【月がすごい、見える?】
より近くにいた靖人が、携帯を取ってくれた。
「月?」
なんのことかと見上げると、そこには確かに、すごいと言うしかない光景が浮かんでいた。
月の周りに、大きな大きな、虹色の輪ができている。
一緒に見上げた靖人も、「うわ」と声をあげた。
「雲に反射してるんだな」
「すごい、よく見ると二重だね」
はっきりした輪の外側に、うっすらともうひとつ。
私はいつの間にか立ち上がって、頭上の不思議な美しさに見とれていた。
「口開いてるぞ」
「あ、返事しなきゃ」
見たよ、すごいね…と打ちながら、靖人の視線に気づく。
なにを言いたいか、だいたいわかる。
「すごいな、この状況下で、なにもなかった体で月の話を」
「わかったわかった、靖人にキスされたってちゃんと書くから」
「自分に隙があったって懺悔しろよ、正直に」
「書けるわけなくない!?」
ただでさえ距離があるのに、わざわざ言えないことを作ってくれやがって、と恨みがましく靖人をにらむ。
靖人はいつもの、小バカにしたような表情で、ふんと笑った。
それを見ていたら、なにかがあふれた。
「大好きだよ、靖人」
ついそう口からこぼれて、あっと後悔するも、もう遅い。
靖人は目を丸くして私を見上げ、やがてほかにどうしようもなくなったみたいに、切なく微笑んだ。
「お前、残酷」
その言葉が、胸に突き刺さる。
ぎゅっと携帯を握りしめた。
「でも嬉しい、サンキュ」
私は、靖人のほうなんてとても見ることができず。
健吾くんに返事も送れず、月の輪の下にたたずんでいた。
■
10月に入ると、いくらか涼しくなり、次の月が見えてくる頃には、駆け足に秋がやってきた。
会わない日々は、予想以上に心穏やかで、清々と過ぎていく。
11月も半ばに差しかかったある日の学校帰り、ドリンクを買おうと入ったカフェで、私は心臓が止まりそうになった。
窓際の席に、健吾くんがいる。
そういえば、美菜さんとは何度も遭遇していたのに、健吾くんと偶然会ったことは、なかった。
私がいることに気づいていない、ひとりのときの健吾くん。
見つからないよう、カウンターの陰に身を隠した。
偶然なんだから、いいじゃん。
駆け寄っても、いいじゃん。
そんな心のささやきを、懸命に静める。
ダメだ。
一度それをやってしまったら、また会いたさだけが先走って、きっと自分を止められなくなる。
それで目先のことにばかりとらわれて、健吾くんの気持ちや優しさを見失ってしまう。
仕事中なんだろう、一人用の丸いテーブルに薄いPCを置いて、スーツ姿でコーヒーを飲んでいる。
ふと腕時計を確認すると、彼が窓の外を見た。
その視線を追いかけて、なにかに撃ち抜かれたような気がした。
窓からは、街並みの奥に、こんもりした高台の木々が見える。
そこには、存在を知っていれば、ここからでも一部を見てとることができる、クリーム色の建物がある。
──私の高校。
健吾くんは、コーヒーを飲みながら、少しの間ぼんやりと同じ場所を眺めて、やがてPCをたたみ、鞄を持って出ていった。
死角に逃げ込むようにしながらやり過ごし、物陰にしゃがみ込んで、熱いものがぐるぐるしている胸を押さえる。
涙がこみ上げてくる。
「あの…お客様?」
「あ、すみません、テイクアウトでホットミルクティのMを」
私に合わせるように、小声でささやいてくれた店員さんに、慌ててオーダーをする。
立ち上がって、涙を拭いた。
健吾くん、私ね。
ちょっとわかった気がするの。
どうしてあんなに想ってもらいながら、ずっと不安だったのか。
温かいカップを手に、秋の空の下に出た。
雲は高いところにしれっと浮かび、風にちぎれて散っている。
わかった気がするの。
──私がしていたのは恋で。
健吾くんがくれていたのは、愛だった。
つまりは、そんな感じ。
健吾くんが私に恋をしていないと感じたのは、ある意味では正しくて、でも私が考えていたような意味ではなかった。
私の想像よりはるかに深くて広いところで、彼は私を想ってくれていたのだ。
