「でも…もうケンカしたくないよ」
「別に毎回ケンカになるわけじゃないだろうし、なったって別によくないか? 後で仲直りすりゃ済む話だろ」
「やだ。怒った健吾くん、すごく怖かった」
「そんなに怖かったか?」
「怖かった」
ほんとに怖かった。
それだけはわかってほしくて言い張る。
思い出すだけで泣きそうになり、うつむいた。
健吾くんが横で、私をじっと見ているのを感じる。
繋いだ手が、ぎゅっと丁寧に握り直された。
「ごめんな」
「いいけど…」
「だから、そういうとこですぐに"いい"とか言うなって」
「え、ここで指導入るの?」
「納得したふりすんなって話だよ。俺けっこうカッとなるし、これからも腹立ったら言いすぎることとかあると思うけど」
「あるんだ…」
「でもそれは、単にその場の話の流れが気に入らないってだけで、郁が嫌になったとか、そういうわけじゃない。そのくらいわかるだろ?」
あ、そこ開き直るんだ?
若干ぽかんとなりつつ見上げると、健吾くんは大真面目だった。
「俺が悪けりゃ、絶対後でごめんって言うから。一時的なケンカくらいで引くなよ。言いたいことは言え」
私が返事をせずじっと見ているので、だんだん健吾くんもあれっと思いはじめたらしく、目が自信なさそうにさまよう。
男の人って、もしかしてそういう考え方を"合理的"だとか"理性的"だとか思っているんだろうか。
こっちからしたら、無神経一歩手前なんだけどな。
それで"女は感情的"なんて言われた日には、やっていられない。
じろじろと私に見られて、ついに健吾くんがいたたまれなくなったように口を開いた。
「…なんか言えよ」
「うん」
「うんってなんだ」
「言いたいことは言う、ようにがんばる」
「ん、がんばれ」
「あと次は、もっと早く自分から謝れるようにがんばる」
自戒の念も込めて、宣言する。
「まあ、ケンカしないで済むのが一番だけ」
ど、という語尾はキスで消えた。
私の顔をのぞき込むように身を屈めた健吾くんが、優しく言う。
「俺も、怖がらせないようがんばる」
「…うん」
「怖いって言われんの、きついな。知らなかった」
苦笑しながら空を見上げる彼の髪を、風が揺らした。
「そうなんだ」
「嫌いって言われるよりきつい気がする」
それはたぶんね、どこかで私の保護者っていう感覚があるからだよ、と思ったんだけど、言わずにおいた。
繋いだ手の温かさを噛みしめて、肩に頭を載せる。
頬ずりするみたいに、それを迎え入れてくれる。
「代弁してみ」
「うーん…郁がかわいくて困る?」
健吾くんは声を立てて笑い、あいているほうの手で私の顎をすくい上げて、もう一度、今度はゆっくりしたキスをくれた。
「当たってる」
酔っているっていうのも、本当なんだろうな。
このベタベタな感じは、素面のときじゃなかなか出ない。
せっかくなので甘えようと思ったとき、人込みの中に目が行った。
凍りついた私の視線を追って、健吾くんが振り返る。
少し離れたところに、たぶん私たちにと買ったフードやドリンクを胸に抱えて、美菜さんが立ち尽くして、こちらを見ていた。
「…青井」
「え、なにしてるの、いく…郁実ちゃんと、そんな」
忙しなく私と健吾くんに交互に向けられていた視線が、やがて私たちの、繋いだ手の上で止まる。
その目が、愕然と見開かれていった。
私は思わず、健吾くんの後ろに隠れたくなって、でも耐えた。
そんなのは、卑怯で、失礼だと思ったからだ。
「…え、嘘でしょ?」
「青井、あのさ、お前だから言うけど」
あっ…健吾くん!
