回らない頭で、あれーこの人、そんな感じ全然なかったのにな、やっぱり最初からこういうつもりだったのかな、男の人ってわかんないな、などなど考えた。

結論、"かっこいいから、いいや"。


たぶん健吾くんは酔っ払っていたのもあり、私を適当な遊び相手と踏んでいたのもあり。

『2時間超えするようなのはできないけど』と軽く言いながら、おざなりに必要なところだけ服をはだけさせて、早々に重なってこようとした。

そこでようやく違和感に気づいたらしい。



『ん…?』



ぐいぐいと押し広げられる新感覚に、こっちは再び衝撃。



『いっ、…た』

『え、ちょっと待って』



圧迫がなくなり、ぎゅっとつむっていた目を開けると、愕然とした表情の健吾くんが見下ろしている。



『…初めて?』



ネクタイを外して、ボタンをひとつふたつ開けただけで、ほとんど着衣も乱れていない彼の顔は強張っており。

うなずくと、蒼ざめた。



『…いくつって言ったっけ』



ここまで来たらもう、これ以上の嘘は無意味だろう。



『実は、高2』

『高…』



いまだに私は、あれほどにうろたえた健吾くんを見たことがない。

というより、あれほどうろたえた人を見たことがない。


血の気の引く音が、こっちにも聞こえた気がした。

がばっと飛びのくと、健吾くんは真っ青な顔で叫んだのだった。



『ごめん!』

「思い出し笑いすんな」



膝で揺すられて、はっと我に返ると、確かに顔が笑っている。

いけない、いけない。

でもだって、笑っちゃうよ。

あんな遊び慣れた雰囲気だった人が、本気で謝ってくれて、私がなにを言っても、絶対に続きをしようとしなかったのだ。
「真面目なんだか、なんなんだか」

「ただの保身だよ」

「大学生だったらよかったの?」

「いや、それでもやっぱり、初めての子ってのは、ああいう流れではできれば避けたい…」



そういうものか。

健吾くんが、肩に垂らした私の髪をなでて、毛先を指に挟んだ。



「こうやって見えるくらい長さあったら、確かに傷みとか気になるよな」

「順番が違うよ。長いと傷みやすくなって、毛先を眺めちゃうの」

「あ、そういうこと?」

「下心なかったのに、なんでいきなりああいうことになったの?」

「その話はやめろって」



よほど悔いているらしく、健吾くんはあの日の話をしたがらない。

こっちとしては、出会った日でもあり、沸騰するみたいに短時間で人を好きになった日だから、いつでも振り返りたいのに。



「私が誘ってると思った?」

「そこまでは…」

「やれるかも、と思ったら試したくなった?」

「頼むからやめて…」



後ろから抱きついてくる頭をなでると、手に触れる耳が熱い。

このあたりが図星ってとこかな。



「健吾くんも男なんだね」

「言っとくけど男って繊細なんだからな、それ以上いじるとほんとに傷つくぞ」

「そしたら私がなぐさめてあげるよ」



顔をそちらに向けると、望んだ通りキスをくれる。

照れ隠しの、ちょっと乱暴で熱っぽいキス。


昨日のことみたいに覚えてるよ。

ひと通り謝罪が終わった後、私たちはいろんな話をした。

ベッドの上で、買ってきたドリンクやお菓子を食べながら、学校の話もしたし仕事の話も聞いた。

健吾くんは年上ぶった猫なで声を出すこともなく、義務で話を続けているような無理を見せることもなく、不思議に話しやすい相手で、私は初対面の人にはしないようにしている両親の話までした。

