もうすぐ、絵が出来上がるというときだった。また、視界の右側に影が落ちた。

ゆいこさんが帰ってきたのだと思い顔を上げると、僕はふたつのことに驚くことになる。

「こんにちは……日比野くん」

「かのちゃん!」

ひとつは、そこに立っていたのがゆいこさんではなく森下さんだったということで、もうひとつは、かおるくんが彼女の下の名前を呼んだことだった。

森下さんはかおるくんの前でしゃがみ込み、その細い指でかおるくんの頭を撫でた。かおるくんは、満面の笑みで目を細めている。

「かおるくん、久しぶり」

森下さんはかおるくんの頭を撫でると、立ち上がって僕に向き直った。

「日比野くん、かおるくんと知り合いだったんだね」

そう、彼女は優しい笑顔で言う。その顔がなんだか、誰かに似ている、と思った。

「うん。こうやって一緒に絵を描くくらいの仲だけど。それにしても驚いたよ。森下さん、このあたりに住んでるの?」

「うん、そう」

「初めて知った」

絵を描き終えたかおるくんは、砂場で遊んでいる。そんなかおるくんを見ながら、僕たちはベンチに座って話をしていた。いつも隣に座っているとはいえそこまで親しい関係でもないから、少し距離を置いて座る。

彼女の私服姿を見るのは初めてだった。白色のワンピースに、薄ピンクのカーディガンを羽織はおっている。改めて見ると、彼女は細いな、と思った。強い風が吹いたら飛ばされてしまいそうな華奢きゃしゃな身体つきだった。それに、顔も幼いから制服を着ていないと中学生くらいに見える。

彼女が近所に住んでいることを今まで知らなかったのは、僕の通学時間が極端きょくたんに早いせいだと思う。僕はいつも早い電車に乗り、部活の朝練に参加しているから学校に着くまで誰とも会わない。

「かおるくんはね、私の甥おいっ子なの」

「え、じゃあゆいこさんは……」

「私のお姉ちゃん」

「そうだったのか……世間って、狭いんだな。驚いたよ」

僕はかおるくんが四歳のときからふたりを知っている。

驚く反面、納得もしていた。ゆいこさんも、かおるくんも、そして彼女も、綺麗な眼をしているからだ。纏まとっている優しい雰囲気も、似ている。さっき、彼女の笑った表情が似ていると思ったのは、ゆいこさんのことだったのだと僕は気付く。

「日比野くん、すごく絵が上手なんだね」

森下さんは僕とかおるくんが描いた絵をまっすぐ見ながら笑顔で言った。

学校ではこんなに話したことはないから、少し、緊張する。普段目にすることのない白く細い手足が人形のようだと思った。

「僕はこのとおり、絵ぐらいしか取り柄がないんだ」

「そ、そんなことはないよ!」

森下さんはとっさにこちらを向き、否定した。そしてすぐに顔を赤くして、「ごめん知ったようなこと言って」と小さく謝った。

「でも、絵が得意なのって羨ましい。私下手だから」

「そんなの、大したことないよ。僕は、勉強が苦手だし、サッカーやってるけどパスとかドリブル苦手だし、走るのは遅いし……あと、大事な時期なのに怪我しちゃうし」

不得意なことなんて、いくらでもある。でも、それを相良以外の人に言うのは初めてのことだった。なぜだか、森下さんには言ってもいいと思ったのだ。

「でも日比野くんは、苦手なことを補うくらいの努力をしてると思う。授業だって一生懸命受けてるし、休み時間には復習もしてる。部活にも一生懸命なの、伝わってくるよ」

いつもはゆっくりと話す彼女が少し早口でそう言った。そんな風に言ってくれるのは意外だったけれど、それが偽いつわりの言葉ではないことはわかる。褒められることに慣れていないから少し戸惑ったけど、素直に、受け止めることにした。

「ありがとう」

「あと、日比野くんの絵、もちろん上手なんだけど、それ以前に私はすごく好きだよ。なんて言うか、すごく綺麗で、幻想的。優しく語りかけてくるみたいな絵」

彼女の『好き』という言葉に反応してしまう。絵のことだとは言え、妙に照れくさい。いつもの彼女だったら、そこまで思っていたとしても、口には出さないと思う。僕はそんなことを不思議に思った。

「あ、ありがとう……」

「それにさ、なんだか絵本の世界みたいだよ、日比野くんの絵。私、小さい頃から絵本をたくさん読んでるんだけど、そのどれよりも好きだな」

「森下さんは、絵本が好きなんだね」

今日の彼女は予想外によく話す。何気ない会話もしてみたいと思っていた僕はとても嬉しく思うけれど、それと同時に緊張してしまう。僕は少し口ごもりながら答えた。

うん、好きなんだ。彼女はそう言うと、こちらに身体を向けた。そして、僕が予想もしなかった言葉を口にする。

「ね、日比野くん。突然だけど……絵本の絵を描いてみない?」

相変わらず綺麗な瞳は、まっすぐ僕の目に向けられている。

「……え?絵本の絵を……僕が?」

唐突なその言葉に、僕はただ呆気あっけにとられて彼女を見た。

「うん。絶対に合うよ、日比野くんの絵。絵本に」

だんだん興奮こうふん気味になりながら彼女は話す。心なしか先ほどよりも距離が近い。突然のことに、僕の頭は混乱していた。