「どうせ子供だし」
「そうだな」
「健吾くん、私のどこがいいの?」
つい、噛みつくような声が出た。
健吾くんがきょとんと目を見開く。
「どこって」
「子供でもいいって、なんで思えるの? 子供だから、できないこといっぱいあって、共有できることも少なくて、なんでそれで我慢できるの?」
「郁、怒るよ」
「怒っていいよ、でも正直なところを教えて。なんであのとき『いいよ』って言ってくれたの? 私が苦労してそうだから、力になりたいとか支えてやりたいとか思った?」
返事をしてくれなくなった。
黙ってこちらを見返す健吾くんに、ますますどうにもならない感情が噴き上がってくる。
「卒業までダメって言うけど、それ、現時点の私じゃ、足りてないってことだよね。じゃあなんでつきあってくれてるの? 見込みみたいな感じ? 私が予想通りに成長しなかったらどうする?」
頬に痛みが走った。
なんてことない、ごく軽い衝撃だったけれど、初めて叩かれたことにショックを受けて、本格的に涙が出た。
叩かれた衝撃でずれた視線をそのままに、ぽたぽたと頬を濡らす。
「子供でもとか、子供だからとか、そんなに大事か」
健吾くんの声は、静かだ。
「何度も言ってるけど、俺は郁が好きだよ。高校生だけどとか、高校生だからとか、そんなの関係なしに、ただ好きだよ。なんで信じないの」
「関係なくはないじゃん…」
「ないよ、気にしてんのは郁だけだ」
「だって、健吾くんが、卒業まで卒業までって言うんじゃん!」
腹が立って、手元にあった枕を投げつけた。
健吾くんは素早く腕でガードし、顔面にぶつかるのを防ぐ。
跳ね返った枕を受け止めようとしているところに、飛びついた。
よけそこねた健吾くんは、うわ、と小さく声を上げてベッドの上にひっくり返った。
「関係ないって言うんなら、今すぐしてよ」
「それとこれとは別だ」
「それで私が納得すると思う?」
ワイシャツを掴んで、起き上がらせまいと体重をかける。
健吾くんの目つきが厳しくなった。
「俺は、好きだって話に高校生とか持ち込むなって言ってるんだ。こういうのはまた別の話だ」
「なにそれ、大人の理屈?」
「ほんとに怒るぞ」
「私だっていい加減怒るよ! なんで美菜さんとして私としないの。それで大事にしてるつもり? こっちは満たされなくて、不安しかないよ!」
「それこそ青井は関係ないだろ」
「そう言えるのは、健吾くんだからでしょ、私の立場になって考えたことある?」
ネクタイの一方の端を引き抜いてほどくと、健吾くんがようやく、ぎくっとした表情になった。
止めようとする手を無視して身体の上に乗り、ワイシャツのボタンを外す。
「郁」
「無理なら無理でいいよ。やっぱり子供じゃダメなんだねってあきらめがつくだけだから」
ベルトに手をかけると、抵抗が本物になってきた。
手首を掴む力に、こっちも本気で対抗しないとならない。
寝込んでいたおかげで思うように動かない手で、渾身の力を振り絞って、バックルを外してスラックスのボタンとファスナーを引き裂くように開けた。
「郁!」
健吾くんが、身体をよじって抗う。
私はパジャマ代わりの大きなTシャツを脱ぎ捨てた。
下は薄いタンクトップと下着だけだ。
健吾くんがはっとし、思わずといった感じに視線を私の身体に走らせ、顔をそむける。
ねえそれ、どういう意味。
ありなの、なしなの。
ぐいとシャツをスラックスから引っ張り出すと、腰骨の上の筋肉が見える。
そのまま中のTシャツを、きれいなおなかが露出するくらいまでたくし上げ、「やめろって」という声を無視してボクサーパンツに手をかけた。
「やめろって、郁!」
突然ものすごい力で両腕を掴まれ、はっとしたところに目が合う。
