「せっかく改札入ったし、このままどこか行くか、電車で」
「いいね、上る? 下る?」
「うーん…下ってローカル線に乗り継ぐとか」
「そうすると、どこに着くの?」
「海」
「行く!」
「今からだと、着いてすぐ引き返さないとだけど」
「いいよいいよ、行こう」
手を引いて、下り線のホームに急ぐ。
つないだ手が、ドキドキと熱を持つ。
明らかにこれまでと違う。
この手が、どんなふうにかわいがってくれるのかを、知ってしまった今となっては。
「なにもかも違うよ、ずるいよねえ、こんなの隠してて」
「またそれか」
「世の中の大人って、みんなこんな素敵なことしてるの? なんでそれで、ケンカとか離婚とかがあるの?」
「何度も言うけど、お前はまだ経験が浅いから、新しいこと知ってキラキラしてるだけ。いつかこういうのが日常になる日が来るから。そこからが勝負だから」
勝負ってなんの。
目で尋ねてみても、ふいとしらんぷりされて、答えてもらえない。
ふんだ、なんだよ。
ホームに、ちょうど乗ろうとしている電車が来ているのが見えた。
手をつないだまま、長い階段を駆け下りる。
銀色の車体に、日差しがきらりと反射する。
「そうやって大人ぶってなよ。その間に私だけ、いい思いいっぱいするんだから」
「郁だけってなんだよ?」
最後の3段ほどをえいっと飛び降りると、ついてこざるを得ない健吾くんも、軽やかに同じ段数を飛ぶ。
大きく口を開いた電車は、半端な時刻でほとんど人が乗っていなくて、ようやく春らしくなった陽光があちこちで跳ね返って、ゆりかごみたいに温かな色をしている。
飛び乗って、振り返った。
「キラキラは、ガキの特権てことでしょ」
軽く息を弾ませた健吾くんが、乱れた前髪を直しながらぽかんとして、やがて笑った。
かっこよくて、かわいくて、優しくて、ちょっと人をバカにしたような意地悪なところも、どこかにあって。
でも、好きだよっていつでも伝えてくれている、健吾くんの笑顔。
「そういうことだな」
ねえ、この間はちゃんと伝えられなかったけどね。
やっぱりありがとう。
待っててくれてありがとう。
わがままにつきあってくれてありがとう。
私のやり方を、否定しないでくれてありがとう。
「今月、お兄さんあいてるかな」
「月に二日くらいは必ず土日の休みあるから、平気だよ」
貸し切り状態の車両で、並んで座る。
背後の景色から、だんだんと建物が消え、空が広くなっていく。
「お兄ちゃんになんて言うの?」
「なんて言おうかなあ…」
線路と車輪が刻む、規則正しい律動に眠気を誘われているような表情で、健吾くんが微笑んだ。
「まずはこの間殴られて折れた歯の、治療代請求かなあ」
「え、折れたの!?」
「折れたってのは言いすぎだけど、ぐらぐらになったから、二か月くらい固定してた」
えええ…!
それは申し訳ない…!
「どこ?」
「ここ」
口をいーっと開けて、左下の、手前の奥歯のあたりを指す。
のぞき込もうとしたら、不意打ちのように軽いキスが来た。
さすがに戸惑う私を、窓枠に頬杖をついた健吾くんが、人の悪い笑みを浮かべて見つめる。
「隙がありすぎなんじゃないですかね、郁ちゃんは」
「やっぱり妬いてるんだ」
「別に」
嘘だ。
健吾くんが、私がねだったのでもないのに公共の場でキスするなんて、よほどのことがない限りあり得ない。
「治療代請求したら、なんて言うの。郁実さんをください?」
「それはさすがに引くだろ?」
まあねえ。
兄が引くというより、私が引く。
ゆったりと座席に腰かけて、窓の外を眺めながら、健吾くんが考え込んで、「でもまあ」とぽつりと言った。
「いずれ郁をもらいにきますって、そのくらいは言おうと思うよ」
考えていることが、知らずに口から出てしまったような感じの、すごく自然なつぶやきだったので、私はかえって不意を突かれて。
なにも言えなくなってしまい、そんな私に健吾くんが気づいた。
「半端かな?」
「ううん…」
「殴られるかな」
「それは、うん、どうだろうね…」
そうかー、と健吾くんは、まだ考えている。
ねえ、ありがとう、ほんと。
私、ゆっくりなんだけど、一応進んでるから。
そのうち追いついて、並んで歩くから。
もう少し、振り返りながら手を引いてね。
「健吾くん、大好き」
誰もいないのをいいことに、小さな子供みたいに後ろ向きに座って、窓枠に両手を載せて、そんなことを伝えてみる。
健吾くんはふいに思考の淵から上がらされたせいか、ちょっときょとんとしてから、なんでか目をあちこちさせて。
そのうち、そんな自分にあきれたみたいに、ふっと吹き出して。
たっぷりの初春の光の中で。
照れくさそうに、嬉しそうに笑った。
Fin.
