集中して絵を見ていた彼女がそれを閉じたので、僕はドキドキしながら口を開いた。

「……どうかな」
 
彼女はこちらを向くと、頬を持ち上げて目を細め、小さく「ふふっ」と笑った。い つもの優しい笑い方。
その動きに合わせて、ふわふわのくせっ毛が小さく揺れた。

「え、笑えるくらいひどい?」
 
僕が心配になり尋ねると、ううん、と彼女はかぶりをふった。

「その逆。想像以上によすぎて、笑えてきちゃったの」
 
僕は、ふうーとため込んでいた息を吐いた。

「なんだ、よかったあ……」
 
緊張がほぐれ、笑みがこぼれた。そんな褒め方をされたことがなかったのだが、自 然と言葉が出てきたことに僕は驚く。
 
ほっと胸を撫で下ろす僕の様子がおかしかったのか、また彼女は笑う。
今度は少し長めに。

彼女は、うっすらと浮かんだ涙を人差し指の背中でぬぐった。笑いすぎて涙が出たんだろう。

「やっぱり、日比野くんに任せてよかった」
 
彼女は安堵したように息を吐き、そう言った。

「ありがとう、期待を裏切らないようにこれからもがんばるよ」

「そんなにプレッシャーに感じなくて大丈夫だよ」

彼女はそう言って手を顔の前で左右に振った。
 

僕は、出来上がった絵を早速森下さんに見てもらっていた。

森下さんのイメージに 合う絵が描けているか心配だったけど、予想以上の好評をもらえて安心する。
 
始業前の教室はざわついているが、窓際の後ろにいることもあり、周りの声は気にならず、この空間にふたりでいるようだった。

「がんばりすぎないでね。まさか一晩で描いてきちゃうとは思ってなかったから、 びっくりした」

「描き始めたら、夢中になっちゃって」

「眼の下、ちょっとクマができてる。睡眠時間を削ったらだめだよ」
 
確かに、と思った。昨日は描くのが楽しくてつい寝るのが遅くなってしまったけど、 これを続けていたら身体を壊してしまう。
 
描くのが楽しかったのも寝る間も惜しんで描いた理由のひとつだけど、それだけではない。

早く森下さんの書く物語の続きが読みたい気持ちもあった。

「これからは、せめて一週間に一枚くらいのペースにしよう?」
 
彼女は、心配そうな表情で提案する。早く読みたい気持ちを抑え、素直に応じるこ とにした。森下さんに心配をかけることは避けたかったから。

「そうだね。そうしよう」

週刊の漫画雑誌の続きを待つ感覚だと思えばいいそう自分に言い聞かせて、そう答えた。

「ありがとう。昨日も言ったけれど、部活も大変だろうし」
 
部活、という彼女のひとことに、昨日の練習を思い出し、胸の奥がチクリと痛んだ。

昨日、寝る間も惜しんでこの絵を描いた理由がもうひとつある。
 
昨日の部活では思うようなプレーできなかった。
自分はチームに必要とされるほど の選手ではないんだと思い、これでもかというくらい無力感を味わった。
 
そんな気持ちで家に帰り森下さんのノートを目にしたとき、少し安心した自分がいたんだ。

自分を必要としてくれている人がいる。

厳しい言い方をすれば、それは〝逃げ〞だった。部活で味わった自己有用感の穴を、森下さんの絵を描くという行為で埋めようとしていたんだ。

「……日比野くん?」

「えっ」
 
森下さんの声で我に返った。その表情は変わらず心配げだ。

まつげを伏せ、眉を下げている。彼女にそんな顔をさせたくないと思った。

「大丈夫?」

「うん、大丈夫!
 
部活に影響が出ないようにしていくよ」
 
そうしてね、と彼女は笑顔になる。その表情を見て、僕も安心した。

「部活に影響でないように」と言いつつ、今は絵を描くほうをよりがんばろうと考え ていた。




〝逃げ〞てもいいと思った。  




必要としてくれている人のためにがんばるほうが、いい。