すると健吾くんは少し考え、『そっかあ』と言ったのだった。



『大変そうだな』

『うーん、まあね』

『高2じゃ、周りの奴はまだ親の悪口言ってるだろ。そういうの聞こえたら、悲しくなっちゃうな』
これね、決定打だった。

予感はあったんだけど、いくらなんでも、とか、で、どうするの、とかいろいろ考えて、打ち消そうとしていたのだ。



『健吾くん』

『ん?』

『私とつきあって』



今思えば、脅しだよね、タイミング的に。

そういう考えも及ばないくらい、あのときは思ってたの。


もうダメだって。

この人のこと、好きすぎるって。

だから私のものになってほしかった。



「寝るか、今日、早出だったから眠い…」

「明日、出るの何時?」

「遅くて平気だな」

「そう」



本当に眠そうな様子で洗面所に立って、歯ブラシをくわえた姿が、鏡越しに私を見た。

ふっと目を細めて、私の頭をぐいと揺らす。



「ちゃんと起こせよ」



なんでわかるの?

遅くまで寝ていられるなら、起こしたらかわいそうだから、そうっと出ていこうとしていたこと。

でもやっぱり、行ってこいよって送り出してほしかったこと。

こんな健吾くんだから、きっとあのときも、『うん』て言う以外、できなかったんだと思う。


私とつきあって。

そう言うと健吾くんは目を丸くして、お菓子を食べる手を止めた。

それから視線を落として、少し考えて、やがて顔を上げ『うん』と言った。



『いいよ』



それしか言えなかったよね。

罪悪感でいっぱいのところに、同情誘うような話して、逃げ場なくさせてごめん。

追い打ちをかけるようにつきあってなんて言ってごめん。


抱きつくと抱きしめ返してくれる、ベッドの中の健吾くん。

言っても嫌がるだけだろうから、心の中で繰り返しておくよ。


ごめんね。

でも好きなんだ。


ほんとにほんとに、好きなんだよ。

「図書室ってどこだっけ」

「お前ほんとにここの3年?」

「間違えた。卒アルって図書室にあったっけって訊きたかったの」

「だいぶ間違えたな」



早く行きたくてそわそわ足踏みする私を、靖人が購買のパンを食べながら怪訝そうに見る。



「でも質問自体はいいとこ突いてる。実は図書室にはない」

「なんと!」

「卒アルがあるのは、第二資料室だ」

「出るって噂のとこじゃん…」

「ちなみになんで俺が知ってるかというと、卒アル委員だからだ」

「自分が写りそびれるっていうの、あるあるだよね」



今度の野球の試合のとき、カメラを預かって、本人も含め、いろいろ撮っておいてあげよう。



「第二資料室って、それこそどこだっけ」

「鍵がいるから、連れてってやるよ、なにが見たいんだ?」



えーっと。

目をそらすと、ふんと鼻で笑われる。



「なんつって、どうせ"健吾くん"絡みだろ。顔見りゃわかる」

「さすが靖人、私の理解者」

「嫌味だからな?」

「私もだよ?」



チッと舌打ちして、靖人は鍵を持っているという卒アル委員長の教室へ向かった。



「う、うおお…」

「吠えんな」

「かわいい」



第二資料室は、埃だらけで日差しも入らなくて、空気も悪くて散らかっているという最悪な部屋だった。

そんな中、アルバムの中の健吾くんは、まばゆいばかりだ。

制服着てるよ…。

思ったほど今と差がなくて、すぐ見つかった。



「この頃のほうが、やんちゃっぽいなあ」

「今はそれなりに、ビジネスマンに見えるもんな」

「見えるんじゃなくて、ビジネスマンなの」

「ロリコンのな」



本気で当たればいいと思って繰り出したパンチは、顔の前で苦もなくキャッチされてしまった。
「3-6ってことは、理系かな」

「でも女子クラスとかあった頃だから、今と全然編成違うだろ」

「そうか」



この高校はもと男子校で、今でこそ男女比が2:1くらいまで均されたけれど、昔は女子のいないクラスもあったのだ。

机と椅子がいくつか転がっているものの、全部汚れていそうなので立ったままアルバムを眺める。

靖人に片方の端を持っていてもらい、部活動のページに移った。



「何部だったんだ?」

「知らない」

「そのくらい聞いとけよ」

「よく野球中継見てるから、野球部かな?」

「髪長かったじゃん、絶対違う」

「確かに」



運動部のページから、ひとつひとつ見ていく。

テニス、ラグビー、バレーボール…いない。



「靖人、よく健吾くんの顔、覚えてるね」

「見たしな」

「一回だけでしょ?」

「強烈だったもん、インパクト」



つきあいだして2か月くらいたった頃、家まで車で送ってもらったとき、ばったり靖人に会ったのだった。

それ以降、必ず1ブロック手前で降ろしてもらうことにしている。



「もう、マジでやばいことやってんのかと思った」

「健吾くん、スーツだったもんね」



それで助手席にセーラー服の私を乗せていたんだから、靖人からすればそう見えたのもまあ、わかる。

というより、世間から、だな。



「あっ、いた、陸上部!」

「ほんとだ」



この頃の陸上部、こんなに人数いたんだ。

みんなユニフォームを着ていて、健吾くんは最前列で片膝をついて、横断幕の端っこを持っている。

靖人が身を屈めて、つやつやしたページをじっくり眺めた。
「身体つきからすると、短距離かな」

「でもほら、跳んだり投げたりしてた可能性も」

「投てきはないだろ、この細さで」



そういうもの?

