そんな俺を、雲母は笑った。慈愛は一切感じられない。ただの笑みだ。
「気になさらなくて結構。重要なのは絵の技術や出来映えではありません」
「ならなんで見せたんだ……」
「あなたが気にしておりましたので。しかし、自分を弁えておくことは大切かと」
「身の程を知れと」
「如何にも。申し訳ありませんが、あなたでは一生、紫苑に追いつくことはないでしょう」
あまりにもはっきりと言われ、傷つく余韻もなかった。
自分でもそれはさっき理解したが、こういうところが俺は競争心が薄くてだめなのかもしれない。
「随分、主人を買ってるんだな」
嫌みではない。本心だった。長いため息が出る。
「ええ、生まれたときから存じておりますゆえ。それに、あなたと紫苑では、絵に対する覚悟が違う」
「雲母」
ここで初めて、三日月紫苑が口を挟んできた。
視線をやると、無表情のまま雲母を見つめている。余計なことを言うな、といった感じだろうか。
「失礼、少々話が過ぎました。戻しますが、とにかくあなたに絵を描いてもらわねばなりません」
「あと数日もすれば僕が描ける。そんな奴に頼まなくても」
一度会話に入ったせいなのか、三日月紫苑は静かに語った。そんな奴と言われたことは今は反論しないが覚えておく。
「あと数日、では困るのです。今日、もしくは明日です」
「じゃあ明日描く」
「箸すら持てない人がなにを言うのですか」
ぴしゃっと、切り捨てられた三日月紫苑は、びっくりするぐらいわかりやすく拗ねた。唇をきゅっと結んだ姿ですら、美形は様になるらしい。
「箸すら持てないってそんなにひどかったのか、すまん」
確かにその華奢な身体で男にぶつかられ共に転げたのなら、手首ぐらいあっさり折れそうである。ギプスをしていいる様子はないけれど。
「別にいいと言っている。しつこい」
ようやく俺に対してことばを返してくれたが、相変わらずだった。
「そもそも、こいつに仕事のことを知られて面倒なことになったらどうする」
椅子の肘掛けにもたれて、ふてぶてしく三日月紫苑が言った。その言葉がいろいろ引っかかる。
「その点はご心配なく。仕事はこの一回のみ。終わり次第、忘却の術をかけておきますので」
「終わった後のことはいいが、それ以前に、こいつに話が通じるかどうか」
「通じるかどうかではありません。通すのです」
「いやいやいや、ちょっと待ってくれ、途端に話があやしいんだが」
ふたりの会話からわかるのは、仕事がやばそうだということなのだが、忘却の術ってなんだ。術ってなんだ。こいつらなにやってるんだ。
「あやしい、とは心外ですね」
そう雲母が眉間に皺を寄せているけれど、そのほうが心外だ。
中性的な美形が豪邸にふたり。仕事を知られたら面倒。忘却の術。話が通じるかどうか。
「いやどう考えてもあやしいだろ」
心の声がそのまま口を出る。
三日月紫苑は「ほら見ろ」と言わんばかりに雲母を見ている。対して雲母はふう、とため息をつく。
「あやしくなどありません。紫苑の仕事は妖を助けることですから」
あやかし。
はす向かいに座る美丈夫は、確かに今そう言った。
妖、というのはあれか、漫画やアニメに出てくる、妖怪のこと、だろうか。
「紫苑、雲母! 余のモンブランが消えておるぞ!」
会話を反芻している間に、洋間の扉が勢いよく開かれた音がした。同時に少女の声が聞こえる。
「ぬ、なんだ人間がおるのか」
そろそろと背にある扉を振り返る。
そしてますます、頭が混乱する。
そこに立っていたのは、小学校低学年ぐらいの女の子だった。不思議の国のアリスから出てきたかのような。まったくもってこの場に似合わない、所謂幼女が出てきた。
「薊(あざみ)、紹介します。紫苑の代わりに絵を描く如月椿です」