ずっと、最初から。
でもそれは、私の恋心と一対一になるような性質のものじゃなくて、だから私には、発しているのと同じだけ返ってきてはいないように思えて、そこだけ見て不安になっていた。
そもそも私の恋心は、半分くらいが"恋に恋する心"だったようなもので、要するになにもかも幼くて、それに気がつくのにすら、こんなに時間がかかる始末。
ほんとごめん、健吾くん。
それからありがとう。
もらっていることに気づかないほどの愛情を、ありがとう。
もう少しがんばって、私なりの順番をちゃんと守って、今一番やるべきことを終わらせたら、会いに行くね。
これまでもらった分の愛を、倍くらいにして返しに行く。
それから、今さらだけど、恋してもらうの。
乾いた風が、スカートの中を吹き抜けていく。
もう、あと何か月かしたら着ることもなくなる制服。
私はこれを、子供のしるしみたいに考えていたんだけれど。
健吾くんからしたら、守るべきものの象徴だったんだろう。
同じ空を見ているんだよね。
月は、健吾くんのところから見ても丸いんだよね。
あのきれいな輪は、私たちふたりの頭の上に、同じようにあったんだよね。
そう思えばさみしくない。
待っててね、健吾くん。
私、そこに行くから、待ってて。
いつもみたいに、ポケットに手を入れて、笑って待ってて。
【メリークリスマス!】
【メリークリスマス。言ってないから知らないと思うけど】
【うん?】
【今日、俺の誕生日】
ちょっと待って、待って。
冬休み初日、何の気なしに入れた連絡にそんな返事が来て、昼ご飯の準備を放り出して電話をかけた。
かけてから、あれっ、仕事中かな? と思い至る。
でもすぐにつながった。
『はい』
「あの、お誕生日おめでとう、ごめん、知らなくて」
『いいよ、言ってなかったと思うし。サンキュ』
「クリスマス生まれだったんだね」
『そう。ひとつもいいことない』
あはは、そうだろうなあ。
リビングのソファの上で、体を丸めるようにしてひざを抱え、久しぶりの声が耳元でしゃべってくれるのを聞いた。
たまにくぐもるのは、お昼ごはん中だからだろうか。
『元気?』
「うん、最近模試の順位上がってきてね、志望の学部変えたんだ」
『そっか、そういうときは絶対挑戦したほうがいいよ、がんばれ』
「ありがと、やってみる」
『そういや今日さあ、誕生日でクリスマスで、高校は冬休みなのに俺になんの予定も入ってないのを、青井にすげえ不審がられて』
「会ってないって言ってないの?」
『言ってほしかった?』
…いや、うーん、いやいや。
靖人じゃないけど、そんなのわざわざ伝えるなんて、今ちょっと隙がありますがどうしますって誘っているようなものだ。
「ううん」
『だろ。相手いない奴だけで飲み会しようって話も出て、俺も入れられてたんだけど、さすがにと思って、急きょ予定ができたふりをして断ったわけ、さっき』
「大変だね…」
『ほんとだよ。なんで俺がこんなむなしい嘘つかなきゃならねーんだよ』
健吾くんの声は、どんなに久しぶりでも、気負いがなくてちょっとけだるげで、でもめんどくさそうでもない。
私の話を聞いてくれるだけじゃなくて、健吾くんにもいつも、私に聞かせたい話があって、それが私はすごく嬉しい。
「ごめん」
『受験なんかさっさと終わらせろよ、今日なんかどこ行ってもカップル向けの呼び込みばっかだし、誘いだってあるし、ふらっと来たら俺、なにするかわかんないからな』
「私が勝手に終わらせるなんてできないの!」
言ってから、おや…と気づく。
「”誘い”ってなに?」
『俺ほどの男がこの時期にヒマそうにしてるのを、見逃す女ばっかりじゃねえってことだよ』
「え、え、なにそれ、健吾くんてそんなもてるの?」
『仕事戻るわ、じゃあな』
「待ってよ!」
無情にも通話は切れた。
なんだこれ!
見逃されないとどうなるの?
美菜さんみたいな女の人が、ほかにもいっぱいいるってこと?
なにするかわかんないって、たとえばなにするの?
