あれえ…。
家に帰り、朝干しておいた洗濯物を取り込んで、首をひねる。
どうもぱっといい匂いがしない。
生乾きのにおいとも違うので、洗濯物に鼻を埋めたまま携帯でいろいろ調べて、洗濯槽の汚れかも、と思い当たった。
一度も掃除したことない。
必要なものを確かめて、買いに出ることにした。
補講もない、部活もやっていない、予備校にも行っていない私は、帰ってからもたっぷり時間がある。
2階建ての一軒家は、二人暮らしには広くて、使っていないところまで掃除をしたりしないといけない。
兄の帰りが早い日には夕食も作る。
案外そういうので、時間は過ぎていく。
買ってきた漂白剤をどばどばと洗濯機に入れ、スイッチを入れた。
待っている間に勉強でもと思い、リビングでテキストを広げる。
ダメだ。
すぐ閉じた。
なんだか、勉強するのが怖い。
やってもダメだと知るのが怖い。
しっかりしろよ、私。
一喜一憂するなって、先生も言ってたじゃないか。
気を紛らわすために家じゅうに掃除機をかけているうちに、携帯のアラームが鳴った。
つけ置きの時間が終わったのだ。
「うわっ」
洗濯槽をのぞくと、カビとおぼしき茶色いごみが、わっさわさと浮いていて、引いた。
えーと、と携帯で手順を確かめる。
「網ですくって、また"洗い"をして、待つ…」
とりあえず、この繰り返しね、合点。
母がいた頃は、洗濯物はいつもいい匂いがしていた。
知らないところで、こういう手間もかけていてくれたんだと思うと、頭が下がる。
ごみをすくっては、洗面台に流す。
考えたくないことが多いので、心を無にして作業に徹していたら、ふと、なんでもない瞬間に、持っていた携帯を落とした。
トポンと間抜けな水音を立てて、漂白剤で濁った洗濯槽の中に、あっけなく沈み、見えなくなる。
えっ。
嘘。
なにが起こったのか理解できず、呆然と立ちすくんでいたら、玄関のチャイムが鳴った。
「郁実?」
靖人だとわかった瞬間、玄関に向かって走った。
「お前、ひとりなら鍵かけろよ、これ、母方のじっちゃんが…」
なにかの入ったビニール袋を差し出していた靖人が、私を見てぎょっと言葉を切った。
すごい形相だったんだろう。
「なんだ、どうした」
「け、携帯、落としちゃった…洗濯機に」
「洗濯機? 水が入ってたってことか?」
「水っていうか、うん、み、水」
「で、拾ってないのか」
あっ、そうだ、すぐ拾わなきゃいけなかったんだ。
泣きそうになって震えていると、靖人が荷物を放り出し、蹴とばすように靴を脱いで廊下を走り、洗濯機のある脱衣所に駆け込んだ。
追いついたときには、洗濯槽の中に右手を突っ込んでいて、私は青くなった。
「や…靖人! それ洗剤じゃないよ、漂白剤なの」
「大丈夫だろ、すぐ洗えば。あ、あった」
完全に沈黙した携帯をぽいと投げてよこし、浴室に入ってシャワーの水を腕にかける。
「それも洗っといたほうがいいぞ、たぶん」
「うっ、うん」
袖も浸かってしまったTシャツを脱ぎながら、そう指示をくれたので、すぐに水道でざっと洗い流し、タオルで拭いた。
乾かせば復活するって読んだことはあるけれど…漂白剤液に、一瞬どころじゃなく沈んでいた場合は、果たしてどうなんだろう。
「あ、おい、電源入れるなよ」
「ダメなの?」
