私の解釈違い?
正直にバカをさらした私に、健吾くんの怒りが燃えた。
「優しさで一年もセックス我慢できるほど枯れてねえんだけど…」
「ご、ごめん、ごめんね」
「なんであの説明でわかんねえんだよ、かわいいなって思って、これは好きになるなって思って、それでOKしたんだよ。優しいだけでこんなガキ抱え込むバカに見えるか、俺が」
「見えません、すみません」
怖い。
迫るように見下ろされて、小さくなった。
違うんだよ、そういうつもりじゃなかったんだよ。
「あの、つきあってくれてありがとって、言いたかっただけで…」
「だからさあ」
鞄を放るように床に置いて、健吾くんがため息をつく。
ぐいと顔を両手で挟んで、上を向かされた。
「くれたとかありがとうとかじゃないんだよ。俺らは会ってすぐ、お互い好きになって、だから一緒にいることにしたの。それだけ」
健吾くんの瞳って、少し色が薄いんだよね。
ホテルのオレンジ色の照明が差し込んで、きれいに透き通ってる。
「私のこと好き?」
「好きだよ」
優しい笑顔が近づいてくる。
唇が重なって、柔らかく食まれて、その触れ方に、もう健吾くんが逃げる気がないのを感じた。
「大好きだよ」
抱きしめられたのと、抱きついたのと、どっちが先だったのか。
噛みつくみたいにキスをして、同じだけキスされて、私はもう、このままバリバリとかじって食べられてしまってもいいな、なんて考えていた。
「ほんとに緊張してないの?」
「うん。楽しみなだけ」
「なんで?」
「だって私はどうせ初心者で、右も左もわからなくて、それを健吾くんだって知ってるんだもん。さあお願いしますってだけだよ」
「マジか…この俺の緊張を少しは共有しろよ」
「どうして緊張してるの?」
ちょっとぺたぺたした後、これじゃ丸見えだよ、というバスルームで交互にシャワーを浴びて、結局ガラスがくもるから見えないんだな、と健吾くんのシャワーをのぞけなかったことを残念に思い、お互いバスタオル姿で、ベッドの上に寝転んでいる。
枕を抱くようにうつぶせた健吾くんは、さっきから落ち着きなく煙草を吸い、ムードもなにもあったもんじゃない。
「郁に待たされたおかげで一年ぶりだし、実はまだ迷いがほんの少し残ってるし、頭の片隅に兄貴の顔が」
「え、待って、私が待たせた?」
「しかも相手がガチの未経験とか…」
今さらなにを言ってるんだ、この人。
「ねえっ、もう煙草やめて、時間ないんだからいっぱいキスとかしようよ」
「今キスなんかしたらそのままなだれ込んじゃうだろ!」
「なだれ込めばいいじゃん、ここまで来てなに言ってんの!」
煮え切らない口から煙草を取り上げて、灰皿に押しつけた。
横からしがみつくようにして無理やりキスすると、当たり前なんだけど、あまりの苦さに顔が歪んだ。
「喫煙者とキスするのって、灰皿なめてるのと同じって言うよ」
「ほんとか、減らそうかな…」
「別に減らさなくていいけど」
健吾くんが吸ってるところ、好きだし。
しつこくキスし続けると、やがて返ってくるようになる。
裸の腕が私を抱き寄せ、仰向けにした。
身体を重ねて、見下ろしてくる健吾くんの顔が、少し上気して、でもまだ迷っているのがわかる。
「よけいなこと考えないでよ」
「いや、それはもう、だいぶ吹っ切れたんだけど」
困ったような表情で、さっと視線を私の身体に這わせて、「やばい」と片手を額に当てる。
「俺、わけわかんなくなりそう。先に謝っとくな」
「え? あの、できたら初心者コースにしてね」
