京都あやかし絵師の癒し帖

「えーと、おじゃまします」
靴を脱ぎ、端に揃えておく。
雲母がにっこりと微笑んだ。昔から母に口酸っぱく言われていた習慣が活きた、のかもしれない。

雲母につれられ廊下を進む。華美さはないとはいえ、屋敷は広い。迷いそうである。

「紫苑」
辿りついたドアを開け、雲母が口を開いた。両開きのドアの向こうは洋間だ。床はフローリング。

名を呼ばれた本人は、気だるげに振り返った。今日も黒ずくめだ。外出時がそうなわけではなく、常に黒いらしい。
ドアの真向かい側が一面掃き出し窓になっていて、そこに置かれた椅子に三日月紫苑は座っていた。

そしてその目が、俺を捉えた途端。
「帰れ」
である。まあ、前にも関わるなとか言われていたし、なんとなく予想できた展開ではある。

「つめたいですよ、紫苑。せっかくあなたのご友人がこうして見舞いに」
見舞いだったのか、とつっこむべきか迷う。さらに言えば、友人かどうかもあやしい。

「友人なんかいない」
三日月紫苑はそう言ってぷいっと顔を背けてしまった。
その仕草が、やたら幼い。飛び級はないと思うから、最低でも高校は卒業していると思うのだが、まるで小学生みたいだった。

「そうやってあなたが拒否するからです。まあ、それはいいとして」
「いいのか、そこ」
「いいのです、本題は別ですから」

この美丈夫のキャラクターが本当にわからない。もしかしたら人をおちょくるのが好きなのだろうか。

三日月紫苑を見ると、そっぽを向いたままだった。顔は見えない。
窓の向こうにある庭はとてもきれいで眩しいのに、まるでただの影みたいだ。

お座りください、と雲母がソファを示した。革張りのソファセットにローテーブル。昔ながらの洋間セット、といった感じだった。ただそのソファの座り心地は恐ろしいほど良い。

「さて、主人である紫苑の態度は詫びるべきでしょうか」
はす向かいに雲母が腰を下ろす。
「いや、わかりきっていたので」

一応家主が三日月紫苑ということなのだろう。どう見ても目の前に座る人は使用人には見えないけれど、余計なことは言うまい。

「よろしい。ではさっそくですが、如月椿、あなたには絵を描いていただきたい」
「絵、ですか」
「左様、絵です。本来ならば紫苑が請け負うべきなのですが、生憎利き手を負傷しまして」
たっぷりと微笑む雲母に、寒気が走る。

しかし同時に理解する。この間ぶつかったときの怪我なのだろう。左手首を抑えていた覚えがあるから、つまり彼は左利きなのだ。

「……それは大変申し訳ありません」
「ええ。しかしそれに関してはとやかく言いますまい。紫苑自身の不注意もあったでしょう」
ここであれは俺にとっても不可抗力だったと言っても無駄なのだろう。

「しかし、困っているのは事実。ですので、代わりにあなたに絵を描いていただこうと」

理屈はわかる。本来絵を描くべき人間が怪我をしてしまった、ならば怪我をさせた奴に責任をとってもらおう。それは、俺でもそういう考えに至るだろう。

ただ問題はそこではない。

「その、言ってることはわかるんですが」
「飲み込みが早くて助かります」
「いや、了承したわけじゃなくって」
「おや、断ると?」
「いやいや、そうじゃなくって」
「ではどのようなお話でしょう」

今更過ぎるけれど、この人苦手だ。
「そもそも、俺でいいんですか」
かといって三日月紫苑は知らぬ存ぜぬを突き通している。
ここでお前なんかに代わりが務まるかとか一喝してくれたら話が早そうなのに、こういうときは突き放しにこない。いやむしろこの状況が突き放しているのか。