──Thank you!
「あっ、ごめん、今日は一緒にごはん、無理なんだ」
一日ドライブデートを楽しんだ後、さあどこで夕食にしよう、という話になったところで、郁実が突然そんなことを言った。
てっきり夜まで一緒にいられると思っていた健吾は肩透かしをくらったような気分で、「あ、そうなの?」と車の行き先を思案する。
「このまま家に送っていったほうがいい?」
「駅で降ろしてくれる? 靖人が帰ってくるの」
まるで、健吾が一緒に喜ばないなんてあり得ない、とでもいうように、郁実が屈託のない笑顔を見せた。
ちょうど駅の近くを走っていたため、別れはすぐだった。
「ありがと、バイバイ!」
「…うん、じゃな」
車を飛び出して、おざなりに手を振ると、一目散に構内に向かって駆けていく。
大学生になって最初の春も終わり、高校生らしさもだいぶ抜けてきた背中を見送りながら、心の中のもやもやと戦った。
あのさあ。
俺だってさあ。
──俺だってさあ!
「なによ、来ないんじゃなかったの」
「うるせーな、土曜の夜なんかに集まってんじゃねーよ」
「来てる奴がなに言ってんのよ!」
同期と気心の知れた仕事仲間が集まっている居酒屋で、座敷に腰を下ろすなりまず煙草に火をつけた。
あきれを隠しもしない青井が「ビールでいい?」と訊いてくるのに、首肯のみで返し、ひたすら煙を吸う。
くそ。
「なに荒れてんのよ」
「荒れもするわ」
「郁実ちゃん、夏休みでしょ? いっぱい遊ぶんじゃなかったの」
「郁が夏休みってことは、学生みんな夏休みなんだよ!」
「はあ…?」
盲点だった。
勉強にバイトにと真面目に精を出す郁実は、学期中はなかなか忙しく、高校時代に比べて平日に会える機会が減った。
その代わり、兄にきちんと承認をもらったおかげで、週末は大っぴらに泊まらせることができるようになった。
健吾に合わせて、土日はあまりバイトを入れずにいてくれるので、ちょっと遠出して一泊の小旅行をしたりもした。
家族旅行をした記憶がないという郁実は、どこへ連れていっても喜んで、嬉しそうに旅館の浴衣を着て、宿の食事に感動して、夜は健吾の布団に潜り込んできて、けれどはしゃぎ疲れてそのまま寝入ってしまったりした。
かわいい。
そりゃもう、余った分が憎らしさに変わるほどかわいい。
「俺、野球は好きだけど野球部にはいい思い出なくてね…」
「は、いきなりなに?」
一杯目のビールをほとんど一気に片づけ、誰かが飲んでいた焼酎を失敬する。
青井は顎くらいの長さで切りそろえたきれいな髪を耳にかけながら、ぼそぼそとしゃべる健吾の話に耳を寄せた。
「あいつらってグラウンドを自分のものだと思ってるだろ。あとサッカー部な。で、陸上部って空いたスペースをなんとか使わせてもらってるみたいなとこあって」
「ああ、中学がそんな感じだった」
「嫌がらせみたいにボールとか飛んでくるし、こっちはマネージャーとかいないし、なんかこう、青春格差っていうか」
「暗いわねー、今日のいく」
うるさい。
「あと俺、あの、靖人くんね」
「ああ!」
そこで青井がようやく、合点がいったように大きくうなずいた。
「なんで急に野球部の話かと思ったら」
「帰省してんだってさ、郁がすげえ喜んでて」
「あんた、ああいうタイプにコンプレックスあるんでしょ」
ぐっさー、と心臓を貫かれたような気分だった。
さすが青井は鋭い。
本人たちの前では絶対に気取られまいとひた隠しにしてきた、健吾の複雑な思いを、一言で片づけるシビアさもさすがだ。
「ああいう、精悍で男っぽいの、憧れるんでしょ」
「憧れてはいない」
「勝てない気がするんでしょ?」
「勝て…」
強がろうと思ったもののできず、唇を噛んだ。
どちらかというと中性的で、身長は十分あるにもかかわらず「かわいい」と形容されることのほうが多かった人生。
どれだけトレーニングをしても身体につく筋肉量には限界があり、骨格も華奢なほうで、悩むとまではいかなかったが、男らしい体格の同級生をうらやましく思ったりはした。
「バカじゃないの、10代の子相手に」
「あいにく、肝心の郁も10代なんでな」
「郁実ちゃんを取られるとでも思ってるの? あんたから自信を取ったら愛嬌しか残らないわよ、しっかりしなさいよ!」
「しかってことないだろ…」
もうちょっとほかに残るものあるだろ…。
悲しくなりながらグラスをすする。
別に取られるとは思っていない。
郁実の気持ちが健吾にあることくらい感じているし、見ていないところで裏切るような子じゃないこともわかっている。
