「健吾くん!」
運転席にいた健吾くんが、私の声に反応して顔を上げ、きょろきょろしてからこちらに気づいた。
すぐに車を降りて、空き地を横切ってきてくれる。
「健吾くん…」
「なんでこんなとこで、ひとりでアイス食ってんの?」
困惑まじりの突っ込みに、だよね…と自分の間抜けさを思った。
目の前に来た健吾くんが、じっと私を見る。
二週間近く会わなかった。
いつものスーツ姿で、手にはまだ車のキーを持っている。
思い出したように内ポケットを探ると、小さな四角い紙の箱を取り出して、こちらに差し出した。
「誕生日、おめでとう」
ためらいながら手を出すと、その上に載せてくれる。
白い箱に白いリボンの、きれいな包み。
ありがとう、って。
言いたかったんだけど、先にいろんなものが溢れて喉をふさいでしまったので、声にならなかった。
手にプレゼントを載せたまま、無言で立ち尽くす私を、健吾くんが戸惑ったように見て、やがて静かに言った。
「ごめんな」
「ううん…」
「ごめん、もっと早く来てやればよかったな」
アイスを持った手の甲で、こぼれそうな涙を拭く。
ひと口残っていたアイスが、棒から外れて地面に落ちた。
「私こそ、ごめんなさい、意味ないこと言った…」
「郁…」
片手で頭を抱いてくれる。
「意味ないとか言うな。郁が不安なの、わかったから」
「でも、あんなこと、言われたってどうしようもないよね」
「そうだけど、それは言っても意味ないのとは違う。俺も勝手なこと言ってごめんな、あれ、俺が言っちゃいけなかったな」
片手にそれぞれ棒と箱を持ったまま、腕でしがみついた。
健吾くんも両手で抱きしめ返してくれる。
と、すぐに腕時計を見て、「あ!」と叫んだ。
「わり、俺、会社戻らないと」
「え、戻るの? 今から?」
「先週からめちゃくちゃ忙しくて、今も実は二徹に近い状態で、もう吐きそう…」
「ええ!? そんなんで運転して大丈夫?」
「逆、運転でもしてないと正気保てない」
「無理しないでね…」
って、もうしているよね、どう見ても。
身体を離した健吾くんが、優しく微笑む。
「言い訳にもならないけど、そんな状態だったから、連絡する余裕もなくて、ごめん」
「ううん…」
「実は一度電話したんだけど、つながらなくてさ」
うわ、やっぱりくれてたんだ。
ちょうど携帯がダメになっていたときだろう。
こうしている間にも暮れていく日を、気がかりそうにちらっと見て、健吾くんがうかがうように訊いてきた。
「今日、予定ってどんな感じ? その、兄貴のとか」
「えっ? えーと、朝まで帰らないよ、確か」
「じゃあ、この後、うち来られる?」
「え?」
一緒に車に戻りながら、思わず聞き返した。
健吾くんが慌ただしくドアノブに手をかける。
「日付が変わる前に絶対帰るから。改めてちゃんと、おめでとうって言うから。ついでに言うと昼間のうちにケーキ買ってある」
「でも、疲れてるんじゃないの…?」
押し寄せる嬉しさに混乱して、おろおろとそんなことを言う私を振り返り、開けたドアに腕を乗せて、健吾くんは厳しい声を出した。
「誕生日くらい、聞き分けとかいいから、わがまま言え」
言ってるよ、いつだって。
健吾くんが聞いてくれるから。
私、普段から十分わがままだよ。
止まったと思っていた涙がまた、ひと筋こぼれる。
「…じゃあ、部屋で待ってる」
「うん」
「泊まる」
「いいよ、明日の朝も俺、早いけど」
手の中の箱を、ぎゅっと握りしめた。
「キスしたい」
制服だけど。
健吾くんが困ったことになるの、わかってるけど。
でも、今ここで、してほしい。
それだけはダメだ、といつもの通り言うかと思った健吾くんは、迫ってくる夕闇の中で、柔らかく微笑んで。
私の髪を梳くように、耳の後ろに流して、唇を重ねてくれた。
時間を気にしているのを忘れたような、丁寧で温かいキス。
何度も何度も食んで、角度を変えて、また重なる。
健吾くんて、こういうキス、得意だよね。
"郁が大事だよ"って。
そうささやいてくれているみたいな、そんなキス。
「本気でやばい、行かないと」
「気をつけて、がんばってね」
「後でな」
キスが済むなり健吾くんは、車に飛び乗って行ってしまった。
見送るまでもなく、すぐに車も見えなくなる。
後で会えたら、もう一度謝りたい。
それで、思っていること、ちゃんと話したい。
部屋に上がって、プレゼントを開けると、ピンク色のビロードの台座に、ピンクゴールドのペンダントが輝いていた。
小さなオープンハートのトップの中に、ダイヤが揺れている。
「かわいい…」
ため息が出るほどきれいでかわいい。
一緒に見た中に、こんなのなかった。
もう一度、自分で選び直してくれたんだ。
あんなに忙しそうにしていて、どこにそんな時間があったの?
