらこちらを見ていくが、近づいてくるような人間はいなかった。
三日月紫苑は、なぜか正座の体制で、俺をじっと見ていた。そのきれいな顔に傷がなくて良かった、と安堵する。
が、そのまま視線を下に落とすと、左手首をさすっていることに気がつく。