「ダメ。俺、前にそれでショートして死んだ」
「水没させたことあるんだ」
「大雨の日にポケットの中で水浸しになってた」
右半身を拭きつつ靖人が上がってくる。
一緒にリビングに行き、たたんでおいた兄のTシャツを渡して着てもらった。
靖人が調べてくれた通り、電池パックとかカードの差し込み口とか、外せるところは全部外して、タオルで水分を拭きとっていく。
「復活するとしたら、いつぐらい…?」
「丸一日くらいって書いてあるけど、お前、バックアップは?」
「とってない…」
「マジか…」
どうしよう、泣けてきた。
連絡先なんて、もともとたいした数入れていなかったし、靖人も兄も、家で会える。
でも、健吾くんには、これがないと連絡できない。
写真だって入っていた。
いつも嫌がるから、こそっと部屋で撮った、大事な何枚か。
どうしよう。
私、健吾くんになにを言うかも、まだ考えられていないのに。
伝える手段のほうが先になくなっちゃったよ。
「郁実…どした?」
私の様子に、携帯がダメになった以上のなにかがあると察したんだろう、隣に座った靖人が、労わるように頭を叩いてくれる。
涙がぼろっとこぼれて、私は携帯のパーツを投げ出して、テーブルに突っ伏して泣いた。
健吾くん、私、この先どうしたらいいか、全然わからない。
だって全部正直に言ったの。
それでダメなら、私は自分に嘘をつかない限り、健吾くんとはこの先、もうないってことだよね。
怒った彼が怖くて、これまでどれだけ甘やかされてきたか知った。
わがままも強がりも全部、はいはいって聞いてくれていた。
それがどんなに贅沢なことだったか、ようやく気がついた。
健吾くんに過去を変えてほしいわけじゃなくて、今を変えてほしいわけでもなくて、ただ、わかってほしかっただけなの。
私、苦しいんだよって、知っていてほしかっただけなの。
うまく伝えられなかったかもしれないけれど、それだけなの。
それだけだから、どうか許して。
一度聞いてくれたら、二度としつこく言わないから。
「郁実…」
嗚咽をもらしはじめた私を、靖人が心配そうに、背中をなでて慰めてくれた。
健吾くん。
私、健吾くんのこと好きなんだよ。
それだけなんだよ。
「古浦」
「ん」
声をかけられて、教室移動だと気がついた。
みんなが移動を始めている中、ひとりぼんやり座っていた私の机に、靖人が両手を置いている。
こいつ、学校では私のこと、苗字で呼ぶのだ。
思春期め。
「ごめん、ありがと」
「携帯は?」
「家で乾かしてる。帰ったら電源入れてみようかなって…」
ショートなんて聞いたら慎重になる。
机から必要なものを出しながら、空っぽのポケットの心もとなさを意識した。
「夏休み前にもう一個模試だろ、いい加減くたびれるよな」
「そうだったー…」
廊下に出たところで、私は教科書で顔を覆った。
もう無理。
なんかもういろいろ無理。
「どした?」
「昨日返ってきたやつ、なんでか順位が妙に悪くて」
「ああ、そりゃそうだろ」
「なにがだよ!」
ナーバスな受験生に向かって無神経なことを言う靖人に噛みつくと、「落ち着けよ」となだめられる。
「部活も引退する時期だし、みんな本腰入れて勉強しはじめてんだよ。お前の成績が下がったわけじゃなくて、みんなが上がり出してるんだろ」
あ…。
なる…ほど?