「バカ言うな、こんなシチュエーション、理性が続く限りはたっぷりフルコースに決まってんだろ」
「フ、フルコースってなに?」
返事はなく、どこかまだためらっているくせに、やたら強引なキスが来る。
苦いって言っているのに、口を開けさせて、私の舌を絡め取る。
髪に差し込まれる指が、首に添えられた手が、ふいに熱さを増して、空気が変わった。
まつげが触れそうな距離で、じっと目が合う。
「郁」
うわ。
声の温度まで違う。
きれいな目が、至近距離で伏せられるのを見て、体温が上がった。
急に心臓が痛いくらい鳴って、あれ、今ごろ緊張かと戸惑う。
唇に、首に、柔らかなキスが降る。
健吾くんの頭を抱いたら、髪が腕の内側をくすぐって、気持ちよくて思わずくすくすと笑った。
「どした?」
健吾くんが、不思議そうにこちらを見る。
「ううん」
「そっか」
少し身体を起こして、私の顔をなでてくれる。
優しい微笑み。
「好きだよ、郁」
ああ、そうか。
これ、ドキドキしてるんだ。
健吾くんが好きで、今が幸せで、それで胸が鳴ってるんだ。
腕を伸ばして、首に抱きついた。
「もう一回言って」
腕の中で、健吾くんが苦笑したのがわかる。
私の背中を、なだめるようになでながら、「好きだよ」と要望通りに言ってくれた。
「もう一回」
「好きだよ」
「ずっと言ってて」
ぎゅっと抱きしめられた。
よしよしと頭をぐしゃぐしゃにされて、さらに抱きしめられる。
「言ってやるけど、信じろよ?」
信じる。
信じるよ。
だから言って。
目尻にそっとキスされて、涙がにじんでいたことに気がついた。
閉じていた目を開けると、大好きな顔が私を見つめている。
愛しそうに私を見下ろして、ついばむキスを何度か落として。
「好きだよ、郁」
蕩けそうに甘い声が、そうささやいた。
「うちの卒業式、面白いよな」
「気楽だよね、笑いっぱなしだったよ」
送辞や答辞なんてものもなく、下級生代表の出し物や、人気投票で選ばれた教師の愉快な講話などで終わる、不思議な卒業式なのだ。
「みんな泣いた?」
「ううん、高校生にもなると、会いたきゃこれからも会えるってわかるから、さみしくもないみたいで」
「そうなんだよな」
映画を観る前に早めの昼食を取り、午後、小腹がすいたので、手軽にファーストフード店に来ている。
ハンバーガーをかじる健吾くんを見ていたら、顔が自然とにやついた。
「ふふ」
「またか」
「だってさあー」
「いい加減、反すうすんのやめろよ…」
みるみる顔を赤くして、嫌そうに顔をしかめてうつむいてしまう。
そんな様子すらかっこいい。
念願の"続き"をしてもらってから一か月ほど。
年度末ということもあって、健吾くんは土日もないほど忙しくなってしまい、まとまった時間会うことはなかなかできなかった。
けれど私はもうおなかいっぱいで、あ、しばらく会うとかいいですよ、みたいな感じだった。
だってもう、あのときの記憶で脳が満たされまくりなのだ。
自分の体験は、それはそれでまあ、痛かったり幸せだったり新感覚だったり、いろいろあったんだけれど、それよりも。
健吾くんがかっこよくて、色っぽくて、かわいくて、一瞬たりともそれを見逃すまいとずっと目を見開いていたので、途中で「怖い」と目をふさがれてしまったほど。
今でも鮮明に思い出せる。
すっとした首筋とか、そこから肩に伸びるきれいなラインとか、そのあたりが汗ばんで光っている様子とか、ちょっと顔を歪めて、切羽詰まって呻く声とか。
男の人って、気持ちよくなると、あんな甘い、切なそうな表情になるんだね!
