「日比野くんっ」
「はい? ……あっ、えっ?」
その声に耳を疑って顔を上げると、一瞬で現実に引き戻された。森下さんが僕の前
に立ち、話しかけてきたのだ。
彼女と電車で会うのは初めてだった。同じ駅から乗っているはずだけど、駅でも
会ったことはない。
「ああ驚いた。おはよう、森下さん」
「あの……」
「うん?」
「ご、ごきげんよう」
彼女は、胸の前で手のひらを僕に向けてそう挨拶をした。
「あの、それ無理して使わなくていいんだよ? あ、隣、座る?」
「ありがとう。でもこれ、まだちょっと慣れてないだけで気に入ってるんだよ」
彼女は僕の隣に座ると、はにかんで答えた。
その笑顔を見て嬉しくなる。僕が教えた挨拶を、本当に気に入っているんだと感じたから。
「そう、それならいいけど。それにしても、電車で会うのは初めてだね」
「そうだね。この駅でしばらく停車するけど、いつもこの電車なの?」
そう話しているとしばらく止まっていた電車が、ゆっくりと動き始めた。
「そうだよ。僕は電車が来たらすぐに乗ってる」
「いつもこの車両?」
僕が「うん」と答えると、彼女が「やっぱり」と言いながらハンカチを取り出し、汗を拭いた。
「私は結構ぎりぎりになっちゃうんだ。
最近は、日比野くんに会わないかなって思いながら毎日いろんな車両に乗ってて、今日やっと見つけたの」
なんと、彼女が僕のことを毎朝探してくれていたという。
その事実に心が温かくなったけど、このプラスの感情はさすがに言葉にして伝えることはできなかった。
「そうなんだ。ほかの友達はいないの?」
思わず口元がゆるみそうになるのを堪えつつ、僕は彼女が教室でよく話している数人の女子の顔を思い浮かべて尋ねた。
「この電車に乗ってる人はいないよ」
友達のついででもなく、自分を探してくれていたことにドギマギしてしまう。
照れくさくなって、僕は話題を変えることにした。
僕と彼女をつないでいる、あの物語の話に。
「昨日、君の物語を読んで、白鳥の場面の最後の一枚を描き始めたよ」
森下さんは、嬉しそうに頬をほんのり赤くして笑顔になった。
仲間のために自分の力を最大限に発揮して、そのがんばりが報むく
われた白鳥。
僕は彼に対する尊敬を込め、達成感に満ちた表情を描いた。うまくできたと思う。描き上げたとき、自分もこんな風になれたらな、と思った。
「いつもありがとう。でも最近夜も暑くて、大変だよね?」
「ううん、部屋の風通しがいいから、そんなに暑くないよ。
それに毎日すごく楽しく描かせてもらってる。こちらこそありがとう」
それは本心だった。今度はプラスの感情を伝えられたことに安堵する。
この、素直に言葉にできる感情とできない感情の差はなんなんだろう?
「シベリアとか書いちゃったから、大変じゃない?」
彼女は、申し訳なさそうに尋ねる。
「いや、全然。すんなり頭に浮かんだし、描きやすいよ。
でも不思議なんだ。僕はシベリアに行ったこともないし、
写真でも見た記憶がない。それなのにネットで画像を見てみたら、
僕の想像どおりだった」
「もしかしたら、日比野くんの記憶がない頃に見たのかな」
「そうかもね。そういう不思議な感覚って、結構あるよ。
例えばさ、僕の部屋にはなぜか分厚い医学の本があってね。
買った記憶も読んだ記憶もまったくないんだ。
小学生の頃の自分は、医者にでもなりたかったのかな」
「それは確かに不思議だね。
私もどうしてそんな本があるのか、気になるなあ」
そして、彼女は以前と同じことを口にする。
「早く、記憶が戻るといいね」
「うん、ありがとう。それにしても、君の物語は読んでいるとどんどん引き込まれる。
描いていて飽きることがないよ」
僕はまた、話題を物語に戻す。
「それならよかった。飽きちゃったらどうしようって、心配してたから」
「そんなことは絶対ないよ。相変わらず、男の子に自分の姿を重ねて読んでる」
僕には、今の自分に必要なものを、物語が教えてくれている気がしていた。それを森下さんに伝えたかった。
「なにか、日比野くんに変化はあった?」
「うん。イルカのところを読んで、
『自分は誰のためになにをがんばればいいんだろう?』って考えてみたんだ」
彼女は一瞬、目を大きくして驚いていたけど、すぐに「ふふっ」と嬉しそうに笑った。
そして興味深そうに聞いてくる。
答えは見つかった?」
「うん。……まず、サッカーは仲間のため。
あと、監督のため。
監督と話して、自分がしてもらっていることがたくさんあったことに気が付いたんだ。
そうすると一気にさ、この人のためにもがんばりたいって思えたよ」
隣に座る彼女を見ると、ひざから下を軽く前後に振りながらただ嬉しそうに聞いてくれていた。なんだか子どもみたいでかわいい。
「あと、誰かのためにがんばるのも、結局自分の成長とか、新しい気付きとか、自分のためになるんだってことにも気付いた。
これは、君のおかげだよ」
「私?」
彼女は目を丸くして、ベージュの眼鏡の位置を直した。
「うん。森下さんのためにと思って描き始めたけど、最近じゃ僕が得ているもののほうが多いんじゃないかって思うくらいなんだ」
彼女の方に少しだけ体を向けて小さく頭を下げつつ「ありがとう」と言うと、彼女も礼儀正しく膝を揃えて僕に「こちらこそ」と頭を下げた。
その動作がかわいらしい。
「あの男の子が、これから自分のどんな可能性を見つけていくのか、すごく楽しみだよ。
僕も、あの話を読むまで、ただ皆のためにガムシャラにがんばろうとしていたんだ。
でもそれだけじゃ足りないことを学んで、今では自分の可能性についてしっかり
と考えながら練習していこうと思った。
まだ、それは見つけられていないけどね」
「日比野くんのいいところは、そういうところだね」
「え?」
首を傾げると、彼女がやわらかく微笑んだ。
「素直なところ。
もし、私の物語を別の誰かが読んだとしても、日比野くんと同じように素直に登場人物に共感して、学んで、実行しようとは思わないんじゃないかな」
そういう褒められ方をしたことは今までないので、僕は驚いた。
「それはたまたま君の物語が僕にとって共感できるものだったからだと思うけど」
「ううん、たとえ共感できたとしても、なにかに気付いて行動する人はそう多くはないと思う。
日比野くんの素直さってすごく大切な才能だよ」
「あ、ありがとう……」
僕は照れ臭かったけれど、森下さんがそう言ってくれるならと、素直に納得することにした。
僕のいいところは、素直さ?