確かに同居人があとひとりいるとは言っていた。それが彼女なのだろうか。水色のワンピースに艶やかな黒髪。顔立ちは幼いものの整っている。
「そちが椿か。余は薊。つくも神だ。よろしく頼もう」
俺は今、いったいどこにいるのだろう。というか夢でも見てるのだろうか。仁王立ちしている少女は今はっきりとつくも神、と言った。
三日月紫苑に視線で助けを求めてみたものの、目をそらされた。
「それよりも雲母、モンブランだ。モンブランがないのだ」
「大丈夫です、ちゃんとありますから。まあ、彼も混乱しているようですし、一度お茶にでもしましょう。薊、手伝ってください」
「承知した!」
幸い、雲母に今の俺の状態は伝わっているようだった。二人は扉の向こうに去り、穏やかな日差しが差し込む部屋に、三日月紫苑と残される。
「なあ、お前、なんかすごいのと住んでるんだな……」
このいかんともしがたい気持ちをすこしでも吐露したいと、無視されること覚悟で話しかける。
三日月紫苑は、一瞬だけこちらを見てから、ため息をついた。
「ジジィが悪趣味なんだ」
返ってきたことばの、意味はさっぱりわからない。ただ返事があっただけありがたい。
「そうか、大変だな」
俺自身もわけのわからない相槌をうって返す。
数秒後、ふたり同時にため息をついたのが、なんだか印象深かった。
豊かな香りの日本茶にモンブラン。
目の前には美丈夫と和洋折衷幼女。
離れた席に黒ずくめの不機嫌少年。
今朝の自分は、今日こんなことになるなんて、まったく、これっぽっちも予想していなかっただろう。
「えーと、つまり、この屋敷には悩みを抱えた妖がやってくるから、それを解決するのが仕事だと。で、その解決方法が絵を描くこと、と」
お茶をいただきながら聞いた話をまとめるとこうだった。
「ええ、まあそうなりますか。飲み込みが早くて助かります」
優雅にお茶をすすりながら雲母が微笑んだ。
その横で薊がモンブランをがっつきながら「椿は賢いのだな」などと言っている。賢いわけではない、理解できないからことばのままを受け取っているだけだ。
「それ以前にお前、疑問に思うことはないのか」
窓際の席でけだるそうに三日月紫苑が口を開く。なんだか猫みたいだな、と思ってしまった。もちろん黒猫だ。
「疑問、はいろいろあるけども、いちいちつっこんでたら身がもたないというか」
「ずれてる。普通、妖ってなんだとか嘘だとか言う」
言われてみればそうなのだが、と目の前で口の周りにクリームをつけている幼女を見る。
「余は妖ではないぞ。つくも神だ」
俺の視線に気づいた薊が胸を張って言うものの、説得力にはいまいち欠ける。第一なんのつくも神なのだろう。
まあそれはさておき、三日月紫苑が言わんとすることがわからないわけでもない。妖なんて、まあつくも神も含め、非現実的な存在だ。限りなくフィクションで、実際に目にしたこともない。とりあえず今までは。
「いや、なんていうか、小さい頃からばあちゃんによく言われてたから」
雲母の視線がこちらに向く。
「ばあちゃんにとっては、神様とか妖とか当たり前の存在だったみたいで。だからなんというか……頭ごなしに否定できないと言うか」
幼かった頃は、それこそ祖母の言う妖が夜中に襲ってきやしないかと不安になったこともあった。でも祖母はいつでも「彼らは人間となんにも違わない」と言っていた。
ふうん、と興味なさそうに三日月紫苑は欠伸をした。聞いておいて失礼な奴である。
「いるのかもしれない、ではない。いるのだ。今も椿の目の前におるではないか」
二つ目のモンブランを平らげた薊がお茶を飲み干し他と同時に口を開いた。本人はつい今しがた「妖ではない」と宣言している。
つまり。と残りふたりを見比べる。どちらも人間にしか見えない。