思わず腕にしがみついて止めた私を、彼が不思議そうに見る。
訴えたいことが声にならなかった。
美菜さんは、ダメだよ。
だって、だって…。
ああ、でももう今さらだよね…。
美菜さんが、信じられないものを見るように、困惑に顔を歪めて、慎重に訊いてきた。
「…つきあってるの? 本気で?」
嘘であってほしい、と言っているような声だった。
でもその理由は、健吾くんにはきっと正しく伝わらなかった。
健吾くんが、私の手をそっと握り直し、それからはっきりと言った。
「うん」
少し照れのまざった、でも真剣な声。
美菜さんは、言葉をなくしたように身体を強張らせて、私たちふたりを凝視している。
頭上で弾ける花火が、その顔を色とりどりに染め変える。
「あのさ、誤解してほしくないんだけど…」
「私がいくに未練たらたらなのを、どう思いながら見てたの?」
震える声が、健吾くんの言葉を遮った。
まっすぐ私に向けられた、傷ついた瞳。
なにも言えなかった。
ふと美菜さんの視線が揺れて、泣きそうな表情になった。
髪をかき上げて、涙をこらえるように顔をしかめる。
「ごめん…郁実ちゃんが悪いんじゃないのに」
「美菜さん…」
開きかけた口を閉じた。
なにを言うつもりなわけ、私?
ごめんなさい?
──何様?
美菜さんが、振り切るように顔を上げ、健吾くんに言った。
「ごめん、私、これで帰る。靖人くんによろしく伝えて」
「あの…なんの話?」
フードのバスケットとドリンクの入った手提げ袋をどさりと渡されて、健吾くんが困惑した声を上げる。
美菜さんは苦笑して、ちらっと私を見た。
"ほんと仕方ないわね"みたいな具合に。
「いくは、もう二度とないって思ってたかもしれないけど、私はいつか次がないかなってずっと期待してたの。そういうこと」
「え?」
「よりによって彼女にばらしちゃってごめんね。せっかくなら、それをきっかけに亀裂でもなんでも入ってくれてよかったのに」
ぽかんとしたままで、いっこうに理解の進まない様子の健吾くんに、美菜さんが毅然と微笑んで、語調を強めた。
「ずっと前からいくが好きよ。ついでに言うと、気づいてなかったとは言わせない。そのほうが楽だから、気づかないようにしてただけだよ、いくは」
健吾くんの目が、見開かれていく。
「じゃあ、また月曜にね」
それだけ言い残して、美菜さんは行ってしまった。
健吾くんは目で追うこともせず、呆然とフードを抱えたまま。
その表情がだんだんと、混乱とか後悔とか、自責の念とか、そんなものに包まれていくのを、私は横で見ていた。
■
「くじ引いてない人ー」
「こっち、2枚足りない」
「あれ?」
ホームルーム委員の番場(ばんば)くんが、ティッシュの空箱の中をのぞく。
「底に引っついてた、はい引いて」
私は腕にとまった蚊をしばらく眺めてから、ぱちんと叩いた。
虫よけスプレーを持ってくるべきだった。
一泊二日のクラス合宿の夜、定番中の定番、肝試しが始まろうとしているところだ。
合宿は学校の敷地内にある合宿施設で行われる。
泊まる部屋も共同浴場もキッチンもあり、一年に一度、各クラスが宿泊予約を入れることができる。
たいてい夏休みがターゲットになるため、お盆の前後は争奪戦だったりするらしい。
親交を目的とした合宿なので、内容はお遊びだ。
去年はサッカーのW杯と時期が重なり、合宿所のロビーの大きなテレビの前に集まって観戦したりした。
控えめな月明かりの夜。
校舎を囲むうっそうと茂った木々の間からは、リーリーという虫の声や、小さな動物が草を揺らす音が聞こえてくる。
休みなので校舎のライトもついていない。
懐中電灯を頼りに、肝試しの待機場所である職員駐車場に集まった私たちは、すでにけっこう盛り上がる気配を感じていた。
「ね、郁実ちゃん、番号交換してもらえない?」
「え? いいけど、なんで?」
小声で話しかけてきたのは、なっちゃんだった。
くじは男女のペアを作るためのもので、私は8番という番号を引いたものの、相手が誰だかは知らない。
「あのね、小瀧くんが8番なんだって」
「え、なにその情報」
ふと見れば、女の子たちが集まって、なにやら情報交換している。
どうやら男子の中に情報屋がいて、向こうの番号を流してくれているらしい。
それくじの意味ないじゃん! と突っ込みつつ、とりあえずそれよりも気になることがある。
「え、なっちゃんて、そうなの?」
「えー…うん、ふふ」
暗がりでもわかるくらい頬を染めて、なっちゃんが笑う。
ひえー、そうだったのか。
じゃあもしかして、野球オタクじゃなく、靖人オタク?
