「むかし、どんくさいうさぎは人のしかけたワナにはまってうごけなくなってしまっていたの」
「かわいそう」
男の子は言いました。
「でもね、その日の夜、それは今日みたいに月のきれいな夜だったんだけどね。
わたしたちくらいの年齢の男の子がそれを見つけて、ワナをはずしてくれたの」
「よかった、助けてくれる人がいて。
優しいね、その子は」
男の子はほっとしました。
「その子はね、そのときこう言ったの。
『きみがとってもきれいな白色だったから、ぼくはきみを見つけることができたよ。
お父さんとお母さんからもらったその毛の色は、きみの宝物だね』って」
へえ、と男の子はうれしくなって思わず声を出しました。
「うさぎはね、それまで自分にはなんにもとりえがないって思っていたけど、その子のおかげで自分のいいところに気付けたの」
「なんか、ぼくみたいだ」
「そうね、あなたみたいね」
女の子はやさしく笑ってそう言いました。
「それから彼は、月のきれいな晩にはまた男の子に会えると思って元気に走り回るようになったの。
今までは走るのがきらいだったからぜんぜん早くならなかったけど、そうやって走り回っているうちに、うさぎは上手にかけまわれるようになったわ」
「できないって思いこんじゃってたんだね。
それも、ぼくみたい」
男の子は、だんだんうさぎが自分に見えてきました。
「それで、うさぎは男の子にまた会えたの?」
女の子はうなずきました。
でも、その表情はけわしいものでした。
「会えたんだけどね、そのときの男の子は、オオカミにおそわれているところだったの。
男の子はしりもちをついて、にげることができなかった」
「えっ! それで、うさぎはどうしたの?」
「昔のうさぎだったら、そんなときなにもできなかったと思うけど、
そのときのうさぎはただ男の子を助けることだけを考えて、オオカミに正面から体当たりをしたの。
すごいスピードだったわ。
とつぜんの大きなちからに、オオカミには、なにが起こったのかわからなかった。
それで思わず、男の子をおいてにげていったのよ」
男の子は、すごい、と思いました。
そして、それを口にも出していました。
「ものすごく、勇気のいることだよね。
うさぎはよくやったね」
かんしんしている男の子を見て、女の子は言いました。
「これで、あなたの素晴らしいところの三つ目がわかったと思うわ」
「……勇気」
男の子は、もう一度その言葉を口にしました。
「そう。
あなたの素晴らしいところ、さいごのひとつはそれよ。
実は、あなたは今までにも勇気を出してきたのよ。
自分でわかる?」
男の子は、今までの自分の行動を思い出していました。
「明日に向けてあなたが気付かなければならないことはそれよ。
あなたには勇気がある。
自分よりずっと大きな相手に立ち向かっていっちゃうくらいのね」
「……緊張をのりこえる勇気も?」
「もちろん。
あなたなら、きっと大丈夫」
女の子は、そう言うと急にゲホゲホとせきこみました。
「大丈夫!?」
男の子はかけより、彼女の背中をさすりました。
「ありがとう。
今までだまっていてごめんなさい。
わたし、実は病気なの」
「え……」
女の子のとつぜんの言葉に、男の子は大きなしょうげきを受けました。
「どうしたら、治るの?」
男の子は、涙声になって聞きました。
「治すのには、手術をしなくちゃいけないの。
でも、とってもむずかしいの」
むずかしいと聞いて、男の子のむねがチクリと痛みました。
「でも手術を受けなければ、長くは生きられない。だから決めたの。
わたしを助けてくれたあなたといっしょに、わたしも勇気を出そうって」
「僕、やるよ。ゼッタイに。
そして、優勝する。見てて」
男の子は、力強く言いました。
だから君も、がんばって。
「ありがとう。あなたならそう言ってくれると思ってた。
わたしもがんばってこの病気を治すわ。
うれしい。ほんとうにありがとう」
女の子の目にも、涙がうかんでいます。