そんな顔をさせているのが、ほかでもない自分だと思うと、女に生まれてよかったなんて生意気な考えが押し寄せてきたりもした。
ああ、脳内のこのビジョンを、取り出してデータ化して保存しておける技術が早く開発されればいいのに。
それを再生するだけで、私あと三か月くらいなにも食べずに生きていけそうな気がする。
「健吾くんの身体って、ほんときれいだねえ」
「普通だろ」
「郁、って呼んでくれる声がかすれてくるの、最高だった」
「こういう反応、一番困るな…」
恥ずかしいを通り越していたたまれないらしく、健吾くんは真っ赤になってうなだれ、腕で顔を隠す。
そうするとよく見える、紺色のニットから出た首筋とか、耳の後ろできれいにカットされた髪とか、そんなものがどうにも色っぽく見えて、愛しい。
「やっぱり自信つくよ。もっと早くしてくれればよかったのに」
「それ自信じゃねえよ、好奇心が満たされて、テンション上がってるだけだろ」
「自信だよ、だって健吾くんのこと、この人私のものなんですって初めて確信持って思えてるもんね、もう叫びたいくらい!」
「それがテンション上がってるって言ってんの」
「どうしてそう否定的なの、大人の余裕見せてるつもりなの? テンションくらい上がるよ、どれだけの体験だと思ってるの!」
「すみません…」
「美菜さんのときはどんな感じだったの?」
好奇心のまま訊いたら、健吾くんが飲んでいたコーラにむせた。
「おま、趣味悪…訊くか、そんなの」
「大人がはずみでやっちゃうと、どんな事後を迎えるのかなって」
「…普通だよ」
「普通なんてわかんない」
「やっちまったなーとか笑って、シャワーとか浴びて、もう少し飲むかとか言って、そんな具合だよ。一回だけだったっつってんだろ、事後もクソも…」
「気になってたんだけどさあ」
言いたいことがあり、私は健吾くんをねめつけた。
やましいせいか、嫌そうにしながらも聞いてくれる。
「一回だけ一回だけって、一回ならセーフみたいな言い方してるけどさ、それ健吾くんていうか、男の人の考えだよ。女は一回目こそ、一番ドキドキして、勇気が必要なんだよ」
「でも、向こうだって飲んでたし…」
「普段隠してるもののレベルが違うんだよ、それ全部見せて、身体の中まで入ってくるの許すんだよ、この人とって思わなきゃ、できるわけないじゃん。そのうえでの"はずみ"なの。健吾くんが言ってる意味とは違う。反省しなよね!」
「郁が大人になっちゃったよ…」
悲しそうにストローを噛む様子に、テーブルを叩いた。
「してる、反省!?」
「はい、してます…」
「そうだ、これね、遅れちゃったけど」
肩をすぼめて小さくなった健吾くんが、私の取り出した包みを見て目を丸くする。
「なに?」
「お誕生日。大学も受かったし、ちゃんとバイト始めたんだ、ずっと続けられるようなの」
「バイト代、使ってくれたのか」
「たいしたものじゃないけど」
開けていいかと仕草で訊くので、もちろんとうなずき返すと、健吾くんが丁寧に包装を解いて、香水の瓶を取り出した。
「すげえ、嬉しい」
「瓶もスタイリッシュでかっこいいんだけどね、香りがすっごく健吾くんのイメージなの」
「俺のイメージ?」
「うん、つけたら2割増しでかっこいい。絶対つけて」
「2割ってすごいな」
笑いながら、手首に軽くスプレーして香りを確かめる。
「あー、好きな匂い、毎日使うよ、サンキュ」
「来年は、一緒に過ごそうね」
「だな」
本当に嬉しそうに、まだ瓶をしまわずに眺めている。
健吾くんの好きなところ、ひとつ追加。
贈り物を本気で喜んでくれる。
「あれ?」
どこからか携帯の震える音がして、テーブルの上を探したけれどなく、バッグにもなく、椅子の背にかけておいたコートのポケットの中で見つけた。
「靖人だ」
ポテトを食べながら開き、短いメッセージを読み終える頃には、私は立ち上がっていた。
【引っ越す。じゃあな】
「──靖人!」
特急券を買っている暇がなかったので、改札を駆け抜けて、ホームにいる靖人を見つけた。
後ろで駅員さんが「中で切符買いなさいよ!」と叫んでいるのを、健吾くんがとりなしてくれている。
靖人は身軽にボディバッグひとつ。
背が高いし、体格もいいから、遠目にもすぐわかる。
私を見つけて目を丸くしているところに、駆け寄って怒りのまま突き飛ばすと、飲んでいたペットボトルのお茶がこぼれ、靖人のブルゾンを濡らした。
「おい!」
「引っ越しは来週だって言ってたじゃん! いきなりなに!?」