「……と、言いますと」
「いや、請け負うとか言ってたから仕事なんじゃないかと思って」
「ええ、仕事ですね」
「だったらほら、画風の違いというか、技術の違いというか……」
「あなたも紫苑と同じ芸術大学に通い日本画コースを選択していると存じますが」
「それはそうなんだけど……あー、もう単純に、三日月紫苑が仕事を請け負うってことはそれだけ奴は巧いんだろう、俺はそんな自信ないってこと」

まどろっこしい言い方は俺には向いていなかった。それにここではっきりさせておかないと、後から「こんなはずじゃなかった」とか言われてもつらい。

俺のことばに雲母は目を瞬かせた。しかしそれも一瞬で、なまめかしく小首を傾げる。
「紫苑と同じ大学試験を通過したことで、一定の技術はあると思いますが」
「それはそうだけど、四十人全員が同レベルだったらそれは奇跡だろう」
もちろん、三日月紫苑がどのあたりで、自分がどのあたりなのかはわからない。講義は開始したばかりだし、まだ彼の作品を見たこともない。

なるほど、と雲母はうなずいた。そしてゆっくりと立ち上がって、後ろにあるキャビネットを開ける。
「紫苑、一冊失礼しますよ」
未だ顔を背けている三日月紫苑に雲母が声をかけると「勝手にしろ」とのおことばが返ってきた。
その手にあるのはスケッチブックである。そんなに古くはなさそうだ。

「どうぞ、ご覧ください」
雲母はそう言って、ローテーブルにスケッチブックを置いた。流れからして三日月紫苑のものなのだろう。

単純に興味もあったし、俺は遠慮なくそれを手にする。

そして、絶句する。

一ページ目に描かれていたのは、ちょうどこの洋間から見える庭の景色だった。彩色はない。スケッチのつもりで描いたのだろうか。思わず視線を上下させて確認するが、疑いたくなるほどそのままである。

次のページをめくろうとして、ちらっと見えた絵がエッシャーの絵に似ていたので、そのまま閉じてテーブルへと置き直した。

同じ試験をパスしたとしても、三日月紫苑と自分では天と地以上の差がある。ありすぎる。
そしてどう考えてもこの代わりは無理である。筆致の正確さもさることながら、どうやったらあんな風に陰影を表現できるのだろう。

いかがですか、などと雲母は聞いてこなかった。聞かずともわかったに違いない。

三日月紫苑を見るが、彼はやっぱりこちらに反応しない。あの堂々たる自信は、きちんと技術が裏打ちされていた。

「すみませんがどう考えても無理です」
自分だって、芸大に行きたいと思っただけの、絵に対する熱意も努力もある。
だからといって自分が一番だと思ったこともない。芸大に入れば、俺よりすごい奴なんていくらでもいるんだろうなとも覚悟していたつもりだ。

しかし、格が違う。たぶん俺は、一生あの場所には辿りつけない。
今後、様々な講義で彼の絵を見ることになるだろう。そしてそのたびに、自分には到達できない領域があることを思い知るーーそう思ったら、身震いした。
そんな俺を、雲母は笑った。慈愛は一切感じられない。ただの笑みだ。

「気になさらなくて結構。重要なのは絵の技術や出来映えではありません」
「ならなんで見せたんだ……」
「あなたが気にしておりましたので。しかし、自分を弁えておくことは大切かと」
「身の程を知れと」
「如何にも。申し訳ありませんが、あなたでは一生、紫苑に追いつくことはないでしょう」

あまりにもはっきりと言われ、傷つく余韻もなかった。
自分でもそれはさっき理解したが、こういうところが俺は競争心が薄くてだめなのかもしれない。

「随分、主人を買ってるんだな」
嫌みではない。本心だった。長いため息が出る。
「ええ、生まれたときから存じておりますゆえ。それに、あなたと紫苑では、絵に対する覚悟が違う」
「雲母」
ここで初めて、三日月紫苑が口を挟んできた。
視線をやると、無表情のまま雲母を見つめている。余計なことを言うな、といった感じだろうか。

