驚きで硬直している私に、彼方くんはからりとした笑みを向ける。


「遠子ちゃん、って呼んでもいい?」


ああ、と声が洩れそうになった。

それくらい、どきどきして、嬉しかった。


好きな人に名前を呼んでもらえるということが、こんなにも嬉しいだなんて、知らなかった。


たった一度だけでも、彼方くんの優しい声で『遠子ちゃん』と呼んでもらえただけで、もう二度と誰からも呼ばれなくてもいい、とさえ思えた。


その響きをこの胸に一生とっていたいから。

誰にも汚されずにとっておきたいから。


「いい? 遠子ちゃん」


声を出したら嗚咽が漏れてしまいそうで、私は黙って小さく頷いた。


いいに決まってる。


もしかして、彼方くんは、これからも私をそう呼んでくれるの?

そんなこと、考えたこともなかった。

なんて幸せなんだろう。


うつむくと、筆を持った指が細かく震えていた。

ひとは嬉しすぎて震えることもあるんだな、と場違いなことを思った。


彼方くんは私の気持ちに気づくはずもなく、また私の絵に視線を向け。


「すごいなあ、本当にうまい。って俺、さっきから、すごいとやばいとうまいしか言ってないな」


独り言のように言う彼方くんの言葉を聞きながら、今まで絵を描きつづけてきてよかった、と思った。