もっと信じないとダメだよ、私。
健吾くんのこと、信じないと。
自分が弱いせいで、大事な人を信じられないなんて、ダメだよ。
信じられるくらい、強くならなきゃ。
誰かを好きすぎると、泣けるものらしい。
ベッドに顔を埋めて、ひとしきり泣いて。
それから鏡の前でペンダントをつけて、また泣いた。
「ねえっ、寝ないでよ」
「無茶言うな、二徹明けだっつったろ」
「話聞いてくれるんじゃなかったの?」
「そうは言ってない」
「わがまま言えって言ったじゃん!」
「聞いてやるとは言ってない」
なにそれ!
宣言通り、11時半には健吾くんは帰ってきてくれて、冷蔵庫に入れてあった小さなかわいい苺のホールケーキにろうそくを立てて、私のしつこいリクエストに負けてハッピーバースデーの歌を歌ってくれた。
知らなかった、健吾くん、歌うまい。
声がいい。
私も健吾くんも、あまりカラオケに興味がないので、そういえば行ったことがなかったんだけど、これなら健吾くんの歌を聞くためだけに行くのもいい。
そう言ったら「当然、嫌だ」と一蹴された。
そしてふたりでケーキを完食するとすぐ、健吾くんはふらふらしながら歯を磨いて、ベッドに上がってしまったのだ。
待ってよー、せっかく来たのにさみしいよ。
ていうか、これじゃ根本的なとこ、解決してなくない?
私、ちゃんと話し合いたいんだけど。
「健吾くんと会わない間、美菜さんに会ったんだよ、偶然」
「へえ」
…それだけ?
健吾くんのそばに座って、すでに枕を抱えている顔をのぞき込むと、横目がこちらを見る。
「俺にカマかけようとか10年早いんだけど、なんなの」
「そんなんじゃないよ」
「青井とはなんの話もしてねーよ、それを知りたいんならな」
「それはもう知ってる」
「あ、そうなの? じゃあなにが聞きたいんだ」
確かめたかったんだよ。
美菜さんの気持ちを、健吾くんは知ってるのかなって。
知らないんだね、まだ。
「…そりゃ残酷だよね」
「え、なんだって?」
「内緒」
「お前、やっぱり変なこと吹き込まれたんだろ」
「違うよ、女同士の秘密ができただけ」
健吾くんがようやく枕から顔を離して、私を見てくれた。
喉元に指を伸ばして、ペンダントトップを揺らす。
「似合ってる。さすが俺の見立て」
「すごく気に入ったから、もう外さないことにした」
「そっか」
からかわれるだろうという予想に反して、嬉しそうに微笑まれてしまい、うろたえた。
いきなりの健吾くん過多で、キャパオーバーだ。
「じゃあ、おやすみ」
「ええぇ…」
「もうすぐ夏休みだろ? 俺もじきに忙しいの終わるから。そしたらいくらでも話してやるから」
片腕を私の首にかけて、巻き込むように無理やり寝かせる。
無理だって、私はまだ寝られないよ、興奮しちゃって。
羽交い絞めにされた状態で、往生際悪く話しかけた。
「…そうやってほっとくと、知らないよ」
「そうかそうか」
「私、さみしさにけっこう弱いってわかったんだから」
会えない間に何回泣いただろう。
痛くてとか悔しくてとかいう理由で泣いたことなんて、全然記憶にないのに。
眠りかけていた健吾くんのまぶたが開いた。
「しかも、すごく身近に、ほぼまっさらな奴がいることに気づいたんだから」
ちょっとくらい、危機感抱いてくれてもいいと思う。
そんな軽い気持ちで言ったんだけれど、健吾くんがなにも言わずに、じっと目を合わせてきたので、うろたえた。
え…なにこれ。
同じ枕の上で、無言で見据えられて、ものすごく居心地が悪い。
えっ、怒った?