頭の中に、健吾くんが華やかな女の人に囲まれて、まんざらでもなさそうにしている図が浮かぶ。
うう、ひどい妄想の中でもかっこいいな、健吾くん…。
がんばれと言っておきながら、受験生をこんな心理状態にしていく健吾くんが憎い。
そこで料理の途中だったことを思い出して、急いで台所に戻った。
今日も一日勉強だから、ブドウ糖補給のために根菜たっぷりのお味噌汁だ。
豚肉入りで、ビタミンB2も補える。
要するに豚汁だ。
お味噌を溶いているところに、兄が仕事から帰ってきた。
「はあ、寒かった、いい匂いだなあ」
「食べるでしょ?」
「うん」
鼻の頭を赤くしてうなずく。
洗面所に行く途中、ダイニングのテーブルの上に置いておいた模試の結果をひょいと取り上げた。
「英語、ものになってんじゃん」
「うん、安定してきた」
「さすが俺の妹だな」
「今日、願書書こうと思うんだけど、緊張するから一緒に書いて」
「二人羽織でもするのか?」
「そばにいてってこと!」
「わかったよ」
ガスコンロの前にいる私の頭を、笑いながら叩く。
その手が、くしゃくしゃと髪をかき混ぜた。
「なに?」
「俺のエゴも半分あるのに、文句も言わずに、ありがとな」
見上げた顔が、優しく微笑んでいる。
笑い返すのが、ちょっとだけ難しかった。
お兄ちゃんこそ。
私がいるから、真由さんと暮らすのも先送りにしているくせに。
ほかにもいっぱい、私のために我慢してきたこと、あるくせに。
「お父さんの銀行、入れるかなあ」
「ちゃんと就活すれば、あるいはな」
「お母さん、結婚するまでは同じ職場だったんでしょ?」
「らしいな」
味見用に、小皿に少量取って渡すと、まだ上着で着ぶくれている兄が受け取る。
香りを確かめてから慎重にすすり、「うまい」とうなずいた。
「ねえ、職場恋愛ってどんな感じ」
兄が小皿に残った分を、ブッと勢いよく吹いた。
真っ赤になって、小皿を突っ返してくる。
「手洗ってくる」
「ねえっ、教えてよ」
「仕事中はそんなの関係ねえよ、普通に働いてるよ」
「だからこそ、なれそめ的なものを聞きたいんじゃん」
「妹に話すことじゃないの」
「じゃあ靖人に話してよ、靖人から聞くから」
「アホか!」
「今日はデートですか?」
「夕方からお互い仕事だよ、こんな日に休めるわけないだろ!」
出ていってしまった。
まあいいや、いつか真由さんから聞こう。
二人分の豚汁をお椀によそいながら、思考をめぐらせる。
始まりの形とか、好きになる理由とか、そんなものはきっと、人の数だけある。
どれが正しいとか、どこからが非常識とか、そんなものはなくて、ただ、理解されづらかったり、誰かを傷つけてしまったりすることがあるだけ。
せっかくなら、自分も含めて誰もがハッピーになる恋愛をしたいものだと思うけれど、残念ながらそううまくはいかなくて。
ならせめて、自分だけでも幸せだって、胸を張れるようにならなきゃねって。
そんなことを考えるようになった。
■
「うう、おなか痛い…」
「しっかりしろよ、なんで試験終わったとたんにそれなんだよ」
「もう自分の努力でどうにかなる部分が終わってしまったと思うと、不安で…」
「強いのか弱いのかわからんメンタルだな」
入試会場である大学の校舎を出ながら、靖人にすがりついた。
靖人は私と学科違いで、ここを受けている。
すべり止めと言えるほど油断はできないって言っていた。
私は奨学金や場所の関係もあって、ここ以外に受かったところで通えないので、いっさいの誇張なしに単願、一発勝負だ。
とはいえ別日程で、競争率の低い別の学部を受けてはいるけれど。
「とりあえずお前はこれで終わったんだろ、喜べ」
「靖人は月末に国立二次?」
「そう」
「その前にここの発表かあ…うう、おなか…」
「十日以上あるのに、ずっとそれやってる気かよ」
あきれながらも心配そうに、背中をさすってくれる。
「もうすぐ健吾くんに会えるんだろ、がんばれ」
「うん、しっかりお願いしたから、それは大丈夫」
「お願いって?」
「初詣のときにね」
「受かりますようにじゃなかったのか、余裕だな」
「どっちにも掛かったお願いごとしたの」
校門を出て、駅に向かおうとしたとき、ふと視界に入ったものに、私は目を疑った。
道路の向こう側の路肩に停められた、シルバーの車。
そのそばで、ガードレールに腰かけて、煙草を吸っている姿。
あれ…?