健吾くんが、見たことのない表情で私を見上げていた。
息を弾ませて、なんだか必死さのにじむ、険しい目つきで。
手加減なしに掴まれている、二の腕が痛い。
私たちはしばらく、無言でにらみ合った。
「…やっぱり無理?」
自分への失望に似た、暗い気持ちで訊いたとき、健吾くんの胸元で携帯が震える。
健吾くんは、私がまたなにかしないよう、目でけん制しながら片手を離し、胸ポケットに指を入れた。
「はい…あ、了解。ありがとう」
短い会話を終わらせると、携帯をしまって私をじろっと見る。
「時間切れだって。どいて」
「靖人から?」
「そう。お兄さんが帰ってくる。どいて」
それを聞いてしまったら、どかないわけにいかない。
のろのろと健吾くんの上から降りるのを待ちかねたように、健吾くんはさっと身体を起こし、私を押しのけるとベッドから降りた。
素早く最低限の身づくろいだけして、鞄を床から拾い上げると振り返りもせず部屋を出ていく。
足早に階段を下りる足音と、玄関のドアが開閉する音を最後に、家の中はしんと静まり返った。
私は呆然と、無音の中に座り込んでいた。
どれだけ時間がたったかわからない頃、ドアがノックされた。
「おい…うわ!」
入ってこようとした靖人が、悲鳴みたいな声をあげる。
「お前、なんだその恰好」
駆け寄ろうか部屋を出ようか迷っている感じで、縛りつけられたように戸口のところに立っている。
それを見ていたら、泣けてきた。
「靖人…」
「え、な、泣くなよ、なあそれ、まさか健吾くんじゃないよな」
首を振って、うなだれる。
事件性はないと踏んだ靖人は、ためらいがちに、そろりと部屋に入ってきた。
「どうしたんだよ…」
「バカなことした…」
どうしようもないくらいバカなことした。
自分で、最後の希望を打ち砕いて。
健吾くんまで怒らせて。
「とりあえず服、着ろよ」
うずくまって泣く私に、靖人はおろおろと、床からTシャツを拾い上げて、肩にかけてくれた。
霞がかかったような意識の中、兄が帰ってきた気配を感じた。
ということは、もう真夜中だ。
暑かったり寒かったりが繰り返すので、忙しく布団をはいではかけ直し、身体の痛みが軽いときを狙って点々と眠る。
要するに、すっかりぶり返してしまった。
約束通り、一緒にいる間は携帯を預けないと、と考えているうちに意識は遠のき、次に気づいたときには、枕元の携帯はなかった。
手足を投げ出して天井を見上げながら、身体のしんどさと汗の不快さをはかりにかける。
不快さが勝ち、シャワーを浴びることにした。
手すりにすがって1階に下りると、明かりのついていないリビングから、ぼそぼそと人の声が聞こえる。
またどっと汗をかいてから、兄だと気がついた。
薄く開いたドアからのぞくと、非常用のフットライトに、足元だけを淡く照らされて、ソファで片脚を抱えるようにして電話をしている姿が見える。
なんだよ、びっくりさせないでよ、もう。
胸をなでおろして、お風呂場に向かおうとしたとき。
「うん、悪いけど、もうしばらく待ってな」
聞こえてきたのが、あんまり優しい声だったのでつい足を止めた。
「わがまま言ってくれても嬉しいけど、俺は」
わあ、なんか恥ずかしいこと言ってる!
この様子は、相手、真由さんだな。
ひとりで顔を赤くしながら、初めて聞く兄のそんな会話に、悪いと思いつつも耳を澄ましてしまう。
ソファのきしみと一緒に、カランと涼しげな音がする。
お酒を飲んでいるらしい。
珍しいな。
「そう、そうなんだよね」
夜遅くに、恋人同士がそっと交わす会話。
いいなあ、とくすぐったくなりながら、どこで退散しようかなんて考えていたんだけれど。
「親から預かった、大事な妹だからさあ」
その言葉に、えっと我に返った。
あれ、私の話?