…そんな感じでもないよね。
なんで黙ってるの。
なにか言ってくれないと、困るんだけど…。
健吾くんの目ってきれいな形だね。
そんなことを考えながら青くなったり赤くなったりしていると、いきなり、ぎゅっと押しつけるようなキスが来る。
「え…?」
「いっちょまえに駆け引きしてんじゃねーよ」
お互い目も開いたままの、なんのムードもないキスだった。
健吾くんは真顔のまま言い捨てると、ごろんと寝返りを打って向こうを向いてしまう。
「え、健吾くん」
「バーカ、郁のバカ、もういい、帰れ」
「ちょっと待ってよ、どうしたの」
「俺だって」
腹立たしそうな声が言う。
「ほっとかれてさみしいのなんか、俺だって同じだ」
タオルケットを丸めて抱えて。
顔を埋めるようにして、ふてくされた声で。
言わせるなよ、って背中で文句を垂れている。
ああ、私。
自信を持たなきゃ、ほんとに。
誕生日だから、なんて義務感じゃなくて。
会いたいから来てくれたんだよね。
一緒にいたいから、来いって言ってくれたんだよね。
「健吾くん…」
肩を揺すっても、返事はない。
絶対起きているはずなのに。
かっこいいのに、かわいくて愛しくて、きっと眠気のせいで熱い背中にぎゅっとくっついた。
「夏休み、私といっぱい遊んでね」
返事の代わりに、脇腹に置いた私の手を、ぽんぽんと叩いてくれた。
■
「さあ、LSVだね!」
「…ラスト…?」
「サマーバケーション」
「浮かれてんな」
「健吾くんもちょこちょこ休み取ってくれるって言うんだもん」
「俺ら、受験生だぞー」
言われなくても忘れないよ。
午前中の授業と、終業式とは名ばかりの簡単な集会を終え、開放的な気分で帰路につく。
このまま勉強というのも芸がないので、どこかでバイトでもしていこうかなあ。
「お前、意外といい写真撮るな」
「でしょでしょ」
卒アル委員に預けられている一眼のカメラで、私が撮った野球応援の写真を見ながら、靖人が感心したように言った。
見づらそうにしているので、手をかざして影を作ってあげる。
「臨場感あるでしょ、夏! って感じで」
「うん、これ使えそう…って、なに撮ってんだ」
あ。
最後の試合で、泣き崩れている部員たちを撮ったのが見つかった。
「青春の1ページだよ」
「なんで俺だけアップなんだ」
「卒アル委員だけに、みんなを撮ってばかりで、自分の写真少ないかなと思って…」
「だからって」
本当言うと、じっと涙をこらえている様子に胸を打たれたのだ。
先攻だったから、試合終了時の靖人は、キャッチャーの恰好をしている。
隣のクラスのピッチャーの子の背中を叩いて、自分も目尻を赤くしている姿なんか見てしまったら、ついズーム機能を試してしまうというものだ。
私だってこのとき、泣いていた。
「はい、削除」
「ダメだよ、むしろアルバムに採用してよ!」
「するか!」
バス停の屋根がつくる、なけなしの日陰の下で、そんなすったもんだをした。
長い休みが始まる。
■
まだ日が残っている川岸に、人々がシートを敷いて集まっている。
私たちは少し離れた土手の中腹に設けられたテーブル席で、開催の合図である小さな花火がポンポンと空で弾けるのを聞いていた。
私たちというのは、健吾くん、美菜さん、私、そしてなぜか、靖人だ。
「じゃ、乾杯」
「この席を一度味わっちゃうと、レジャーシートには戻れないのよねえ」