それならせめて、そのよさは失わずにいたい。
そう思った。
その日の部活中、僕は自分の可能性を探していた。
チームのため、仲間のため、監督のため。
そのみんなと喜びを共有したい自分のために、自分にできることはなんだろう。
……試合に出るしかない。
スタメンになるために練習をがんばるのではない。
ただ、試合に出ること以外に僕の可能性を見出したとしたら、それは逃げになる。
だから僕は、あくまで選手として、チームに貢献したいと思った。
もうすぐ夏休みに入る。
そこでたくさん練習試合をする機会があるから、まずはそこで少しでも多く試合の経験を積みたい。
そんな思いで、練習に臨んでいた。
また、AチームとBチームのゲーム形式の練習だ。
僕はまだBチーム。ガムシャラにがんばるのではなく、自分のできることを探してそれに集中する。
僕にできることは、なんだろう。自分に、できることは……。
そこで、考えた。僕がディフェンダーを好んでしているのはなぜなのか。
それは、攻めることよりも守ることに、選手としてのやりがいを感じているからだ。
相手の攻めからゴールを守り続けると、いつかはボールを奪い返すチャンスがやってくる。
僕はその瞬間を思い描きながら、ボールと、相手の動きを目で追っていた。
そのとき、グラウンド中央から、Aチームのロングパスが飛んだ。
僕はそれを阻止しようとしたが一歩及ばず、パスを通してしまった。
けれどすぐにそれ以上自由に走らせまいと、相手にピッタリと張り付いて守り続けた。
長い距離を走ったあとなので、息が苦しい。
足がだんだん重たくなってくる。
だが、ここで力を抜けばたちまちドリブルでかわされてしまうと思い、足を動かし続けた。
一瞬、ボールを持っている相手が僕の後ろを見た。
激しい足音が近づいてくる。ものすごいスピードだ。
Aチームの選手が走り込んできているのを感じ、振り返る。
……相良だ!
走り込んでいる彼を味方のディフェンスも追ってはいるが、追いついていない。相良がボールを受け取ろうと僕の方へ走ってくる。
その瞬間、僕の目の前からパスが放たれた。
今までの僕だったら、そこで相良の方へ突っ込んでいたのかもしれない。
しかし、ガムシャラにやっても、技術のない今の僕には相手のボールを奪うことはもちろん、攻撃を止めることさえできない。
僕は、必死に状況を把握することに努めた。
そして、軽やかなトラップでボールを受け止めた相良と、目が合った。
僕は彼の方に勢いよく一歩踏み出す。
相良だったら、こんなとき……。
僕は二歩目を、相良の方ではなく、ゴールのある中央のスペースに踏み出した。
……それと、相良がゴールに向かって短いパスを放ったのは、同時だった。
僕には、Aチームの選手が背後を回り込んでいる姿が見えていたのだ。
そして相良はその味方にパスを出すだろうと、とっさにに判断した。
僕が足を踏み出したことで不意をつかれた相手は、一瞬たじろぐ。
そしてボールを受け取る瞬間、僕のスライディングタックルを受けることになった。
僕の足が、ボールを真正面からとらえる。
はじかれたボールは、相良を追っていた味方の選手に届けられる。
攻守が入れ替わる瞬間だ。
そしてそのまま、今まで守りに戻ってきていた選手が一斉に相手ゴールへと走り出した。
Aチームの選手はまだ守りに戻ってきていない。
パスを出せる選択肢が無数にあった。
……その勢いで、Bチームとしては久しい先制点を奪うことに成功したのだった。
守りは、攻撃の起点。
勢いのある相手の攻撃をうまく止めたとき、チームには一体感が生まれる。
……その瞬間が、僕は好きなのだ。
だから、僕はディフェンダーをしている。
そのことを、感覚的に思い出すことができた瞬間だった。
「ナイスでした、立樹さん!」
ゴール後、僕がパスをつないだBチームの後輩がハイタッチを求めてきた。僕はそれに応える。
パシン、といい音が奏でられた。