「あっ、野球はもとから好きなんだよ、小瀧くんをいいなって思ったのも、クレバーなプレイに惹かれたのが始まりだから」
「そんなところまでオタク…」
「交換してもらっていい?」
「いいよいいよ、もちろん」
うわあ、靖人、男見せてこいよー。
青春の一幕に貢献できた気分で興奮しながら、意気揚々と紙切れを取り換えっこし、6番という数字を手にした。
「ありがと、がんばってくるね」
「末広がりだし、きっとうまくいくよ」
「どうかなあ」
「大丈夫、靖人、なっちゃんのこと、よく試合の流れ見てるなって感心してた!」
「ほんと? 嬉しいな」
照れ笑いをするなっちゃんは、かわいい。
そうか、高校最後の夏ともなると、こういうことが起こるのか。
「あれえっ?」
けれど、6番と呼び出されてスタート地点である、誰だかいまだにわからない胸像のある場所に行ってみれば、そこにいたのはなぜか靖人だった。
Tシャツにジーンズという格好の靖人が、素っ頓狂な声を上げた私に目を丸くする。
「なんだ?」
「靖人、8番じゃなかったの?」
「そうだったんだけど、番場が交換してくれって言うから」
「それ、どのタイミング?」
「ついさっき」
ということは…。
「言っとくけど、番場の狙いは有川な。お前じゃなくて」
「わざわざ言われなくてもわかってるよ」
各人の思惑が交錯して、とんだミステリーになってしまった。
これじゃなっちゃんも、スタートしてみてびっくりだ。
あれ?
「靖人、よく私がなっちゃんと番号交換したの、知ってたね」
「だって、もう表が出回ってたぜ。それが逐一更新されてくの。もうくじの意味ねえじゃんって」
「わかる。女子も同じ状態だった」
そこで二度目のあれ? が来る。
「てことは、靖人は、なっちゃん…」
「それ言わないどいて」
とりあえず順路を進もうと歩きだしたところで、靖人が私の発言を遮るように、急いで言った。
つまり靖人は、なっちゃんが靖人目当てで私と入れ替わったのを知っていながら、自分の番号を番場くんに渡したってことだ。
その経緯が耳に入ったら、なっちゃんはショックだろう。
「罪な男…」
「だって仕方ないだろ、なんか言われても俺、応えらんねーもん」
「なっちゃん、かわいいじゃん、野球大好きだし」
「そういう問題じゃない」
ふうん…と納得しかけた直後、私は金切り声を上げた。
「きゃあー!!」
靖人に飛びついたら、向こうが吹っ飛んで木にぶつかった。
「驚かせんな、なんだ!」
「な、な、なんか、さわった、ざわって、なんか、か、顔!」
腰を抜かして、靖人にすがりつく。
ガタガタと震える私を置いて、靖人は冷静に、通り道に戻ってあたりを見回した。
「あった、これだ」
一瞬、なにもない空間を掴んでいるように見えたんだけれど、目をこらすとわかった。
木と木の間に糸が渡され、そこにあの、縦に裂けるシャラシャラしたビニールテープが垂れ下がっている。
「なんで靖人、気づかなかったの」
「気づいたよ。なんか邪魔なもんがあるなと思ってよけて通った」
私が気配に鈍いのか、身長の差か。
道の隅にしゃがみ込んだまま、私は絶望した。
「この肝試しって、そういう系…?」
「みたいだな」
てっきり、暗い夜道を歩くだけかと思っていた。
靖人が同情気味にこちらを見る。
なにを隠そう私は、お化け屋敷でパニックを起こし、ベニヤの壁を突き破った過去を持つ。
そのとき一緒にいたのも靖人だ。
あんなに恥ずかしい思いをしたことないって今でも言われる。
目の前に靖人がしゃがんだ。
「リタイヤする?」
「いや、がんばるよ…せっかく番場くんが準備してくれたんだし」
「怖すぎて無理っつっても、あいつは喜ぶと思うけど」
「さすがに情けなくてそこまでは言えない」
「じゃ、行くか」
靖人について、砕けそうな膝を叱咤しつつ立ち上がり、恥を忍んで「あのさぁ」と声をかける。
「なに?」
「手つないでくれない?」
もじもじしながらそう頼んだときの、靖人の顔ったらなかった。
いったいいくつなんだよ、とありありと表情に出し、げんなりした様子でこちらに手を出してくれる。
「ん」
「ごめん…」
「俺じゃなくて、健吾くんに謝っとけよ」
渋い顔でそう言われる。