「大学出るまでは、俺が責任もって面倒みたいんだ」
言いながら、自分で照れくさくなってしまったみたいで、なぜか笑いだす。
恥ずかしそうに笑いながら、「え、うん」とか言いつつソファの上で体勢を少し変えて、また甘い優しい声を出して。
「だから、それまでは無理、ごめんな」
私はといえば、廊下で立ち尽くしていた。
「その後? 好きにしたらいいよ、うちに来てもいいし、俺が出てもいいし。郁実とも一緒に話さないとな」
私ってば。
いつの間にか、ひとりで生きているような気になって。
つらいことも悲しいことも、全部自分の世界の中で完結できているような気になって。
あんたほんと子供だよ、郁実。
大事なこと忘れちゃって、勝手なことばかり。
目と耳の中間あたりがツンと痛くなってきて、これ以上ここにいると泣くなと思った。
足音を忍ばせて、お風呂場に向かう。
ねえ私、考えないとね。
自己嫌悪に浸っている場合じゃないよ。
これからどうするべきなのか、考えるんだよ。
■
「お、よくなったのか」
翌々日、隣の家を訪ねると、靖人が前庭でヨーを洗っていた。
「うん、お陰様で。これ回覧板」
「サンキュ、そこ置いといて」
泡まみれの手で縁側を指す。
言われたとおり、真夏の日差しで熱された縁側に回覧板を置いたものの、即座に立ち去るのも不自然な気がして、そのあたりに漂っていたら、靖人が笑って手招きした。
「お前、わかりやすいな」
「あのー、お手伝いしましょうか」
「なんで敬語なんだよ」
海パンとTシャツ姿で、自分も水浸しになりながら、泡だらけのヨーをがしがしと洗う。
耳が垂れて毛の長いシェパードといった雰囲気のヨーは、気持ちよさそうに目を半分閉じて、舌を出している。
ヨーももとは捨て犬で、まだよちよち歩きの頃、このへんに迷い込んできたのを靖人が拾ってきたのだ。
当時は真っ黒でふわふわでぬいぐるみみたいで、一目見た獣医さんに『この子は大きくなるよ』と言われたものの、まさかここまでとは誰も思っていなかった。
「あっ、やべ」
「え?」
ホースに手を伸ばした靖人が、緊迫した声をあげる。
なんの反応もできないうちに、私は犬臭い水と泡を全身に浴びた。
ヨーが我慢できなくなって、胴震いしたのだ。
後足からしっぽまで、念入りにぶるぶると振ってから、満足そうにどこかへ行こうとするのを、靖人が首輪を掴んで引き戻す。
「こら、ちゃんと流してからだ」
「靖人、こっちもなんとかしてほしい…」
顔から脚まで、ぐっちゃぐちゃだ。
ヨーを押さえつけて水をかけていた靖人が顔を上げ、おもむろにホースをこちらに向けた。
びゃー! という変な悲鳴が出た。
シャワー状になった水が、かなりの強さで顔面を打つ。
「なにすんの!」
「なんとかしろって言うから」
「タオルとか貸してほしかったんだよ!」
「どうせその分じゃ全身洗濯だろ? 暑いんだし、気持ちいいじゃん、ほら」
「痛い、それ痛い!」
再び強烈なシャワーを浴びせられ、さすがに腕で顔をかばう。
ふいに攻撃がやみ、おそるおそる見ると、靖人がヨーをすすぎながら微笑んでいた。
「頭冷えたか」
全身から水をぽたぽた垂らして、情けなく立ち尽くす。
「冷えてるよ、もう」
「仲直りできたのか?」
Tシャツを絞ることで、即答を避けた。
「健吾くん、実家なの、今」
「へえ、どのへん?」
「県北のほう」
「じゃあ、けっこうな長距離通学だったんだな」
「そうみたい。たまにいるよね、越境の子」
「あっちのほう、高校ないもんなあ。ほい、終わったぞ」
再びずぶ濡れになったヨーを解放してやると、ヨーは靖人の指示のとおり、庭の隅っこまで駆けていって、また全身を震わせた。
周りの草花がざあっと音を立てるくらい、激しく水しぶきが散る。
私はホースリールを回して、ホースを巻き取った。
「あの、ペンダント、ありがとう、直してくれて」
靖人はヨーを入れていた子供用プールの縁を足で踏んで、水を逃がしている。
「俺も悪かったし」
「健吾くんに渡したしね」
「どんな反応するかなと思ったんだけど、想像通り、冷静だった」
私は黒いビーチサンダルを履いた靖人の足を眺めながら、「そっか」とつぶやいた。
靖人がこちらを見る。
「なんかあった?」
「え?」
「さっぱりした顔してる」
「さっき洗っていただいたんで」
持ち上げたビニールプールを頭からかぶらされそうになって、慌てて正直なところを打ち明けた。
「来し方行く末に思いを馳せていたら」
「いたら?」
「ちょっと順番が見えてきた」
それだけ? とでも言いたげに首をひねって、靖人がプールを抱えるようにして空気を抜く。
うん、それだけ。
でも、すごく大事な”それだけ”なんだ。
私にとってはね。
「まあ、なんでもいいけど。突っ走って転ぶなよ」
「大丈夫」
「今日、治樹くん夜いるだろ、久々にうちに食いに来いって母さんが言ってんだけど」
「いつも思うけど、小瀧家ってなぜかうちのお兄ちゃんのシフトに詳しいよね」
次第に小さく丸まっていくプールから、空気の抜ける間抜けな音がする。
靖人が変なものでも見るような目つきで、じろじろと私を見た。
「それ、本気で言ってんの?」
「え…どういうこと?」
「俺ら、治樹くんから毎月のシフト表、もらってんだぜ」
「えっ!?」
兄がお隣さんに、自分のシフトを?