「なんだ、知らなかったのか。ほれ、ここにおるではないか」
薊が示したのは、雲母だった。
「まったく、薊、本人に了承もなく個人情報を明かすとは何事ですか」
「減りはせぬ」
「いいえ、相手によっては私の自尊心が目減りするのですよ」
はあ、と雲母がため息をこぼした。その表情も、さっきまでとは打って変わって暗い。哀しみ、というよりも憂いを含んでる。
「雲母、さんはつまり、妖であると」
一応驚きはした。人間だと信じていたもなにも、その可能性は微塵も考えていなかった。
「あなたが、やれ化け物だ嘘つきだと罵倒するような人間じゃなくてなによりです」
「いやさすがにそこまでは……」
「とは仰いますが、人間も様々おりますゆえ。わけもなく恐がり敵対心を抱く人間はもなかには」
そう言われると不憫な気がしてきた。今のところ、雲母は多少怖いだけで、ただの麗人である。
「世知辛いですね」
「その点に関しては、運が悪かったと思うしかありません。人間同士でもひとの話をまったく聞かず、とにかく罵るだけの輩はおりますでしょう」
「まあ確かに。よくいる」
「自らのご都合によろしい世界だけで生きている者は、どこにでもいるのです。私たち妖も例外ではありません」
達観しているようで、辛辣なコメントに思えた。自虐的にも聞こえる。
ただ祖母のことばがそのまま当てはまる気がして、ほんのすこし、親近感が湧いた。
「それに我らは人間がおらぬと存在してゆけぬからな。ある程度のことは我慢するしかないのだ」
まさかの三つ目のモンブランにフォークを刺しながら、薊が明るく言った。
しかしそのことばの意味がよくわからなくて、疑問符が浮かぶ。人間がいないと存在できないとはどういうことだろうか。
そのときちょうど、時計が鳴った。この部屋にはなかったが、どこかに振り子時計があるのだろう。大きな音が三つ響いた。
「ちょうどお客さまがお見えになる時間です。あなたの疑問に思った点は仕事の内容にも関わってきますし、話を聞きながらご説明いたしましょう」
雲母が立ち上がる。その動きに合わせたかのように「ごめんください」という細い声が聞こえてきた。
洋間に入ってきたのは、桜鼠色の着物の女性だった。
全体的に色素が薄く、日の光に照らされた髪が飴色に光っている。顔は細面の一重で、日本人らしいというよりオリエンタルな雰囲気をかもしだしている。アルカイックスマイルが似合いそうだ。
ただ、その左目から額にかけて、火傷痕のようなひきつれた痣があった。結わえた髪の一部が、ほんのすこしそこへ影を落としている。
「はじめまして、百乃(ももの)と申します」
女性はたおやかにお辞儀をし、雲母のほうへ「お口にあいますかどうか」と風呂敷包みを差し出した。
「豆大福ではないか!」
それを横からさっと薊が奪い、歓喜の声をあげた。
俺には風呂敷に包まれていて中身が確認できないのだが、彼女は透視能力でもあるのだろうか。今にも食いださんといった雰囲気の薊を、雲母が「はしたない」とたしなめた。
「わざわざありがとうございます。せっかくだから皆でいただきましょう」
雲母が薊の手から奪い返した包みを解くと、確かに豆大福だった。俺も好きな、出町柳の和菓子屋のやつである。
雲母は興奮醒めやらぬ薊に器を用意してくださいと指示を出し、部屋から追い出した。
「紫苑、あなたもこちらに」
そして三日月紫苑を呼ぶ。彼は渋々と立ち上がり、俺の隣に距離を置いて座った。さすがに客人の前ではちゃんとするのだろうか。
薊がお盆に器を重ねて持って帰ってくる。
「茶も淹れなおしたぞ、偉いだろう!」と誉めてくれと言わんばかりの態度に誰も反応していなかったので、しかたなく俺が「気が利くな、ありがとう」と伝えておいた。ふふん、とまんざらでもなさそうで何よりだ。