「健吾くんは、こんなの気にしないよ」
私が靖人と手をつなぐくらい、仲いいんだな、で終わりだろう。
そう伝えると、靖人はちょっと眉を上げて、「ふうん」と気のなさそうな相槌を打った。
「花火のときさあ、そっち、なんかあった?」
「やっぱり、わかった?」
再び歩きだしてすぐ、茂みの中から、なにかが迫ってくるような音が聞こえて、思わず靖人の手をめいっぱい握りしめてしまう。
さすがの靖人も「いてーっ!」と声を上げた。
「あんなのに引っかかるな、どう考えても加工した音だったろ!」
「面目ない…」
わかっていても、怖いのだ。
痛めた手で私を引っ張りながら、靖人が話を戻す。
「俺、あの日、帰ろうとしてた青井さんと、鉢合わせしてさ」
「えっ、なにか言ってた?」
「いや、泣いてたから」
なにも言えなくなってしまった。
私はあのとき、明るくさばさばした美菜さんが見せた、揺らぎそのものにもびっくりしたんだけど。
それ以上に、大人でも恋愛すると、あんなふうになるんだということに、すごくショックを受けたのだった。
大人の恋は、もっと気持ちとか押し隠して、スマートに進んでいくんだとばかり思っていた。
言わなくても伝わったり、だからあえて全部は言わなかったり、お互いの心を読み合って、探り合って、そんな高度なゲームみたいに繰り広げられるものだと、なんとなく想像していたのに。
「あんな大人な人でも、泣くんだね…」
「健吾くんの反応は、どうだったんだ」
「呆然としてた」
「全然気づいてなかったってことか?」
「それがね…」
気づきたくなかっただけだという美菜さんのきつい指摘を伝えると、靖人が深々とため息をつき、「わかるわ」と言った。
「前に、健吾くんのこと、残酷って言ってたんだよね、美菜さん」
「それもすごくわかる」
「靖人は健吾くんに点が辛すぎなんだよ」
「そういう意味で言ってんじゃねーよ」
じゃあどういう意味よ?
訊きたかったけれど、突如真横に現れた、ぼうっと光る大きな鏡の仕掛けに絶叫して、忘れてしまった。
「しっかりしろよ、お前が映ってるだけだろ」
「もう嫌だ! ちょっと番場くんシメといて!」
「わかったわかった。いい出来だったって言っとくから」
「なんで靖人は怖くないんだよう…」
恐怖のあまりめそめそしはじめた私を、靖人があきれ半分、憐憫半分の目つきで見る。
「お前が全部先に驚くから、こっちはタイミングないんだよ」
「鈍いっていいなあ…」
「お前に言われたくないわ」
冷たく言いながらも、手を握ったまま歩いてくれる。
やがてようやく、中間地点である、記念碑のある場所に着いた。
この高校がまだ旧制中学だった頃の初代校長を讃える碑ということで、めったに来ないものの、来ると生徒は手を合わせてしまう。
靖人と並んで手を合わせてから、ここまで来たという証拠を手に入れるため、ルール通り記念碑を調べた。
「あ、これか」
「こんなもののために、死にそうな思いを…」
碑の裏側に貼られていた罰当たりな付箋のうち、6という数字が書いてあるものを剥がして、ゴールを目指して残りの行程を歩く。
「こんなんで死にかけるの、お前くらいだ」
「この間の模試の判定、どうだった?」
「なんだいきなり」
靖人が怪訝そうに眉をひそめる。
「同じくらい怖いものの話をして、気を紛らわせようかなと」
「まあまあだったよ、志望上げたから、まだまだがんばらないとだけど。お前は?」
「校内模試よりはいい感じだったかな。え、志望上げたってどういうこと? 東京でも行くの?」
「そう」
自分でもびっくりするくらい、ショックだった。
靖人の志望は、家から通える距離にある国立だったはずだ。
私も、一人暮らしなんて贅沢はできないので、自宅から通える大学を目指していた。
だからこれからもお隣さんだと、勝手に思っていたんだけれど。
「あ、そうなんだ…」
我ながら力のない声が出た。
「がんばってね…」
「がんばってねって声かよ、それが」
うう…。
応援しているのは本心だよ、ほんとに。
でも、だけど、だってさ。
「さみしいなあ…」
「ほんと勝手だな、お前」
「だってさあ、これまでこれだけ一緒だったんだよ。これからもずっとそうなんだって、思うじゃん…」