「失礼、少々話が過ぎました。戻しますが、とにかくあなたに絵を描いてもらわねばなりません」
「あと数日もすれば僕が描ける。そんな奴に頼まなくても」
一度会話に入ったせいなのか、三日月紫苑は静かに語った。そんな奴と言われたことは今は反論しないが覚えておく。

「あと数日、では困るのです。今日、もしくは明日です」
「じゃあ明日描く」
「箸すら持てない人がなにを言うのですか」

ぴしゃっと、切り捨てられた三日月紫苑は、びっくりするぐらいわかりやすく拗ねた。唇をきゅっと結んだ姿ですら、美形は様になるらしい。

「箸すら持てないってそんなにひどかったのか、すまん」
確かにその華奢な身体で男にぶつかられ共に転げたのなら、手首ぐらいあっさり折れそうである。ギプスをしていいる様子はないけれど。

「別にいいと言っている。しつこい」
ようやく俺に対してことばを返してくれたが、相変わらずだった。
「そもそも、こいつに仕事のことを知られて面倒なことになったらどうする」
椅子の肘掛けにもたれて、ふてぶてしく三日月紫苑が言った。その言葉がいろいろ引っかかる。

「その点はご心配なく。仕事はこの一回のみ。終わり次第、忘却の術をかけておきますので」
「終わった後のことはいいが、それ以前に、こいつに話が通じるかどうか」
「通じるかどうかではありません。通すのです」
「いやいやいや、ちょっと待ってくれ、途端に話があやしいんだが」

ふたりの会話からわかるのは、仕事がやばそうだということなのだが、忘却の術ってなんだ。術ってなんだ。こいつらなにやってるんだ。

「あやしい、とは心外ですね」
そう雲母が眉間に皺を寄せているけれど、そのほうが心外だ。
中性的な美形が豪邸にふたり。仕事を知られたら面倒。忘却の術。話が通じるかどうか。

「いやどう考えてもあやしいだろ」
心の声がそのまま口を出る。
三日月紫苑は「ほら見ろ」と言わんばかりに雲母を見ている。対して雲母はふう、とため息をつく。
「あやしくなどありません。紫苑の仕事は妖を助けることですから」

あやかし。

はす向かいに座る美丈夫は、確かに今そう言った。

妖、というのはあれか、漫画やアニメに出てくる、妖怪のこと、だろうか。

「紫苑、雲母! 余のモンブランが消えておるぞ!」
会話を反芻している間に、洋間の扉が勢いよく開かれた音がした。同時に少女の声が聞こえる。
「ぬ、なんだ人間がおるのか」

そろそろと背にある扉を振り返る。
そしてますます、頭が混乱する。
そこに立っていたのは、小学校低学年ぐらいの女の子だった。不思議の国のアリスから出てきたかのような。まったくもってこの場に似合わない、所謂幼女が出てきた。

「薊(あざみ)、紹介します。紫苑の代わりに絵を描く如月椿です」

確かに同居人があとひとりいるとは言っていた。それが彼女なのだろうか。水色のワンピースに艶やかな黒髪。顔立ちは幼いものの整っている。

「そちが椿か。余は薊。つくも神だ。よろしく頼もう」

俺は今、いったいどこにいるのだろう。というか夢でも見てるのだろうか。仁王立ちしている少女は今はっきりとつくも神、と言った。

三日月紫苑に視線で助けを求めてみたものの、目をそらされた。

「それよりも雲母、モンブランだ。モンブランがないのだ」
「大丈夫です、ちゃんとありますから。まあ、彼も混乱しているようですし、一度お茶にでもしましょう。薊、手伝ってください」
「承知した!」