ただ面白くないのだ。
郁実と彼女の兄の絶大な信頼を得て、健吾の存在を知りながらなお一途に郁実を想って、そのくせ健吾を疎むでもなく、あきれるほどフェアプレーで臨む、あの感じのいい青年が。
健吾にないものをたくさん持っていて、過去も今現在も、郁実ともっとも多くを共有しているといえる、あの存在が。
結局のところ、郁実と十分にお似合いで、客観的に見ても「なんで郁はあの子のことを好きにならなかったんだろう?」と不思議になるくらいの、あのふたりの距離感が。
ただ、面白くないのだ。
「要するにやきもちね?」
「言うな!」
「いい歳して、みっともない」
「郁の前ではぎりぎり出してねーよ、思うくらい自由だろ」
「そうね、それを私に言うのも自由よ。好きにしたら」
痛烈な皮肉に、さすがに黙る。
つい、以前の気安かった関係に甘えて、こういうミスをしでかす。
無神経だったと気づくのはしでかした後で、青井も営業職だけあって聞き上手なので、しゃべるだけしゃべって、反省だけが募る。
謝るのも侮辱にあたるかと迷っていると、テーブルに置いた携帯が短く震えた。
郁実からだ。
【靖人のおばさんが、健吾くんに会いたいって。呼べばよかったねってみんなで言ってるとこ】
ご丁寧に写真つきだ。
靖人の家族と、郁実。
豪勢な食卓を囲んで、郁実はカメラに向かって楽しそうにピースをしており、隣の靖人は、茶碗とお箸を手にそんな郁実を見ている。
"写真撮るほどのことかよ"というあきれ声が聞こえてきそうな、親しげで気負いのないワンシーン。
握りしめた手が震えた。
「…俺になにを返せっつーの…」
「誰かウーロン茶頼んでくれない? この人今日、ダメな酒だわ」
青井の冷静な声に、遠藤たちのバカ笑いが重なった。
■
「暑かったでしょう、生島さん、こちらへどうぞ」
「ありがたいです、お邪魔します」
自動車部品を製造し、国内にも海外にも納品している工場の事務所を訪れると、社長夫婦が住居のほうへ招いてくれた。
といっても事務所と同じ建屋にあり、間を土間が横切っているだけだ。
昔ながらの座卓に、氷の入った涼しげな飲み物が載っている。
座布団の感触に、祖父母の家を思い出しながら、健吾はありがたくいただいた。
梅のジュースだった。
「手作りですか」
「そうよ、毎年作るの、おかわりどうぞ」
「いただきます」
失礼を断って、スーツの上着も脱いだ。
このあたりはこういう工場が密集しているため、車を置いて徒歩で回るほうが効率がいい。
しかし夏場はもう、途中で意識が途切れるんじゃないかと思う。
汗をかくのも下手になったな、と運動不足を嘆いた。
遠藤に誘われている、社内のフットサルチームにでも入ろうか。
「経理処理、楽になりました?」
「なったなった! って言ってもね、この人はパソコンなんて全然わからないから、もっぱら私と経理の女の子だけ恩恵を受けてるんだけど」
社長夫人がころころと笑いながら、社長の肩を叩く。
いかにも職人気質の社長は、妻が楽になったのを喜んでいるのか恥ずかしいのか、にやりと口角を上げただけだった。
「ご近所さんに聞いたらね、もう、すごい大変なソフトを入れちゃって、使わない機能ばっかりなのにパソコンは動かない、みたいなことも聞いて」
「残念ですが、たくさんあるんですよ、そういうケース」
「生島さんのおかげだわ。これに慣れたら、在庫管理のソフトを新しくすることも考えるわ」
「専用パソコンになってしまってるんでしたよね、今」
「そうなの、古いシステムだから。でも使い慣れてるし、機能自体に不足があるわけじゃないので、もったいなくて」
「であれば無理に変える必要はないですよ。ただあの経理システムは、拡張することで在庫管理機能を持たせられるので、そのことだけ頭に留めておいていただければ」
「1台のパソコンで管理できて、使い勝手も同じってことよね」
「はい、バージョンアップや保障も一元化できますし。でもまあ、現時点でお困りでないのであれば、急がなくていいと思います」
二杯目のジュースもぺろりと飲み干した健吾を、夫人がにこにこと好意的な目で見つめる。
それまで黙っていた社長が、初めて口を開いた。
「生島さんは、おいくつだったっけね」
「25です」
「独りかね?」
「はい」
夫婦がなにやら、顔を見合わせてうなずき合っている。
この流れは…。
辞去の挨拶を頭の中で練りはじめたとき、社長の目が健吾を射た。
「夕食を食べていきなさい」
えっ、命令…?