「わたしの手術が成功すれば、明日、また会えるわ。
そのとき、今まであなたにかくしていたこと、教えるね」
とつぜん、男の子の周りに、木がらしがふきあれました。
そして、男の子は夢からさめました。
涙をぬぐってから、天井に向かって言いまし
た。
『ぼくが、きみのことを必ず助けるよ』
僕は、もうあの夢を見ることはないのだと思う。
あのあと、転校生の女の子は別の学校に転校していくことになる。
そのとき僕は約束した。
君に必ず、会いに行くって。
彼女と、ゆびきりをしたんだ。
彼女が引っ越した先は、僕が通う高校のある町。
僕がそのあと記憶を失ってさえいなければ、いくらでも会いに行けるところにいたんだ、彼女は。
僕は唇を噛み締めながら、電車に揺られていた。
鞄の中にはあのノートと、医学書が一冊だけ入っている。
昨日かおるくんからノートを預かり、今朝見た夢で記憶を取り戻してから、僕の中ではたくさんの思いが渦巻いていた。
記憶がなかった頃の僕は、いなくなっていたわけではない。
ダムみたいなものに、せき止められていただけなんだ。そのダムが決壊した今、僕の中では洪水が巻き起こっていた。
電車を降りて向かったのは、ある病院だ。
彼女はきっと、そこにいる。
夏休み前、彼女が持っていたビニール袋。あの中身は風邪薬なんかじゃない。
なんで、あれを見ても思い出せなかったんだ。
病院に着いて、受付で彼女の病室を教えてもらった。
エレベーターで上がっている間、妙に心臓の鼓動が大きく聞こえた。
気が付けば、そこはもう病室の目の前だった。深呼吸をひとつして、僕はノックをする。
「……はい」
聞き慣れた、でもいつもよりもか細い声が聞こえて心の奥がチクリと痛む。
僕は、ゆっくりと引き戸をスライドさせた。
「ごきげんよう、日比野くん」
彼女は、ベッドの上で上体を起こし、こちらを見ていた。
まるで、僕がここに来るのを知っていたかのように。
「ごきげんよう……〝華乃〞」
僕は、下の名前で彼女を呼んだ。
けれど、彼女は驚かなかった。
そして、「ごきげんよう、立樹くん」と言い直して、ベッド脇の椅子を引く。
ありがとう、と言って僕は座った。
その間、彼女は優しく、しかし儚くも見える微笑みを浮かべ、じっと僕を見守っていた。
そして、ささやくようなか細い声で、言った。
「立樹くんのこと、待ってたよ」
その言葉に、僕はどきりとした。
「……うん。本当に長い間、待たせたね」
華乃は、まっすぐ、温かい眼差しで僕のことを見ている。
そこから僕は、目を逸らすことはしなかった。
「あれからだと、六年間だね」
「いくらなんでも、待たせすぎだよね」
「うん、笑っちゃうくらいに」
そう言って彼女は、「ふふっ」と笑った。
「その笑い方。昔から変わってなかったんだね」
華乃がおかしそうに目を細める。
「そうだよ。
それ、小学生のときもすごく好きだった。
そして、高校生の僕も、また好きになったんだ。
なんだか、クリスマスを楽しみにしてる小さい女の子みたいだと思った」
「なにそれ」
僕はもう、彼女に気持ちを隠したりしない。
昨日、そう決めたから。
「記憶を取り戻す前のことなんだけど、僕ね、夢の中で君に会ったとき、こう思ったんだ。
『この女の子が、森下さんだったらいいのにな』って」
華乃は目を丸くして、しゃきっと背筋を伸ばした。
「本当に、私だったね」
「うん、本当に。笑っちゃうよね。
…あとさ、ゆびきりしたとき。
もし自分が失ってた記憶の中にゆびきりしてるシーンがあるなら、思い出したいなって思ったんだ。
嘘じゃないよ」
「知ってるよ。
立樹くん、嘘が下手だもん……。
よかった。思い出せて」
合宿前に華乃としたゆびきりは、僕にとって二回目だったんだ。
「一回目にしたゆびきりの約束、果たせなくてごめん」
「今、果たしてくれた」
六年間も待たせていては果たしたとは言えないと思ったけど、彼女はずっと待っていてくれたんだ。