幸い、雲母に今の俺の状態は伝わっているようだった。二人は扉の向こうに去り、穏やかな日差しが差し込む部屋に、三日月紫苑と残される。

「なあ、お前、なんかすごいのと住んでるんだな……」
このいかんともしがたい気持ちをすこしでも吐露したいと、無視されること覚悟で話しかける。

三日月紫苑は、一瞬だけこちらを見てから、ため息をついた。

「ジジィが悪趣味なんだ」
返ってきたことばの、意味はさっぱりわからない。ただ返事があっただけありがたい。

「そうか、大変だな」
俺自身もわけのわからない相槌をうって返す。

数秒後、ふたり同時にため息をついたのが、なんだか印象深かった。
豊かな香りの日本茶にモンブラン。

目の前には美丈夫と和洋折衷幼女。

離れた席に黒ずくめの不機嫌少年。

今朝の自分は、今日こんなことになるなんて、まったく、これっぽっちも予想していなかっただろう。

「えーと、つまり、この屋敷には悩みを抱えた妖がやってくるから、それを解決するのが仕事だと。で、その解決方法が絵を描くこと、と」
お茶をいただきながら聞いた話をまとめるとこうだった。

「ええ、まあそうなりますか。飲み込みが早くて助かります」
優雅にお茶をすすりながら雲母が微笑んだ。
その横で薊がモンブランをがっつきながら「椿は賢いのだな」などと言っている。賢いわけではない、理解できないからことばのままを受け取っているだけだ。

「それ以前にお前、疑問に思うことはないのか」
窓際の席でけだるそうに三日月紫苑が口を開く。なんだか猫みたいだな、と思ってしまった。もちろん黒猫だ。

「疑問、はいろいろあるけども、いちいちつっこんでたら身がもたないというか」
「ずれてる。普通、妖ってなんだとか嘘だとか言う」

言われてみればそうなのだが、と目の前で口の周りにクリームをつけている幼女を見る。

「余は妖ではないぞ。つくも神だ」
俺の視線に気づいた薊が胸を張って言うものの、説得力にはいまいち欠ける。第一なんのつくも神なのだろう。

まあそれはさておき、三日月紫苑が言わんとすることがわからないわけでもない。妖なんて、まあつくも神も含め、非現実的な存在だ。限りなくフィクションで、実際に目にしたこともない。とりあえず今までは。

「いや、なんていうか、小さい頃からばあちゃんによく言われてたから」
雲母の視線がこちらに向く。

「ばあちゃんにとっては、神様とか妖とか当たり前の存在だったみたいで。だからなんというか……頭ごなしに否定できないと言うか」

幼かった頃は、それこそ祖母の言う妖が夜中に襲ってきやしないかと不安になったこともあった。でも祖母はいつでも「彼らは人間となんにも違わない」と言っていた。

ふうん、と興味なさそうに三日月紫苑は欠伸をした。聞いておいて失礼な奴である。

「いるのかもしれない、ではない。いるのだ。今も椿の目の前におるではないか」
二つ目のモンブランを平らげた薊がお茶を飲み干し他と同時に口を開いた。本人はつい今しがた「妖ではない」と宣言している。

つまり。と残りふたりを見比べる。どちらも人間にしか見えない。

「なんだ、知らなかったのか。ほれ、ここにおるではないか」
薊が示したのは、雲母だった。

「まったく、薊、本人に了承もなく個人情報を明かすとは何事ですか」
「減りはせぬ」
「いいえ、相手によっては私の自尊心が目減りするのですよ」

はあ、と雲母がため息をこぼした。その表情も、さっきまでとは打って変わって暗い。哀しみ、というよりも憂いを含んでる。

「雲母、さんはつまり、妖であると」
一応驚きはした。人間だと信じていたもなにも、その可能性は微塵も考えていなかった。
「あなたが、やれ化け物だ嘘つきだと罵倒するような人間じゃなくてなによりです」
「いやさすがにそこまでは……」
「とは仰いますが、人間も様々おりますゆえ。わけもなく恐がり敵対心を抱く人間はもなかには」