鞄に伸ばしていた手をちらっと見られ、引っ込める。
嫌な予感しかしないけれど、ほかになにを言えただろう。
「あの、では、いただきます…」
■
こういう営業職についていれば、正直、誰もが一度は経験する。
ありがたいことだし、光栄でもある。
が。
「あそこまでしつこいの初めてだった…」
「娘をもらってくれってやつか」
夫婦の強靭な推しに、困ったというより途中から恐怖のほうが強くなり、せっかくの食事も味どころではなく、ひたすら噛んで飲み込んだ。
翌日である今日、同期の遠藤に泣き言を漏らす。
会社の食堂は閉塞的で好きじゃないので、たいてい食べに出る。
近所の定食屋で、健吾は疲れてうなだれた。
「娘さんが小学生とかいうオチなら、逃げやすいのにな」
「それがさあ、すげえ微妙な年齢なの。23だって」
「うわ、リアル」
「だろ」
「本人もその場にいたのか?」
「いや、勤めてるらしくて、帰ってなかった」
それだけが救いだ。
23歳の女性なんて、本人を目の前にして断るのも気まずい。
運ばれてきた天丼に箸をつけながら、ため息をついた。
「結婚の予定があるのかって問い詰められてさあ」
「そこはもう、あるって言っちゃえよ」
「そしたら次は、まだしないのかって延々言われるだろ、取引先なんだから」
「そうか…」
だから仕方なく、『具体的な予定は決まってません』と正直に答えたのだ。
すると『じゃあうちの娘を』と来る。
「なんで"結婚の予定がない=社長の娘と結婚する"なんだよ…どんな図式だよ。相手いるっつっても聞かねえし」
「あれ、いくって彼女いたっけ?」
「いるよ」
「あ、そうなんだ、ずっといないと思ってたわ。どんくらい?」
「一年半くらい」
へえ、と遠藤が驚く。
結婚しないの、とかそういう話に発展しない安心感があるのは、遠藤が同い年の男だからだろう。
まだ同期や友達の中でも、結婚している奴はいない。
でもたぶん、そろそろそんな話が聞こえてくる頃だ。
働いて3年目。
仕事というものとのつきあい方もわかってきて、学生の頃に立てた漠然とした人生計画を、引き直す頃合いだ。
「今日はもう、大手さんだけ回ろ」
「トラウマになってんな」
「ほんとそれ…」
午後も忙しい。
丼を空にし、遠藤と一緒に店を出た。
この地方都市には、都心に本拠地を置く必要がなく、むしろ生産拠点と経営拠点が近くにあったほうがいいといった業態の企業が多く集まっており、健吾たちの主力の取引先は、そういった会社だ。
中心部を少し離れれば中小企業がひしめき合っており、そのどちらをも相手取れる商品を抱えている健吾たちは、商談に事欠かない。
地方ののんびりした空気と、活発な経済活動が共存するこの故郷を健吾は好きで、就職もこっちですると決めていた。
「生島さん、申し訳ありませんでした、父と母が」
「えっ?」
心に決めた通り、大手のお得意さんを回っている中、約束していた契約書を持ってやってきたリース会社で、担当の女性が突然そんなことを言い出した。
クリアファイルを持った手を浮かせたまま、ぽかんとする。
女性はそんな健吾に、あれっという顔をした。