朝から気になっていたこと。僕は、なぜサッカー部に入ったのか。
その答えは、〝好き〞という気持ち。ただそれだけだった。
両親がいないのに、そのことを感じさせないほど明るく強い友達のことを好きになり、
彼がしているスポーツに興味を持った。
温かく接してくれる先輩たちが好きになった。
『ワンフォアオール、オールフォアワン(ひとりがみんなのために、みんながひとり のために)』
という部の訓示があり、それを好きになった。
なんとしてもゴールを阻止するために身体を張ってチームのピンチを救う、ディフェンダーというポジションが好きになった。
僕は、サッカーにまつわるいろいろなものを好きになったから入部したんだった。
でも最近は、そんなサッカーをつらいと思って練習していた。
そんな考えじゃ、スタメンになれなくて当然だ。
スタメンは〝好き〞という気持ちを持って、
自分の意思で一生懸命に練習した結果としてついてくるものだ。
『スタメンになるためにがんばる』は、
僕のやる気を高めるモチベーションになんてなってい なかったんだと気付いた。
僕は、あの絵本の中のイルカと、主人公の男の子のことを思い出した。
……ふたりとも、自分を信じてくれる大切な人のためにがんばっていたな。
僕がサッカーをがんばることは、誰のためになるんだろう。
仲間のため。
チームのため。
そうだ。
僕は、自分のためじゃなく、自分が好きな、 仲間のためにがんばろう。
僕は、立ち上がり、再びシュート練習を始めた。
「ごきげんよう。日比野、今日もがんばっとるな」
「監督、おはようございます」
すると、遠山監督がグラウンドに出てきていた。
ああおはよう、と言うと監督はグローブをはめ、ゴールの前に立った。
「一発蹴ってみい」
「えっ」
僕は驚いた。監督は、僕にシュートを打つように言っている。
彼はもう五十歳をすぎているし、
選手にシュートを打たせて自分はキーパーをするなんて姿は見たことがない。
「大丈夫や。いいから、はようせい」
監督は僕が心配していることを察したのだろう。
そう言うと、構えをとった。
「では、いきます」
やるからには本気でやらなければと思い、シュートをした。
足がボールにヒットした瞬間、ドン、と自分でも聞いたことのないくらい大きく太 い音が響いた。しかし、そのコースは監督の目の前。
監督はそれを難なくはじいた。
「……いいシュートや。
お前、あんまり打たへんからわからんかったけど、重い球蹴られるようになったんやな。
自信持てよ。
ディフェンダーゆうてもいつ何時チャンスが巡ってくるかわからんからな」
少しぶっきらぼうだけど、しみじみと監督は言った。
「……はい!」
自覚はなかったが、練習を積み重ねていくうちに自分にも成長しているところがあるんだと思い、嬉しくなって返事をした。
監督は、かすかに笑ってグローブを外した。
そういえば監督は、こうやって早く来たり、学校に遅くまで残ったりして、僕ら選手の個人練習に付き合うことが多い。
でも、なぜ自らキーパーをしたのだろう?
僕は、その場を離れようとする監督を思わず呼び止めた。
「あの、監督。……監督は、なんのためにがんばってらっしゃるんですか」
それだけ選手に力を注げる、その原動力がなんなのかを知りたくなったのだ。僕は 唾を飲み込み、監督の反応を待った。
監督はちょっと驚いた顔になり、少し考えてから僕の方をまっすぐに見て答えた。
「お前らと、喜びを共有するためや」
「喜びを、共有するため……」
監督は、僕にボールを投げてよこした。
それをキャッチし、脇に抱える。
「サッカーは、キツいスポーツや。
それに、シンプルだからこそ難しい。
強敵から一点を奪うことはそう簡単やない。
そのためにはそいつら以上に練習せなあかん。
吐くような思いをするかもわからん。
でもな、だから部員全員の力でゴールを決めたとき、 勝ったとき、喜びは大きいんや」
そう言う監督の表情は、晴れ晴れとしていた。
対する僕は、真剣に監督の言葉を聞いていた。
監督が言った言葉の意味を、考えていた。
「人数の分、その喜びは倍増する。それまでの努力が報われる瞬間や」
僕は、試合に勝ったときの経験を思い返していた。
確かに、そこに仲間がいなければ、嬉しさはそこまで大きくないかもしれない。
「その喜びを、お前らと共有したい。だから俺は、お前らのために俺にできることは なんでもする」
僕は、監督が今まで僕ら部員のためにしてくれたことを思い返してみた。
思えば、毎日部活の最初から最後までいてくれるのは監督くらいだった。自分の仕事は、練習が終わったあとにしているのだろう。
テーピングや、マッサージなどのトレーナーの役割も担ってくれている。