そう言われると不憫な気がしてきた。今のところ、雲母は多少怖いだけで、ただの麗人である。

「世知辛いですね」
「その点に関しては、運が悪かったと思うしかありません。人間同士でもひとの話をまったく聞かず、とにかく罵るだけの輩はおりますでしょう」
「まあ確かに。よくいる」
「自らのご都合によろしい世界だけで生きている者は、どこにでもいるのです。私たち妖も例外ではありません」

達観しているようで、辛辣なコメントに思えた。自虐的にも聞こえる。
ただ祖母のことばがそのまま当てはまる気がして、ほんのすこし、親近感が湧いた。

「それに我らは人間がおらぬと存在してゆけぬからな。ある程度のことは我慢するしかないのだ」
まさかの三つ目のモンブランにフォークを刺しながら、薊が明るく言った。

しかしそのことばの意味がよくわからなくて、疑問符が浮かぶ。人間がいないと存在できないとはどういうことだろうか。

そのときちょうど、時計が鳴った。この部屋にはなかったが、どこかに振り子時計があるのだろう。大きな音が三つ響いた。

「ちょうどお客さまがお見えになる時間です。あなたの疑問に思った点は仕事の内容にも関わってきますし、話を聞きながらご説明いたしましょう」
雲母が立ち上がる。その動きに合わせたかのように「ごめんください」という細い声が聞こえてきた。

 
洋間に入ってきたのは、桜鼠色の着物の女性だった。
全体的に色素が薄く、日の光に照らされた髪が飴色に光っている。顔は細面の一重で、日本人らしいというよりオリエンタルな雰囲気をかもしだしている。アルカイックスマイルが似合いそうだ。

ただ、その左目から額にかけて、火傷痕のようなひきつれた痣があった。結わえた髪の一部が、ほんのすこしそこへ影を落としている。

「はじめまして、百乃(ももの)と申します」
女性はたおやかにお辞儀をし、雲母のほうへ「お口にあいますかどうか」と風呂敷包みを差し出した。

「豆大福ではないか!」
それを横からさっと薊が奪い、歓喜の声をあげた。
俺には風呂敷に包まれていて中身が確認できないのだが、彼女は透視能力でもあるのだろうか。今にも食いださんといった雰囲気の薊を、雲母が「はしたない」とたしなめた。

「わざわざありがとうございます。せっかくだから皆でいただきましょう」
雲母が薊の手から奪い返した包みを解くと、確かに豆大福だった。俺も好きな、出町柳の和菓子屋のやつである。

雲母は興奮醒めやらぬ薊に器を用意してくださいと指示を出し、部屋から追い出した。

「紫苑、あなたもこちらに」
そして三日月紫苑を呼ぶ。彼は渋々と立ち上がり、俺の隣に距離を置いて座った。さすがに客人の前ではちゃんとするのだろうか。

薊がお盆に器を重ねて持って帰ってくる。
「茶も淹れなおしたぞ、偉いだろう!」と誉めてくれと言わんばかりの態度に誰も反応していなかったので、しかたなく俺が「気が利くな、ありがとう」と伝えておいた。ふふん、とまんざらでもなさそうで何よりだ。

雲母は手際よく豆大福をわけ、各々の席の前に並べた。

コの字型に配置されたソファの上座に百乃さん、残りが向き合っている形になる。

「雲母さま、このたびは機会を設けていただき、ありがとうございます」
雲母さま、という表現に思わず眉が寄ったものの、すかさずご本人からの鋭い視線をいただいて、顔の筋肉を意識的に弛緩させた。

「百乃は、私の遠い親族です」
「はい、雲母さまには幼いころからお世話になりまして、なにをやっても未熟な私にいつも優しくしてくださいました」
雲母のことばを受けて、百乃さんの表情がぱっと華やぎうれしそうに語ってくれたが、後半の部分が信じられなかったことは、黙っておくことにする。

「未熟なのではありません。ゆっくりなだけです」
そんなフォローを入れる姿に鳥肌がたってしまった。身内には甘いのだろうか。たしかに三日月紫苑に関しても、随分と持ち上げていた気がする。