「つまり?」
「順位より、どこを間違ったのかきっちりさらえってことだよ。ちゃんと勉強してるんなら、内容はそう悪くないはずだぜ」
右手に持った教科書とノートで、トントンと自分の肩を叩きながら、なんでもないふうにアドバイスをくれる。
昨日から張りつめっぱなしだった心が、急に崩れた。
「靖人―!」
「うわっ、わ、ちょっ…ちょっ」
思わず抱きつくと、ものすごいうろたえた声があがる。
なんて冷静で、いい奴なんだろう。
なっちゃんがあの後さらに熱く語ってくれたところによると、この間の試合、相手を0点に押さえきったのは、靖人の捕手としてのリードが巧みだったことが大きいらしい。
自分たちが格下であるのを利用して、相手のちょっとした油断をうまく突く配球をしたんだとか。
試合の翌日にはマネージャーから試合記録を見せてもらい、そこまで見抜いたというんだから、なっちゃんは野球好きというよりもはやただのオタクだと思うんだけど、どうかな。
「いく、古浦、離れて、頼むから、みんな見てるから」
「私が保証するよ、靖人はきっといい先生になる」
「俺、別に教師目指してない」
その言葉は無視し、感謝の気持ちを込めて、腕を回した背中をぽんぽんと叩いた。
ついに私を力ずくで引っぺがした靖人が、真っ赤な顔で怪訝そうにこちらをうかがってくる。
「お前、なんか変じゃないか?」
「そう?」
「健吾くんとなにかあったか」
「その話続けるなら、もう一回抱きつくけどいい?」
「いや、やめて」
冗談に紛らせてはみたものの、私は笑えていなかった。
「…どうしたよ」
「なんでもない、ちょっと、バカやって怒らせただけ」
気を抜くと涙が出そうで、唇を噛む。
並んで歩く靖人が、そんな私を見て、優しく頭を小突く。
「高校生相手に、怒ったりしねーんだろ、健吾くんは」
学校じゃなかったら、きっと泣いていた。
「どうしたのお兄ちゃん、フローラル!」
「いやこれ、お前がやったんだろ?」
私より早く帰っていた兄が放つ、強烈な香りに仰天した。
いい匂いなんだけど、いくらなんでも強すぎる。
兄も気になるようで、Tシャツに鼻を当てて顔をしかめている。
「普通の洗濯しかしてないよ」
「柔軟剤入れすぎたとか」
「いつも通り…あっ」
そうだ、もしかして。
「洗濯槽をきれいにしたんだよね、そのせいかも」
兄が取り込んでおいてくれた洗濯物を確かめてみる。
いつもより格段に香りがきつい。
最近うっすら感じていた生臭さみたいなものがいっさい消えて、そのぶん洗剤や柔軟剤の香りが効きすぎている感じだ。
「へえ、こんなに変わるものなのか」
「初めてそんなとこ掃除したからさ、汚れ半端なかったよ。これからは定期的にやることにする」
「今度俺にもやり方教えて」
手に持ったついでに洗濯物を何枚かたたもうとしたとき、テーブルの上の、バラバラになった携帯が目に入った。
そろそろ乾いているだろうか。
「どうした、それ」
「掃除してるとき、洗濯機の中に落としちゃって」
「あらら、動きそうか?」
どうだろう…。
電池パックやカードを元通りに挿して、祈るような気持ちで電源を入れてみる。
なにも起こらない。
心細さに、手が震えた。
こうしている間にも、健吾くんから連絡が来ていたりしたら。
私のほうに話す意思がないと思われていたりしたら。
たぶん青い顔をしていた私の隣に、兄が座った。
「ないと不便だろ、新しいの買うか」
「でも…」
「復活しても、一度水没したんだったら、早めに替えたほうがいいし。これから一緒に行ってやるよ」
「ごめん…」
不注意で、無駄なお金使わせちゃって、本当に申し訳ない。
しょげる私の頭を叩いて、「行こう」と兄が笑った。
駅ビルまで出て、ショップで機種変更の手続きをした。
カードだけでも生きていたらと一縷の望みをかけていたものの、やっぱりダメになっていたため、これも新調した。
「ほんとごめんね…」
「気にするなって、俺、最近給料上がったし」
「そうなの!」
「キッチンの上の人が辞めちゃってさ。繰り上がった」
外食産業はブラックだと騒がれるので心配していたんだけれど、兄の職場は、どうやらそうでもないらしい。
大手チェーンでもなく、県内に数か所の店舗を持つだけのレストランで、決して安くはないけれど、そのぶんいい食材と凝ったお料理で、お客様満足度は高い。
お酒も出して深夜まで営業する店舗と、朝からディナーの時間までの店舗とがあって、スタッフさんは基本両方を兼任している。
「資産家のオーナーが道楽でやってるような店だからな」