でもハイジャンとかやっていたとしたらかっこいいな。

今度訊いてみよう。



「陸上部かあ…」

「ね、チャラくないでしょ?」

「うーん…」



これがわが校の2大女子受け部である、バスケかサッカーだったら、靖人の評価も違ったに違いない。

靖人は不本意そうに、難しい顔で唸った。


私はページをさかのぼって、クラス写真のほうに戻った。

恒例の胸から上の写真は夏服なので、白いシャツ姿だ。

スナップのほうでは、学ランを着た健吾くんを見ることができる。

女子のいないクラスだから、見た感じは完全に男子校だ。

健吾くんは中心となってふざける、一番たくさん写っている数名を、すぐそばで冷やかして笑っているポジションて感じ。


うんうん、わかる、わかるよ。

イメージ通りだよ。



「同じ高校にいたかったなあ」

「お前がそれ言っちゃダメだろ」

「え、なんで?」



飽きたのか、靖人が窓際の壁に寄りかかる。

閉めきりの古びたカーテンから、昼の日差しがじわりと靖人を照らして、こちら側に影をつくった。



「お前が社会人だったらなあって言われても、嫌だろ」



手に持ったアルバムの、ページがふいに何枚か繰られ、バランスが崩れて床に落ちた。



「あっ、しまった」

「大丈夫だよ、足平気か」

「うん」



上履きの爪先をかすめただけで、足は無事だ。

角から落下したアルバムを拾い上げて、傷みがないことを確かめると、靖人はそれをケースに戻した。
「…それとこれとはさ」

「同じだろ、健吾くんからしたら」

「健吾くんも、そんなふうに思うとき、あるのかな」

「俺は知らん。本人に訊け」



本棚の一番上の、私には届かない場所に、やすやすと収める。

年代順に棚を埋めているアルバムの、健吾くんの代の右側には、徐々に真新しくなっていく背表紙が6冊分。

片手じゃ全部は引き出せそうにない。

それが今の、私と健吾くんとの距離。





【今日行っていい?】

【遅くなるし、明日早いからちょっと無理】

【じゃあやめとく】

【ごめんな】

【会いたいよー】

【我慢】



ため息をついて、携帯をポケットに入れた。

スカートの中で、少し熱を持った端末が脚を叩く。


学校裏を流れる川は、県を横断する大きな川の支流で、河川敷は四季折々の植物で彩られている。

梅雨入りしたわりに雨が降らないなあ。

別にいいんだけどね、降らないなら降らないで。


川を渡ってすぐの細い路地を入り、雑居ビルの間に遠慮がちに建っているプレハブ小屋の、油でぺとぺとしている引き戸を開けた。

客席にはちょうど誰もいない。



「こんにちは」

「おっ、来たな」



イケメンつけ麺屋、と自称しているふざけた店長さんが、焼けた顔をにこっとほころばせる。



「バイトさせてもらえます?」

「もちろん。制服のぶん、バイト代割増ししちゃうよ」

「あ、そういう趣味?」

「俺じゃないよ、お客さんが喜ぶからね」



どうだかなあ、と思いながら、制服の上にエプロンをつけ、店長とおそろいの、お店の黒いバンダナを三角巾みたいに頭に巻いた。
「今月から冷やしつけ麺始めたから、頭に入れといて」