「お前こそいきなりなんだよ、すげースピードで現れたな」
「近くにいたの!」
電車の時刻を聞き出すと、ファーストフード店を飛び出して、わけもわからずにいる健吾くんと、駅までの道を全速力で走ったのだ。
私は肩で息をしながら、あまりのショックに地団太を踏む勢いで腹を立てていた。
言葉が出てこず、涙だけが浮かんでくる。
靖人が、ちらほらいる周りの人を気まずそうに確認した。
「健吾くん、揉めてるぞ」
「嘘ついたの?」
「…正直なとこ言ったら、お前絶対見送りとか来るだろ」
「決まってるじゃん、東京行っちゃったら、めったに会えないんだよ」
「そういうのが嫌だったの」
「なんで?」
「なんでって…」
顔をしかめて、詰め寄る私から逃げようとする。
逃がさないよう、ブルゾンの袖を掴んでやった。
「なんでもいいだろ、お前は健吾くんと仲よくしてろよ」
「それで黙って出てくつもりだったの?」
「それでっていうか…」
「靖人こそ残酷だよ!」
ついに泣いた。
靖人が、覚悟していたようにぎゅっと口をつぐんで、私に罵られる準備をする。
さすが長いつきあいなので、このあたり、わかっている。
なので遠慮なく、言いたいことを浴びせた。
「靖人だって言ってたじゃん、幼なじみのポジションはなくしたくないって、それと同じだよ、私だって一番大事な幼なじみでいたいんだよ」
「それは、わかるし、嬉しいけどさ」
「私、なにもしてないもん。靖人が勝手に私のこと好きになって、それでつらいからってこうして離れてっちゃうの? それって私こそかわいそうじゃん、なんでそれがわかんないの」
「あのな」
「大好きだって言ったじゃん!」
癇癪を起こした子供みたいになった。
靖人が、困っているというよりは、もはや唖然としているといったほうが近い顔で、私を見ている。
部活を引退しても、あんまり伸ばすこともなく、小さい頃からずっと同じように、短い髪。
ぼろぼろ涙が出てきて、一生懸命手の甲で拭いた。
「郁実…」
「か、帰ってくるよね、夏休みとか」
「わかんね、バイトもしたいし」
わなわなと震えはじめた私に、靖人が慌てて「わかった、帰るよ、なるべく、帰る」と前言を覆す。
そこに突風を連れて、特急列車がホームに滑り込んできた。
靖人を連れていってしまう電車。
でもその先に、靖人の未来がある。
「…がんばってね」
「お前もな。治樹くんによろしく。あとうちの親、さみしいみたいだから、たまに遊んでやって」
「うん」
ぐしゃぐしゃになった顔を、靖人が手のひらで拭いながら、ため息をついた。
「あんま連絡とかしてくんなよ、俺、お前のことあきらめないといけないんだから」
「…靖人に聞いてほしいことがあれば、するもん」
「ちょっとは俺のために我慢しろよ」
「しない」
手を離しざま、ぎゅっとほっぺたをつねられて、飛び上がる。
出発のベルが鳴った。
電車のステップに足をかけた靖人が、ふと振り向いて、身を屈めて私の唇にキスをする。
一瞬の、そっと重ねるだけの、大事な幼なじみからの、"好きだよ"のキス。
「またな」
答えるより先に、ドアが閉まった。
動き始めた電車の中で、靖人が微笑んで、ひらひらと手を振ったのが見えて、それでおしまい。
帰っても、隣の家に、もう靖人はいない。
手を伸ばせば届くあの部屋に、明かりがつくことはしばらくない。
「高校生にもなると、さみしくもないんだろ」
特急が見えなくなる頃、そんな声がした。
傾きかけた太陽がホームに差し込んで、目の奥が痛む。
「…これは別」
「ほんと仲いいよなあ」
「妬ける?」
「まあ、大人だし、そんないちいち妬かないけど」
電車の去った線路の先を見ながら、健吾くんがぼそりと言う。
「俺、野球部OBにも友達いるからって、今度彼に伝えといて」
すっごい怒ってるじゃん…。
すぐそばにある、温かい手を握った。
「みんなハッピーなのがいいと思ってたんだ」
「そんなうまくいくかよ、世の中」
ほんと、その通り。
だからせめて、私はこの手のぬくもりを信じて、誰にも恥じない恋、するの。
大学生になって、はたちになって、自立して、お兄ちゃんと真由さんが幸せになるの見届けて、その間もずっと、健吾くんの手を離さずにいるの。
離さずにいられる自分になるの。
「行こっか」
「駅員さんにお礼しろよ、入場券なしで俺まで入れてくれた」
「ありがとうございます、すみません…」
年配の駅員さんが、なぜか私たちよりも恥ずかしそうにはにかみながら特急の改札を通してくれる。