合宿の前には、より多くの強豪と練習試合ができるように何度も頼み込んでくれた。
正月には、 部員全員にお雑煮を振る舞ってくれたこともある。
数え切れなかった。
監督には本当にお世話になっているということに今さら気付く。
僕みたいな補欠部員のためにも、練習を見てくれ、アドバイスをしてくれた。 「お前らのためになにかをやる分だけ、喜びは大きくなる。
つまり、お前らのためと か言うとるけどな、つまりは自分のためやねん。
お前らと喜びを共有したいっていう、
自分の目標のためにがんばっとるわけや」
監督は、そう言い終わると、グローブを片づけて、
「じゃ、ごきげんよう」と言ってグラウンドをあとにした。
遠山監督の言葉を聞いて、僕は勘違いをしていたことに気が付いた。
それは、『誰かのためにがんばるということは、その誰かのためにしかならない』 ということ。
でも、それは違う。
誰かのためにがんばることは、自分のためにもなるんだ。
いや、自分のために、誰かのためにがんばると言ってもいい。
僕は今、森下さんのために絵を描いている。
でも、それによって僕は誰かに必要とされる自分でいることができるし、
僕自身もいろんなことを学んでいる。
現にこうやって、大切なことに気付くことができている。
あのイルカは、飼育員さんのためにがんばることで自分の生き方を見つけた。
たとえ自分にそんなつもりがなくても、誰かのためにがんばることは、結果として 自分のためにもなっていんだ。
さっき僕は、『仲間のため、チームのため』にがんばろうと心に決めた。
その気持ちは変わらない。
でも今は、『自分のために、仲間のため、チームのため』にがんばろうと考えている。
仲間の中には監督も含まれている。
僕らのために努力を惜しまない彼は、僕らと喜びを共有したいと思っている。
その思いに応えたい。彼の夢が叶ったら、僕も嬉しい。
だから、がんばることは僕のためにもなるんだ。
僕は練習を再開した。
今までは目の前のゴールしか見えていなかったけど、今度はもっと別なものが見えた。
ここが試合会場であることが想像される。
なんだか、視野が広くなったような気がした。
グラウンドは、全国大会予選の決勝の舞台に、ジャージはユニフォームに見えた。
周りには、たくさんの仲間がいる。
自分のために、彼らのために。
この一本のシュートは大切なプレーなんだと思いながら、僕はいつもより長く、ぎりぎりまで練習を続けた。
その日の夢の中で男の子は雲の上にいました。
夕焼け空がどこまでも続いている、 まっかな雲の上です。
女の子はいつもと変わらない姿で男の子の目の前にうかんでいました。
いつもの白いワンピースが夕日にうつくしくてらされています。
「……大丈夫?悲しんでるの?」
女の子は男の子に優しく話しかけました。
「僕は悔しい。僕はやっぱりイルカなんかじゃなかった」
男の子は下くちびるをかんで言いました。
「でも、あの先生のために、人のために、がんばろうとしたわ」
男の子はあのあと、先生のために、大なわとびを死にものぐるいで練習しました。
でも、やっぱり、うまくとぶことはできないのでした。
「ぼくには、ムリなんだ」
男の子は、あきらめかけていました。
「……今日は、あなたの素晴らしいところふたつ目を伝えるわ」
女の子は、優しく、おだやかな顔をしてそう言いました。
「あなたは、わたしのためにがんばろうとしてくれた。
でもね、ただがんばったんじゃないの。
あなたは今日、あの先生のためにと思ってガムシャラにがんばったわね。
それは素晴らしいことだわ。
でも、それだけではいけないのよ。あなたの本当の力をぜんぶ出していない」
「じゃあ、どうすればいいの?」
女の子はまた、指をさしました。
すると、雲の中からなにかが顔を出し、白く美しい姿を見せました。
「鳥?」
「そう、白鳥よ。
彼はいま、遠くにいる仲間のもとに行くために、一羽でとんでいるわ。
でも、最近まで、彼は空をとぶことができなかったの。
さ、行くわよ」
女の子は、白鳥をおいかけるようにとびました。
男の子のからだもそれについていくようにとんでいきます。
「……どうしてとべなくなったの?」
「生まれてから数カ月。えさの取り方もおぼえてとべるようになった彼は、冬をこすために仲間とはじめてここにきたわ。
でも、そこで羽を猟師にうたれてしまったのよ」
男の子は、彼の右羽に傷あとがあるのを見つけました。
「自分の力でとべない彼を、仲間はおいていくことしかできなかった。
とべないその傷が治って、こうしてとべるようになるまで、五年かかったわ」
「五年間、彼はどうしていたの?」
「はじめのころ彼は、いつも家族やなかまのことを思って泣いていたわ。
一羽でいる のはすごく心ぼそかったし、さびしかった。