雲母は手際よく豆大福をわけ、各々の席の前に並べた。
コの字型に配置されたソファの上座に百乃さん、残りが向き合っている形になる。
「雲母さま、このたびは機会を設けていただき、ありがとうございます」
雲母さま、という表現に思わず眉が寄ったものの、すかさずご本人からの鋭い視線をいただいて、顔の筋肉を意識的に弛緩させた。
「百乃は、私の遠い親族です」
「はい、雲母さまには幼いころからお世話になりまして、なにをやっても未熟な私にいつも優しくしてくださいました」
雲母のことばを受けて、百乃さんの表情がぱっと華やぎうれしそうに語ってくれたが、後半の部分が信じられなかったことは、黙っておくことにする。
「未熟なのではありません。ゆっくりなだけです」
そんなフォローを入れる姿に鳥肌がたってしまった。身内には甘いのだろうか。たしかに三日月紫苑に関しても、随分と持ち上げていた気がする。
「で、依頼は」
ふふふ、と恥ずかしそうに笑う百乃さんに、三日月紫苑が随分と無愛想に言う。無駄話はいいからさっさと話をしてくれと全身で物語っている。
場の空気が読めない、というよりもわかったうえで急かしている感がある。
薊は、豆大福に必死だった。雲母は、両手で湯飲みを包んでお茶を啜っている。これがデフォルトなのかもしれない。
「そうですね。そのために参りました」
百乃さんは気を悪くした様子などとんと見せず、優しく微笑んで三日月紫苑へと向き直る。
「私の、顔の痣を消していただきたいのです」
どうか、と彼女は頭を下げる。
依頼と言うよりも願いのようだった。
とてもシンプルでわかりやすい。顔の四分の一、とまではいかないものの、結構な大きさの痣は、女性にとってはつらいものだろうと容易に想像できる。
ただ問題は、どう解決するか、だ。話を聞いた限り、絵を描くと言っていたが、それがいったいどういうことなのか。
「百乃、申し訳ありませんが、今回仕事を請けるのはそちらの紫苑ではなく、ご学友の如月椿です」
ご学友、というところを妙に強調された気がする。同じコースなのだから間違ってはいないと思うが。そして三日月紫苑が雲母を睨んだ気がするのは気のせいではない。
「あら、そうでしたか。それは大変失礼をしました。椿さま、改めまして、どうぞよろしくお願い致します」
百乃さんは俺にも丁寧に頭を下げてくれたが、うなずいて良いのかがわからない。仕事の内容もわからないし、そもそもやるともまだ言っていない、気がする。
俺のその気持ちを読みとってくれたのか、雲母が「百乃」と彼女の頭を上げさせた。
「椿、あなたには絵を描いていただきたい」
そのうえで、雲母は俺に向き直る。
「それが彼女の願いとどういう関係を」
なぜか三日月紫苑がこちらを振り返った。その顔が怪訝と言うか不審者を見る目つきというか、とりあえず俺を疑っているかのような雰囲気を醸し出している。
「あなたが描くのは、彼女の肖像画です。痣のない、顔の」
「……つまり、彼女の願う姿を絵に描け、と」
はい、と雲母が頷いた。三日月紫苑はもうこちらを見てはいない。
「けどそれって、根本的な解決にはなってないんじゃ」
「そこで余の登場じゃ!」
つい今し方まで何個目かの大福を平らげていた薊が唐突に声を上げる。
さすがにびっくりして、ローテーブルに臑を打つ。そしてそれを三日月紫苑に笑われる。
雲母は何事もなかったかのように湯飲みを置いて、百乃さんに「ちょっと彼に説明をしますから」と断りを入れた。
「先ほど申し上げました通り、絵の出来映えや作風などは些末な問題です。はっきり言えば絵を描くのは紫苑でもあなたでもまったく構わない」
「じゃあ俺じゃなくても、雲母さんか薊が描けば……」