「お兄ちゃんも、いずれ店長さんになるかなあ」
「どうかなあ」
「そしたら私、バイトで雇ってね」
「それで思いついた、出てきたついでになにか食ってこう」
「ほんと!」
仕事が不規則なおかげで、兄と外食できる機会は、なかなかない。
お給料が上がったと聞いて安心したのもあり、喜んで飛びついた。
「ねえ、それならお兄ちゃんのお店、行こうよ」
「えー? 俺、できたらよその店を偵察したいんだけど」
「いいじゃん、あのクリームソースのハンバーグが、今でも夢に出るんだよ」
「どんだけ気に入ったんだよ」
お願い、と腕にまとわりつくと、ようやく承諾してくれた。
バスで少し行ったところにある兄のお店は、ログハウスのような外観で、中は高い天井でファンがゆっくり回っている、ゆったりとした造りになっている。
席の確認をするために事前に電話を入れておいたので、着くなりスタッフさんたちが歓迎してくれた。
店長さんはひげをセクシーに整えた、40代バツイチの二枚目だ。
「いらっしゃい、4卓整えてるから」
「そんな、カウンターでいいですよ」
「お前だけならそうするけど、妹さんもいるんだろ。せっかくなんだから、落ち着いて食べてもらえよ」
恐縮する兄を尻目に、私は厚意に甘える気満々で窓際のテーブル席に着いた。
夏の夕暮れが、街並みをピンクに染めている。
本当は兄が働いているときに来たいんだけれど、そうすると私を連れてきてくれる人がいない。
シェフをしているところ、見たいなあ。
「いらっしゃいませ」
「あっ、どうもです」
女の人が水を持ってきてくれた。
新顔さんかな、見たことのない人だ。
といっても、最後にここに来てから一年以上たっているので、ホールスタッフの半分くらいが知らない顔だ。
「あ、お疲れさん」
「あっ、治樹さん、いらっしゃい」
店長さんと話していた兄がやってきて、私の前に座った。
女の人がトレイを抱いて、にこっと微笑みかける。
「妹さんですか?」
「そう、郁実」
「景山(かげやま)です、いつも治樹さんにお世話になってます」
「いえっ、こちらこそ兄がお世話になってます」
ふたりでぺこぺこと頭を下げ合っていると、「なにやってんだ」と兄があきれる。
「なに頼むかなあ…」
「あっ、そういえば店長がですね」
景山さんが身を屈めて、兄に優しく耳打ちをした。
スタンドカラーの白いシャツに黒いさらっとしたパンツ、黒いエプロンというのがここの制服だ。
腕まくりをした袖からは、華奢で真っ白な手首が出ている。
兄と顔を寄せ合って、楽しそうに話すのを、我ながら下世話な目つき丸出しで見守った。
「なので、今日のおすすめをぜひとのことで」
「そうだなー、じゃあ勉強のために、それひとつ。郁実は?」
「クリームソースのハンバーグ!」
「メニュー見るふりくらいしろよ。がんばって日替わりとか考えてんだからさ」
「あとシーフードマリネのサラダ」
「聞け」
「ケーキは、景山さんが好きなのがいいなあ、教えてください」
「えっ?」
景山さんは驚きながらも、すぐにメニューを開いた。
「私はこちらの、白桃とヨーグルトのタルトが好きです」
絶対それを選ぶと思った。
「へえー、どうしてですか?」
「え…」
突っ込むと、色白の頬を染めて、一生懸命説明してくれる。
「その、さっぱりしていてこの季節に合いますし、生クリームの代わりにヨーグルトを使っているので、カロリーも控えめで」
「でもそれだと、こっちのさくらんぼのムースもたいして変わらないですよね」
「えっと、あの…」
真っ赤になってうつむいてしまった。
「この桃のタルトは、は…治樹さんが考えたメニューなので…」
うん、知ってる、家で作ってたもん。
兄の目も怖いので、このへんで解放してあげよう。
「じゃ、食後にアイスティとそれお願いします」
「かしこまりました」
逃げるように去っていく姿を見てから、兄に視線を戻した。
こっちも赤い顔して、私をにらんでいる。
「お前、気づいてたな」
「つきあってるの? まだそこまでいってないの?」
「子供が首突っ込むな」
「景山なにさん?」
「…真由(まゆ)」
お、口調からして、普段はこっちで呼んでいるな、たぶん。
てことはもう、おつきあいしているんだろう。
なんだよー、やることやってんじゃん、お兄ちゃん。
「学生さん?」
「いや、調理学校を去年出て、今は見習いみたいなことしてる。キッチンにも入るし、経営の勉強してるから、メニュー作りとか仕入れのアシスタントもやるし」
「すごいね」
「すごいよ、吸収も早い」