どうしてまた、なんて、答えはすぐにわかった。
“妹をよろしく”ってことだ。
「いつから…?」
「治樹くんが働きだした頃からだよ。知らなかったんだな、お前」
そうだったのか…。
そのシフト表を見て、私はいつ健吾くんに会いに行けるかばかり考えていたのだ。
肩を落とした私に、あきれのため息が降った。
「兄不孝者」
「心を入れ替えます…」
「まさか、健吾くんと別れる気じゃないよな?」
「ねえそのプール、もしかして私たちが使ってたの?」
ついにくしゃくしゃになったビニールの塊を見下ろして、靖人がうなずく。
「そうだよ、新しいの買ったから、こいつは今日でおしまい。直しながら使ってたけど、さすがにもう限界でさ」
「よく今までもったねえ」
「ほんとになあ」
靖人と私がこれで遊んでいる写真が残っている。
小学校に上がる前とかだから、10年以上前だ。
太陽が真上に差しかかり、庭の木からセミの声が湧きたった。
青い空には絵葉書みたいな入道雲。
「暑いな」と一緒に空を見上げながら、靖人がつぶやいた。
■
「こんな感じ?」
「相変わらずセンスないな」
ナスに割り箸を刺して作った、やっとこ四本足で立ってますというきわどいバランスの精霊馬を見て、兄が残念そうに言う。
「うう…」
「まあ、郁実が作った牛なら、父さんたちも文句言わずに乗ってくれるだろ」
「馬のほうはもうあきらめたから、お兄ちゃんやって」
「なんだこりゃ!」
何度も力加減をミスって割り箸を貫通させたせいで、穴だらけになったきゅうりを見て、兄が嘆いた。
我が家には、リビングの隣に、仏間のある和室がある。
あまり使わないその部屋で、お盆の準備をしているところだった。
今日は迎え盆だ。
地域がらもあり、母が生きていた頃から、そんなに本気でお盆の準備をする家ではなく、お墓参りといつもよりいいお供えと、精霊馬を飾るくらいで、簡単に済ます。
「お墓行く前に、和菓子屋さん行ってこようかな」
「あ、そうだな、俺ほかも掃除しとくから、頼めるか」
「うん」
近所の和菓子屋さんでは、夏になると、涼やかな水色の練り切りが出る。
母はそういう、季節を感じられるお菓子が好きだった。
「お父さんの分は、また適当でいいのかな」
「いいだろ、好みなんて覚えてないし」
「お母さん、なにお供えしてたっけね?」
「自分の好きなもの供えてた」
「自由だね」
仏壇から位牌や香炉を取り出して私に渡しながら、「いや、そういうわけでもなくて」と兄が答える。
「どういうこと?」
「『なに食べたい?』って聞くと、『きみの好きなものを』って答える人だったんだってさ、父さん」
うわ、素敵な旦那! と思いかけて、おや、と気づく。
「それ、”なんでもいい”をちょっとうまく言っただけだね」
「そう。だから母さんは、そういう調子ばっかりいい父さんへってことで、自分の好きなものばかり供えたわけ」
「仲のいい夫婦だなあ」
「まったくな」
乾いた布で仏具を拭きながら笑った。
仏壇の中を拭いていた兄が、ふと振り返る。
「明るいな、お前」
靖人と同じようなこと言ってる。
私は兄に向かって、にこ、と笑ってみせた。