「阿呆なことを言いますな。これは仕事です。いくら出来映えが関係ないといえど、美しく描かれた絵と素人の落書きと、見たときにどちらがよろしいですか。ここにくる妖は皆、様々なことを胸に抱えております。表面上の問題を解決するだけが仕事ではありません。その胸の内までも晴らしてやるのが役目でしょう」
「……す、すみませんでした」
ちょっとした疑問にものすごい剣幕で返されてしまった。
ただ言わんとすることはわかる。外科手術をすれば済む話ではなく、きちんと相手の心のケアまで行う、ということだろう。そのために絵にも一定の技術は欲しい。たしかに、自分の姿がきれいに描かれていたら、うれしくはなるだろう。
「よろしい。話を戻しますが、絵を描いたあと、本当の意味での仕事を行うのは薊です」
「うむ、余は絵筆のつくも神だからな」
無限かと思われた彼女の胃袋も、ようやく満たされたらしい。モンブランと豆大福、いったいいくつあの小さな身体に入ったのやら。
「薊の由来ははぶきますが、彼女は絵を真実にすることができます」
「すごいだろう、余にかかれば百乃の痣などきれいに消せるのだ」
まるでひれ伏すが良い、といった感じで薊が立ち上がる。誰も相手にしないので、またしても俺が「よくわからんがすごい」と誉めておく。
そのとき百乃さんが、哀しそうに笑った気がした。見間違いかもしれないが、うつむき加減にしているせいで、そう見えただけだろうか。
「ということは、俺が痣のない絵を描いて、薊がなにかしたら、現実の百乃さんの痣は消えるってことか。それってすごいな」
彼女の様子が気にはなったものの、話を停滞させてもいけないと会話を続ける。しかし俺の最後のことばにまたしても三日月紫苑が鼻で笑った。
「左様。前もって説明しておきますが、この力は人間には効きません。あくまで妖だからです」
「え、なんで」
「ここに先ほどの薊のことばが関連してきます」
「人間がいないと存在できないっていう?」
「ええ、物覚えも良さそうで助かります」
にっこりと微笑まれたものの、誉められた気はしない。嫌みったらしくないだけましだけれど、素直に喜ぶ気持ちになれないのはなぜだろう。
「わかりやすく言えば、私たち妖を生み出したのは人間です」
「俺らが?」
「はい。あなたたち人間が、闇や病、災害を恐れたことによって、妖というものは生まれました。平たく言えば驚異は全てそういう妖がいて、そいつらの仕業である、と悪役を作ったのです」
「ああ、雷は神の怒りが、とかいう感じの」
「まあ神はまたすこし別ですが、だいたい、そういう認識で間違いではありません」
誰も口は挟まなかった。三日月紫苑にとっては既知のことなのだろう。
「そして妖が今もなお存在しているのは、あなたたたち人間が、その存在を知っているからです」
雲母は淡々と続ける。
「たとえばあなたは、妖狐という妖を知っていますか」
「え、ああ、一応」
「では妖狐とはどういった妖ですか」
「どういった……って、九尾の狐だっけ、ああいうイメージで尻尾が分かれていて……あとは美形というか妖艶にに描かれていることが多いような……あ、安倍晴明の母親が白狐だった気がする」
頭に出てくるのはすべて昨今のアニメや漫画で見たようなキャラクターたちばかりだった。さすがにそれを正直に述べてはなるまいとことばを選ぶ。
「結構。あなたのように人間の大多数が妖狐のイメージを持っている。それが重要です。それがたとえ畏敬の対象ではなく、コミカルなキャラクターだとしても、人間に忘れられないこと。それによって私たちは存在しうるのです」
「つまり俺たちが忘れれば存在も消えると」
「まさに。ありがたいことにあなたたち人間は私たちを漫画やアニメーションの世界に取り込んでくださいました。今しばらくは大丈夫かと思いますが、希少種ももちろんおります」
