「これ、あげる」
突然目の前に彼の手が伸びてきた。
なにかと思ってその手にあるものを確認すると缶コーヒーだった。

「さっき自販機で当たったんだけど、二本もいらないし。それに、手が痛そう」
どうして、と思いながら顔を向けたから伝わったんだろう。
言葉を発する前に彼に答えられてしまった。

その声に、やはり色はない。
それが当たり前のはずなのに、今の私には彼のほうが異常だなんて、やっぱりおかしい。
 

どうぞ、と美しい所作で彼が再び促す。
白くて細い指先の、爪がきれいに整えられていて、一ノ瀬くんらしいな、と思い出す。
 

いや違う。思い出さなくていい。
そもそも一ノ瀬くんかも怪しい。仮だ。仮一ノ瀬くん。

それに私はコーヒーは好まない。
どちらかというと紅茶だし、それよりもほうじ茶が好きだ。お子さまとでもなんとでも言え。
 

しかしここまで言われて受け取らないのはなんだか申し訳ないし、そこを頑張って断ったところで彼は意に介さず押しつけてきそうだし。
実際、手は冷たくて痛い。

「……ありがとう、ございます」
数秒考えて、受け取ることにした。
まだ結構温かい缶コーヒーがじんわりと私の指先をほぐしてゆく。
仮一ノ瀬くんは受け取ったことに満足なのか、にっこり笑って再び携帯に目を落としていた。
 

屋根のない向こう側を、雪がやむことなく落ちてゆく。
誰だかが雪が降ると静かすぎて耳が痛いと言ってたっけ。
音のないものに音を感じて、そこにある静寂さを謳うなんて、矛盾していてちょっとおもしろい。

私が、声に本来ない色を見るように、その人は音のない雪に何かを見ていたのだろうか。
 

なんてちょっとロマンチックに考えてみたけど、私の場合は迷惑なだけだし、そんな情緒的なこと、考える余裕もない。
声に色が見えるってことは、それが本音か嘘かがわかるってことだ。
 

喜んでいるように見えて、嘲る。
悲しんでいるように見えて安堵している。
そういうことが、日常茶飯事なんだって知ったとき、私の世界は私に容赦がなかった。
 

三度目のため息をこらえて空から視線をすこし落とすと、散歩中なのか旅行帰りなのか、とりあえず小型犬がいた。
茶色くてふわふわした毛がかわいい。
その犬はふらふらと歩いてなぜかこっちに向かってくる。
そして仮一ノ瀬くんの足に激突した、もとい懐いた。