「はい」



渡されたメニューで、冷やしつけ麺のレパートリーを確かめる。

ノーマル、焦がしネギ入り、特選かつおだし…。



「どれ売りたい?」

「焦がしネギだな」

「了解」



言っているうちに、スーツ姿のお客さんがふたり入ってきた。

入口にある券売機の前で、なにやら真剣に悩んでいる。



「こちら、人気です」

「あ、ほんと? じゃあこれにしよ」



横から焦がしネギのボタンをちょんと指さすと、すぐそれを押してくれた。



「ご一緒に冷たいライス、いかがですか」

「冷たいライス!」

「スープが冷たいので、あえて冷やしてお出ししてるんです、合うんですって、これが。もちろん冷えてもおいしいお米で」

「へえー、じゃそれ大盛り」



毎度です、とお礼を言いながら席に案内する。



「冷やし・焦がし2丁入りまあす、冷や飯大盛り各1」

「まいどっ」

「お皿洗うね」

「郁実ちゃん、二十歳になったら俺のとこに嫁に来てね」

「店長さん、奥さんも子供もいますよね?」

「新しい子?」



カウンターの中から冷たいおしぼりを出すと、受け取りながらお客さんが訊いてきた。

店長さんがテボをお湯に立てながら答える。



「うちの秘蔵っ子です」

「いいなあ、セーラー服」

「お前、好きそうだもんなあ」



嬉しそうに盛り上がるお客さんに見えないよう、店長さんが"ほらな"と言いたげな目つきを送ってきた。

ゴム手袋をはめて、はいはいとうなずく。
「誰だって好きでしょ、制服は」

「まあ、男のロマンだよな」



ふたりの会話は続く。



「言っときますけど俺は、制服が好きなだけであって女子高生が好きなわけじゃないですからね」

「それ、いばるほど違うの?」

「違いますよ。後者だったらただの犯罪者予備軍でしょ」

「俺からすると、成人した子に制服着せて喜んでる奴とかも同類なんだけど」

「俺は着せてません」



丼やれんげの汚れを落とし、食洗機に並べてスイッチを入れた。



「すみません、焼き餃子も」

「はあい」



追加注文用の伝票を書いて、カウンターに置く。

無意識のうちに、お客さんの話を聞かないようにしている自分に気がついた。

犯罪者予備軍、か。



家に帰っても、なにをする気にもならず、一応自室で机に向かってみたものの、すぐにノートを閉じた。

一階に下りて冷蔵庫をのぞく。


そうだ、常備菜を更新しよう。

野菜室の野菜も使いきってしまおうと、全部出す。

病気がちだった母は、早くに自分がいなくなる可能性を考えていたんだろう、幼い頃から私と兄に、家のことをやらせた。


3品作ったところでさすがにくたびれたので、次はちょっと時間をかけて煮込むものにしようと決めた。

オリーブオイルにほんの少しのニンニクを入れて熱して、香りが立ったところで野菜を炒める。

コンソメとトマトソースと調味料を加えたところで、リビングに置いてある携帯が震えていることに気がついた。

火加減を調節して、急いでテーブルの上を見る。

健吾くんだった。



【早く帰れることになった。ちょっと来る?】



うわ!

行くよ、行く行く!