一応そこは遠慮をしたのだが、妖である本人に良しとされていた。意外と彼らは柔軟なのかもしれない。第一、自分たちの生命が関わっていることでもある。
「ちなみに私と百乃は妖狐の一族です」
「ああ、だからお二人とも美形なんですね……」
言われて納得する。キャラクターのように耳も尻尾もないけれど、イメージはできたしよく似合う。
「そういうことです」
「大層なご自信で……」
「違います、見た目の話ではなく、今のあなたが納得したことです。私自身の造作が整っていることなど、誰に言われずとも自分が一番理解しております」
ずばっと言われたことばに口が開いた。
ナルシストというレベルではない。雲母はそれに自惚れるわけではなく、単なる事実として認識している様子だ。
思わず隣を見る。視線に気づいてくれたのか、顔をすこし向けてくれたが、その顔だって整いすぎなぐらい整っている。その流し目に心が冷えた。
「私たちは人間のイメージで成り立っています。言い換えれば、あなたたちが持つイメージが変われば、私たちも変わるのです」
「妖狐はぶさいくだってなれば」
「そんなことは断固願い下げですが、大多数の認識がそうなれば変わるでしょう」
たとえが悪かったのは自覚している。雲母の視線が怖いが、百乃さんが俯いていた顔をあげて、ふふふと笑ってくれたので良しとする。
「余は雲母がぶさいくになっても構わぬぞ」
場の空気を読んでいるのかいないのか、薊が堂々とした態度を見せる。
しかしそんなありがたいことばも雲母は「想像なさるな」ぴしゃりとはねのけた。
「えーと、でもたとえば百乃さんの痣ってのは、妖のイメージの問題じゃなくて、個人の問題だよな」
これ以上ぶさいく論を続けてはならないと、話の先を促す。
「左様、薊が持つ力は、そのほんの一部だとお考えください。たとえあなたが百乃を猫又として描いても、種族を変えるほどの力はございません。せいぜい、妖と化す前の姿に戻すのが限界でしょう」
「個人的な問題は解決できるけれど、存在意義に関わるようなところまでは力は及ばない、と」
「はい。ですが人間はそもそもイメージで成り立っているわけではありません。様々な学説があるようですが、人類の発生は妖とは違うことははっきりするでしょう。なので、いくら薊が力を使ったところで影響はありません」
「おー、なるほど……」
わかったような、気がする。まあ全て理解していなくても、大体把握していたら大丈夫だろう。
「まあ余もそもそも朱門の力を具現化しただけだしな」
長話に飽きてきた子どものように、薊が足をばたばたとし出した。
「朱門?」
「いい加減、仕事の話に戻ってくれないか」
人の名か、と疑問を抱いたところで三日月紫苑が退屈そうに欠伸をした。ソファに全身をゆだね、今にも眠りそうな雰囲気だ。
「妖の成り立ちとか力の話とか必要ない。雲母はそいつに絵を描かせたいだけなんだから」
黙ってさっさとやらせればいい、と三日月紫苑は吐き捨てた。
「あ、俺が描くことには了承してくれたんだ」
「は?」
「いや、さっきはさっさと帰れとか言ってたから」
「今回の依頼主は雲母も同然だ。僕に選択権はない」
「なるほど、じゃあまあ仕事の話をするけれど」
愛想の悪い屋敷の主人はおいといて、百乃さんへと向き直る。
「百乃さんはなぜ、その痣を消したいんですか」
俺の質問に、百乃さんは動きを止め、三日月紫苑は「はあ?」と声をあげた。
「理由なんか必要ない。彼女が消したいと言っている、ならば消せばいい」
「いやいや、先ほど雲母さんも言ってたし。表面上の問題を解決するだけが仕事ではありません。その胸の内までも晴らしてやるのが役目でしょうって。そりゃ、痣を消した絵は描けるけども、それでおしまい、で彼女の願いは本当に達成するわけ?」