ひとりぼっちなら、生きていてもしかたないとも思った」
「そうだよね。ひとりぼっちはつらいよ。……小さいときならもっと」
「うん、そうね。
でもね、また夏がやってきたある日の夜。彼は、お母さんが彼に話してくれたことを思い出したの」
「どんなこと?」
気が付くと、日は沈み夜になっていました。男の子と女の子は、白鳥とならぶようにとびながら話をしています。
白鳥は、まっすぐ、力強くとびつづけていました。
女の子は、上を指さしました。
「あの星座がなにか、わかる?」
男の子は女の子が指す方向を見上げた。
そこには夏の大三角形が輝いていました。そして、女の子はその中で一番大きな星座の名を口にします。
「はくちょう座?」
「そうよ。お母さんは、彼にそれを見せて、こう言ったの」
『私のお父さん、つまりあなたのおじいちゃんはね。
冬をこして、シベリアに戻ろうとする直前に、むれをおそったハヤブサから私たちを救ってくれたの。
おじいちゃんは、そのときにむれからはなれてしまったわ。
でも、おじいちゃんは昔私に言ってくれていたの。
もし、私たちがはなれることがあったとしても、こうやって夜空を見上げれば同じはくちょう座を見ることができる。
そう思えば、はなれていても、近くにいると思える』
女の子は、男の子をまっすぐ見つめて続けます。
「だから、あなたにも同じことを言うわ。
『もし、これからわたしたちがはなれることがあったら、夜空を見上げなさい。そして、はくちょう座を見るの。わたしも、そうするわ。そうすれば、さびしくもなくなる』ってね」
「彼は、それを見てさびしい気持ちをなくすことができたんだね」
「それから彼はまた、冬に家族や仲間が来てくれることを信じて、空をとぶ練習をしたわ。
何度失敗しても、決してあきらめなかった。でも、冬が来るまでにとべるようにはならなかった」
「五年かかったんだもんね……」
「でも、彼がしたのは練習だけではないわ。夜空を見上げてひとりじゃないって思えたことで、みんなのためにできることをさがしたの。
自分の、可能性を」
「自分の、可能性……」
「彼はみずうみを泳ぎ回り、人間にしかけられたワナを見つけては、それをはずしていった。
空を飛べないかわりに、彼は泳ぐのがとくいになっていたから。
仲間のことを考えつづけ、いつ仲間がやってきてもいいように、そのばしょを守っていたの」
「彼の仲間はそこに来たの?」
男の子は、心配に思っていたひとつのことをたずねました。
「ちゃんと来たわ。そして、彼のおかげで安全に冬をこすことができた。
彼に『ありがとう』って何度もお礼をいったわ」
その白鳥は、嬉しかっただろうね。
男の子はそう言って隣をとぶ白鳥を見て目をほそめました。
「そうね。冬の間、彼はすごく幸せだった。
仲間や家族といっしょにいれることもそうだけど、空をとべなくてもみんなの役に立つことができたこともすごく嬉しかったの。
だから、今までに四回、冬をこしたあとに仲間と別れることになったけど、彼は
つらくなかったのよ」
白鳥の顔は、まっすぐに前を向いてとぶ姿は、とてもほこらしげでした。
「彼には、イルカと同じで誰かのためにがんばることができたんだね」
「それだけでないわ。白鳥のしたことの意味を、考えてみて」
女の子は、あらためて男の子に笑いかけました。
「あなたにも、白鳥と同じ力があるのよ。
あなたははじめ、まだ羽をもっていなかった。
でも、その羽をつかわずにわたしを助ける方法を見つけてくれたの」
男の子はそれを聞いても、自分が女の子を助けたことを思い出すことできません。
でも、女の子が言っていることをうそだとは思っていませんでした。
「……ごめん、まだ思い出せないよ」
「ムリもないわ。大丈夫、今のあなたにとって大切なことはそれを思い出すことではなくて、いま目の前にある壁をのりこえることだもの」
時間が早く進んでいるのでしょうか。もう、目の前には太陽が昇ってきていました。
朝の光が、雲をてらしています。女の子の顔も、白鳥も朝やけに照らされ、美しくかがいています。
「いい? ただがんばるんじゃなくて、今、あなたにできること、あなたがすべきことを考えてみて。
あなたにはその力があるんだから。あなたならできるはずよ」
女の子はそう言うと、雲の中に姿を消しました。つづいて、白鳥も。
「……まってっ!」
あとを追い、男の子も下におりて雲にとびこみました。雲に包まれている間、海の中で泡に包まれたとき同じかんかくがあって、
これがこの夢のおわりだと男の子はわかりました。
女の子の姿は、もうありません。
そのかわりに、目を覚ます前にあるものが見えました。
それは、ゆうだいなシベリアの大地と、ゆうゆうと空をとぶ白鳥のむれでした。