「郁」

「ごめん、私、帰る」

「郁!」



バッグだけ引っ掴んで、部屋を飛び出した。

エレベーターを待つ余裕がなくて、階段を駆け下りる。

爪先を突っ込んだだけだったスニーカーが途中で脱げて、踊り場まで転がっていった。


だよね、言えないこと、いっぱいあるよね。

仕事のこともそうだし、考えていることとか悩みとか、私に話したところでどうしようもないこと、いっぱいあるよね。

だから普段から、私に通じる話だけ、してくれてたんだよね。


わかってたよ、そんなこと。

私だって、なにもかも健吾くんに話しているわけじゃない。

学校のこととか、健吾くんが聞いたってつまんないだろうなってことは、話さないようにしてる。


でもね。

そうすると、びっくりするくらい話せること、少ないの。

いつもけっこうがんばって、一緒に楽しめる話題、探してるの。

それで残ったぶんを、お兄ちゃんとか靖人に話すの。


健吾くんもそう?

私にできなかった話を、ほかの誰かにして、あーすっきりしたって思うこと、ある?

この話は私に聞かせても仕方ないなって、自分の中でチェック外したりする瞬間、ある?


マンションを出たところで、携帯を忘れてきたことに気づいた。

いいや、もう。


バス停に向かって走る。

住宅街はひっそりと静まり返っていて、昼間の暑さが嘘のように、冷たい風が吹き抜けた。

そこの角を曲がって、道路を渡ればバス停だ。


見通しの悪い道を、たいした確認もせず飛び出したときだった。

夜道をやってくる車のライトが、信じられないようなスピードで近づいてきて、鋭いブレーキの鳴き声を上げた。





「健吾くん!」

「うわ!」

「わあ!」



部屋のドアを開けたら、中から健吾くんが転がり出てきた。

同時にドアノブを握っていたらしい。

正面から突っ込んできたせいで、私の腕が向こうのお腹を直撃し、健吾くんが呻く。