「僕はカウンセラーじゃない。依頼された絵を描くだけだ」
雲母も薊も百乃さんも、俺と三日月紫苑の言い合いを黙って見ていた。
雲母はお茶を啜っているし、薊は相変わらず足をぶらぶらさせている。百乃さんはどちらかというと口を挟めない、といった感じか。
「君はそれで良かったかもしれない。でも俺はそれじゃ気持ち悪い」
「気持ち悪いとか気持ち悪くないとかの問題じゃない。これはそういう仕事だ」
「そりゃ、彼女が死にたくなるほどその痣が憎い、っていうなら俺だってすぐにでも描く。でも実際はどうなのか聞いてみなきゃわからない」
「聞かなくたってわかる。あの痣だぞ」
三日月紫苑がそう言い放つと、百乃さんの手が動いた。自分の顔の痣を確かめるように、指先で触れている。
「けど彼女はその痣を隠そうとはしていない。確かに髪のバランスは左右で違うけれど、見せたくないほどのものなら、あんなに堂々と出しはしないだろう」
俺のことばに三日月紫苑は黙った。
ぱん、と音が響く。雲母が手を打ったようだ。
「ふたりでいくら言い争いをしても、それらは勝手な憶測でしかありません。ここに本人がいらっしゃるのですよ」
それは解決方法を示唆したようで、俺たちに対する忠告にも聞こえた。確かに、本人の目の前であれこれ想像でしかないことを言うのも良くなかった。
「百乃、話せますか」
雲母はやさしく、百乃さんに問いかけた。やはり身内には甘いのだろう。あの柔和な表情はきっと俺には向けられない。
「はい」と細い声が聞こえた。一瞬雲母のほうを見たが、すぐにこちらへと視線を移す。その瞳がどこかさみしげに見える。
「実は、見合いを控えております」
静かにしかしはっきりと、彼女は教えてくれる。
「お見合い、ですか」
「はい。両親が決めたものではあるのですが、お噂はかねがね伺っている方でして……その」
「会ったことはなくとも、双方まんざらでもない縁談なのです」
言い淀んだ先を、雲母は遠慮なく繋いできた。会ったことない相手と、と思わなくもないが、そこらへんはひとそれぞれだろう。いや、妖それぞれか。それに文化も違うかもしれない。
「ですが、両親が、せっかくの良い話でも、この痣では断られてしまうのではないかと申しまして」
「それで、消そうと?」
俺の質問に彼女は答えなかった。その代わりすこしだけ首を傾げながら、痣を触る。
「その、不躾な質問かとは思うんですが」
なにかが引っかかる。思い切ってぶつけてみることにする。
「痣があっては、相手に嫌われるかもしれないんですか」
「……さあ、どうでしょうか。やはり、殿方はうつくしい女性のほうが良い、のではないでしょうか」
「ええと、そこはどうなんでしょうか、雲母さん」
「なぜそこで私に振るのですか」
「いや、妖狐の間ではというか、妖の世界では文化が違うのかもしれない、と思って」
「では椿、あなたは今の百乃が醜いと思いますか」
「いや、全然。むしろ美人だと思います」
「妖も人間も、そう違わないものですよ」
雲母の答えは、ある意味助けになった。同じならば、俺でも意見は言えそうである。
「お見合い、のために痣を消そうと思ったってことは、今まではそれほど気にしてなかった、ってことですか」
「女心」
それまでちっとも話に興味を持ってなかったような三日月紫苑が急に口を開いた。しかしその口から女心なんて単語が出てきたことに正直びっくりする。
ただ言いたいことがわからなくもない。気になる相手との縁談、うまくまとめたい。そのために行動することだってあるとは思う。悪くはない。
幸せになりたいと思うことは、人間も妖も一緒だろう。
それでも俺には、彼女からそのために立ち上がってここに来た、という気概が感じられなかった。