「今年も予約サンキューな」
私と靖人はコーラで、大人ふたりはビールで、缶をぶつけ合う。
白いガーデンチェアにゆったり腰かけて、ショートパンツから出た長い脚を組んだ美菜さんが靖人に笑いかけた。
「いきなり誘ってごめんね、遠藤っていう奴が来る予定だったんだけど、急にダメになっちゃって」
「や、むしろこんな席タダで来させてもらって」
靖人がその脚を見ないように見ないように、細心の注意を払っているのがわかる。
青少年の苦悩だ。
この花火大会は、美菜さんいわく『4人席だから、毎年一人、ゲストを招くのよ』ということで、私はもとから数に入れられていた。
今日の昼間、窓越しに靖人が助けを求めてきたところによると、おばさん経由で靖人に誘いが来たらしいのだ。
『青井さんに直接返事することになってるんだけどさ』
『小瀧家と青井家、いつの間にか親密になってるね』
『どうしよう』
『え、来なよ。一年前から予約するらしいよ、あのテーブル席』
『行っていいわけ? 俺がいたら、お前は俺とセットで扱われるんだぜ、絶対』
そこでようやく、靖人がなにに引っかかっているのかわかった。
なんだかんだ優しいな、こいつ。
『いいよ、美菜さんの前では、健吾くんとそんなにいろいろ話せないし。だったら靖人がいてくれたほうが楽しい』
『…そうか?』
というわけで、こんな不思議なメンツが実現したのだった。
空が藍色に染まった頃、第一陣の花火が打ち上がり、歓声が湧く。
「地区予選、盛り上がったんだってね」
「そうだ、商業倒したんだよな、すげえよ」
テーブル席の特典としてついてくる、チキンやポテトのバスケットからめいめい好きに食べながら、おしゃべりをする。
「向こうの一打線目が、いい感じにうちをナメてくれてたのが助かったんですよね」
「うちの会社、地元の人間多いからさ、最近ずっとケーブルテレビついてんだぜ」
「いくもテレビの前で応援してたもんね」
「母校で、しかも知ってる子が出てたらなあ。そりゃ見ちゃうよ」
健吾くんと靖人が会話しているのって、ちょっとシュール。
靖人の家に集まったことはあったものの、あのときはふたりの間に会話はなかった。
話題がケンのことに及ぶと、初めて名前を聞いた靖人が笑う。
「"いく"も"けん"もダブってて、ややこしいすね」
「だろ? 俺の名前から取ったんだってさ、無断で」
「取ってないってば」
「青井は案外、俺のこと好きだよな」
美菜さんの返しが一瞬遅れたことに、気づいたのはたぶん私だけ。
「あんたはどこまで自信家なの」
「けっこう謙虚だぜ」
健吾くんはなにも知らずに笑っている。
私まで胸が痛くなった。
「健吾くんて、鈍いの?」
大人ふたりがお酒を買いに出ると、靖人があきれたように言った。
あれ、気づいてたのか。
さすが靖人。
というより、私が前に情報を与えていたせいだな。
「夢にも思ってないんだと思う」
「あー…」
美菜さんに同情したのか、気の毒そうにため息をつく。
それから短い髪をぱりぱりとかいた。
「もっと見下してくる感じかと思ったのに、すっげー話しやすいのな。なんか複雑…」
面白くなさそうな顔だ。
ふふふ。
「子供の扱いには慣れてるからね」
自慢のつもりで言ったんだけれど、靖人は眉をひそめた。
「そこで自虐に走る必要なくね?」
「えっ…」