なんで?
「健吾くんじゃん」
靖人の声に、びくっと反応してしまう。
足が動かなくなってしまった私の顔をのぞき込んで、靖人が「叶ったな」と言った。
呆然としたまま答える。
「半分だけね…」
「なんてお願いしたんだ」
ぼんやり空を眺めていた健吾くんが、ふとこちらを見た。
私たちに気づくと、ちょっと驚いたような顔をしてから、煙草をくわえたまま、にこっと笑う。
靖人が、動かない私の腕をひじで小突いた。
なんてお願いしたのかって?
単純だよ。
「健吾くんと、笑って会えますようにって」
「じゃあもう、後はお前次第だろ」
ぐいとほっぺたをつねられて、そういう意味じゃないよと思った。
やることやって、大学にも受かって、春からの生活も見えてから、自信持って会いたいって、そういう意味。
笑えばいいってもんじゃ…。
「待ってるぞ、行ってやれよ」
私の背中を叩いて、靖人は駅のほうへ走っていってしまった。
健吾くんも私もそれを見送って、視線を戻した瞬間に目が合う。
ようやく足が動いて、私は細い道路を渡った。
健吾くんはなぜか、私を迎えに来るでもなく、ガードレールに座ったまま、にこにこしている。
「久しぶり」
「健吾くん…なんで?」
「だって、今日で受験終わりだろ?」
短くなった煙草を、車の屋根に置いた車内用の灰皿に捨てて、健吾くんは当然のことのように言った。
日曜日なのに、スーツだ。
仕事があったんだろう。
「…私の心づもりでは、発表までが受験って意識で」
「え、そうなの!」
初めて少し焦りを見せる。
その顔がわずかに赤らんだので、私はぽかんとしてしまった。
「俺、てっきり、試験受ければ終わるんだと」
「…だから会いに来てくれたの?」
「今日で解禁だと思ってたから…」
気恥ずかしそうに目をうろうろさせて、そわそわと煙草を探す。
胸ポケットから煙草を取り出したところで、それを押しとどめるように手を重ねると、健吾くんの指は、冷えきっていた。
せめて車の中にいたらよかったのに。
2月の、こんな寒い日に、わざわざ外に出ていなくても。
手を握ると、健吾くんが戸惑ったように「郁?」と呼んだ。
あのね、健吾くん。
健吾くんが、意地悪だったりからかい半分だったりしながらも、約束した通り、毎日必ず連絡をくれたのが、私、本当に嬉しくてね。
一回一回、私の中になにかが積もって、それが気持ちを支えてくれているの、感じていた。
「郁」
健吾くんの首にぎゅっと抱きついた。
今なら言える気がする。
私、愛されていて幸せ。
「会いたかったよ、健吾くん」
人目を気にしてか、健吾くんがためらう気配がして、でもすぐに、腕が背中に回された。
スーツのとき、動くたびシュッと生地が鳴るの、いいよね。
ぎゅうっと健吾くんの腕に力がこもる。
痛いくらい。
「俺も」
その声は、どう否定しようとしても無理ってくらい嬉しそうで、さすがの私も、全面的に信じるしかない。
ねえ、この人ってさ。
私のこと、相当好きじゃない?
「で、肝心の試験はどうだったんだ?」
「ほぼ問題なくできたよ、自分的には」
「じゃあ、春から俺の彼女は女子大生か」
運転しながら、健吾くんが楽しそうに笑う。
彼女という響きに、今さらちょっとドキッとした。
「それなら人に言える?」
「男からはうらやましがられて、女からは白い目で見られるっていうパターンだろうな」
そんなものか。
健吾くんはスーツの上着を後部座席に置いて、ワイシャツとネクタイ姿になっている。
まだ夕方の早い時間なのもあって、仕事中の健吾くんって、こんな感じなんだろうなって想像がつく。
「今日も仕事だったの?」
「半日だけな」
「その指のテープ、なに?」
ハンドルを握る左手の中指に、白いテープが巻かれているのが気になって訊くと、予想外の答えが返ってきた。
「骨折したの。もう治りかけだけど」
「え! そんな話、してなかったよね?」
「会うときまで言わないほうが、面白いかなと思って」
いやいやいや。
面白くないよ。
知らないところで骨折されてたなんて、ただただびっくりだし、心配だよ。