「で、依頼は」
ふふふ、と恥ずかしそうに笑う百乃さんに、三日月紫苑が随分と無愛想に言う。無駄話はいいからさっさと話をしてくれと全身で物語っている。
場の空気が読めない、というよりもわかったうえで急かしている感がある。

薊は、豆大福に必死だった。雲母は、両手で湯飲みを包んでお茶を啜っている。これがデフォルトなのかもしれない。

「そうですね。そのために参りました」
百乃さんは気を悪くした様子などとんと見せず、優しく微笑んで三日月紫苑へと向き直る。

「私の、顔の痣を消していただきたいのです」
どうか、と彼女は頭を下げる。

依頼と言うよりも願いのようだった。
とてもシンプルでわかりやすい。顔の四分の一、とまではいかないものの、結構な大きさの痣は、女性にとってはつらいものだろうと容易に想像できる。

ただ問題は、どう解決するか、だ。話を聞いた限り、絵を描くと言っていたが、それがいったいどういうことなのか。
「百乃、申し訳ありませんが、今回仕事を請けるのはそちらの紫苑ではなく、ご学友の如月椿です」

ご学友、というところを妙に強調された気がする。同じコースなのだから間違ってはいないと思うが。そして三日月紫苑が雲母を睨んだ気がするのは気のせいではない。

「あら、そうでしたか。それは大変失礼をしました。椿さま、改めまして、どうぞよろしくお願い致します」
百乃さんは俺にも丁寧に頭を下げてくれたが、うなずいて良いのかがわからない。仕事の内容もわからないし、そもそもやるともまだ言っていない、気がする。

俺のその気持ちを読みとってくれたのか、雲母が「百乃」と彼女の頭を上げさせた。

「椿、あなたには絵を描いていただきたい」
そのうえで、雲母は俺に向き直る。

「それが彼女の願いとどういう関係を」

なぜか三日月紫苑がこちらを振り返った。その顔が怪訝と言うか不審者を見る目つきというか、とりあえず俺を疑っているかのような雰囲気を醸し出している。

「あなたが描くのは、彼女の肖像画です。痣のない、顔の」
「……つまり、彼女の願う姿を絵に描け、と」
はい、と雲母が頷いた。三日月紫苑はもうこちらを見てはいない。

「けどそれって、根本的な解決にはなってないんじゃ」
「そこで余の登場じゃ!」
つい今し方まで何個目かの大福を平らげていた薊が唐突に声を上げる。
さすがにびっくりして、ローテーブルに臑を打つ。そしてそれを三日月紫苑に笑われる。

雲母は何事もなかったかのように湯飲みを置いて、百乃さんに「ちょっと彼に説明をしますから」と断りを入れた。

「先ほど申し上げました通り、絵の出来映えや作風などは些末な問題です。はっきり言えば絵を描くのは紫苑でもあなたでもまったく構わない」
「じゃあ俺じゃなくても、雲母さんか薊が描けば……」
「阿呆なことを言いますな。これは仕事です。いくら出来映えが関係ないといえど、美しく描かれた絵と素人の落書きと、見たときにどちらがよろしいですか。ここにくる妖は皆、様々なことを胸に抱えております。表面上の問題を解決するだけが仕事ではありません。その胸の内までも晴らしてやるのが役目でしょう」
「……す、すみませんでした」

ちょっとした疑問にものすごい剣幕で返されてしまった。

ただ言わんとすることはわかる。外科手術をすれば済む話ではなく、きちんと相手の心のケアまで行う、ということだろう。そのために絵にも一定の技術は欲しい。たしかに、自分の姿がきれいに描かれていたら、うれしくはなるだろう。

「よろしい。話を戻しますが、絵を描いたあと、本当の意味での仕事を行うのは薊です」
「うむ、余は絵筆のつくも神だからな」

無限かと思われた彼女の胃袋も、ようやく満たされたらしい。モンブランと豆大福、いったいいくつあの小さな身体に入ったのやら。

「薊の由来ははぶきますが、彼女は絵を真実にすることができます」
「すごいだろう、余にかかれば百乃の痣などきれいに消せるのだ」
まるでひれ伏すが良い、といった感じで薊が立ち上がる。誰も相手にしないので、またしても俺が「よくわからんがすごい」と誉めておく。

そのとき百乃さんが、哀しそうに笑った気がした。見間違いかもしれないが、うつむき加減にしているせいで、そう見えただけだろうか。
「ということは、俺が痣のない絵を描いて、薊がなにかしたら、現実の百乃さんの痣は消えるってことか。それってすごいな」
彼女の様子が気にはなったものの、話を停滞させてもいけないと会話を続ける。しかし俺の最後のことばにまたしても三日月紫苑が鼻で笑った。

「左様。前もって説明しておきますが、この力は人間には効きません。あくまで妖だからです」
「え、なんで」
「ここに先ほどの薊のことばが関連してきます」
「人間がいないと存在できないっていう?」
「ええ、物覚えも良さそうで助かります」

にっこりと微笑まれたものの、誉められた気はしない。嫌みったらしくないだけましだけれど、素直に喜ぶ気持ちになれないのはなぜだろう。

「わかりやすく言えば、私たち妖を生み出したのは人間です」
「俺らが?」
「はい。あなたたち人間が、闇や病、災害を恐れたことによって、妖というものは生まれました。平たく言えば驚異は全てそういう妖がいて、そいつらの仕業である、と悪役を作ったのです」
「ああ、雷は神の怒りが、とかいう感じの」
「まあ神はまたすこし別ですが、だいたい、そういう認識で間違いではありません」

誰も口は挟まなかった。三日月紫苑にとっては既知のことなのだろう。

「そして妖が今もなお存在しているのは、あなたたたち人間が、その存在を知っているからです」
雲母は淡々と続ける。

「たとえばあなたは、妖狐という妖を知っていますか」
「え、ああ、一応」
「では妖狐とはどういった妖ですか」
「どういった……って、九尾の狐だっけ、ああいうイメージで尻尾が分かれていて……あとは美形というか妖艶にに描かれていることが多いような……あ、安倍晴明の母親が白狐だった気がする」

頭に出てくるのはすべて昨今のアニメや漫画で見たようなキャラクターたちばかりだった。さすがにそれを正直に述べてはなるまいとことばを選ぶ。

「結構。あなたのように人間の大多数が妖狐のイメージを持っている。それが重要です。それがたとえ畏敬の対象ではなく、コミカルなキャラクターだとしても、人間に忘れられないこと。それによって私たちは存在しうるのです」
「つまり俺たちが忘れれば存在も消えると」
「まさに。ありがたいことにあなたたち人間は私たちを漫画やアニメーションの世界に取り込んでくださいました。今しばらくは大丈夫かと思いますが、希少種ももちろんおります」

一応そこは遠慮をしたのだが、妖である本人に良しとされていた。意外と彼らは柔軟なのかもしれない。第一、自分たちの生命が関わっていることでもある。

「ちなみに私と百乃は妖狐の一族です」
「ああ、だからお二人とも美形なんですね……」

言われて納得する。キャラクターのように耳も尻尾もないけれど、イメージはできたしよく似合う。

「そういうことです」
「大層なご自信で……」
「違います、見た目の話ではなく、今のあなたが納得したことです。私自身の造作が整っていることなど、誰に言われずとも自分が一番理解しております」

ずばっと言われたことばに口が開いた。
ナルシストというレベルではない。雲母はそれに自惚れるわけではなく、単なる事実として認識している様子だ。

思わず隣を見る。視線に気づいてくれたのか、顔をすこし向けてくれたが、その顔だって整いすぎなぐらい整っている。その流し目に心が冷えた。