だから私は、明日のきみを描く

「……彼方くんと、仲良くなったの?」


ひょっこりと顔を覗かせた遥を見た瞬間、氷水が降ってきたような気持ちになった。

衝撃のあまり、うまく呼吸ができなくて、声が出せない。


「なんか、前よりも親しげにしゃべってた気がしたから」


遥の表情には、いつものとの違いは読み取れなかった。

ただ、不思議に思ったから訊ねているだけ、という感じに見えた。


「……ええと、たまたま、夏休みの部活のときに、彼方くんが私の絵を見て……あの、文化祭用の」

「へえ、そうなんだ。だから絵は順調? って言ってたんだね」

「う、うん。ほんと、それだけ」


最後の一言は余計だったかもしれない、と思ったけれど、遥はあまり気にしていないようだった。


「ねえ、それにしてもさ、さっきの彼方くん、かっこよかったね」


遥がふふっと笑う。

私も頑張って同じように笑みを浮かべた。


「なんかさ、彼方くんって、正義感っていうか、冷静に正しい判断ができるっていうか、すごいよね」

「あ、うん、そうかもね」

「なんか大人だよねー、落ち着いてるし。かっこいいなあ」

「………」


変な答えをするわけにもいかず、私は黙って遥の言葉を聞いていることしかできなかった。


遥の話を聞きながら、私は何度も何度も同じことを考えていた。


遥は私の大切な人。

命の恩人。

彼女を傷つけることは、裏切ることは、絶対にできない。


彼方くんは遥の好きな人。

だから私は絶対に彼方くんを好きになってはいけない。

遥に嫌な思いをさせたくないから。


それでも好きになってしまった。

好きを止められなかった。


それなら、隠すしかない。

恋心は胸の奥底に秘めておくしかない。


それなのに、どうしてだろう。

想いが勝手に溢れてしまう。


彼のことを好きな気持ちがどんどん膨れ上がって、彼の笑顔や言葉でどんどん大きくなって、

押さえきれないほどに溢れてしまう。


どうしよう。

どうすればいい?


どうか、誰か教えてください。

『好き』の消し方を教えてください。


『好き』を消すには、どうすればいいんですか?


彼のことを好きでいるのは、苦しい。

とても苦しい。


いやだ、好きでいたくない。


それなのに、自分の心が、こんなにも思い通りにならないなんて。

生まれて初めて私は知った。


























「あのね、彼方くんを誘おうと思うの」


文化祭を三日後にひかえたある日の昼休み。

お弁当の玉子焼きをゆっくりと箸で切りながら遥が言った。


じっと見つめ返していると、遥は照れたような表情で続けた。


「文化祭のときね、一緒に回ろうって……誘ってみようかなって」

「うん、いいんじゃない。がんばって」


私は大きく頷きながら答える。

勇気を出して決心をした遥を励ましてあげたかった。


「いきなり何、とか思われないかなあ?」

「大丈夫だよ。だって、最近はちょこちょこ話してるでしょ? いきなりなんて思われないよ、きっと」

「でも、やっぱり、誘うのとかこわいな……だって、どう考えても好きってばれちゃうよね。告白してるも同然だよね」

「うーん……でも、とりあえず一緒に回るだけだし、そこまで気にしなくていいって」


私が説得しても、遥はまだ悩んでいる様子だった。

しばらく頭を抱えていた彼女がふと顔をあげた。


「ねえ、遠子も一緒に行ってくれない?」

「……えっ?」

「一人じゃ勇気出ないから、ねえ、お願い!」


遥に両手を合わせて拝まれて、断れるわけがない。


「……うん、分かった」









放課後、私たちは連れ立ってA組まで行った。


終礼が終わっているのを確認して、廊下の窓から中を覗きこむ。


「彼方くん、いるかなあ?」


と遥が首を巡らせる。


「いるよ……、あそこ」


見渡すまでもなく、すぐに私の視線は彼方くんの姿に吸い寄せられた。


彼を差した私の指を追って遥の目が動く。

彼方くんを見つけると、彼女は私の腕をつかんだ。


「やばい! いるよ、見つけちゃったよ、どうしよう」


私はくすりと笑って「いて良かったよ、声かけよう」と言った。

でも遥は頬を押さえて、どうしよう、と迷っている。


彼女の勇気が出るまで待とうと、彼方くんのほうに目を向けると、目があってしまった。


「あっ、遠子ちゃん」


そのまま駆け寄ってくる。

私は慌てて一歩下がり、遥の後ろに立った。


「遥ちゃんも。どうしたの、誰かに用?」


遥はだまっている。

その背中をつつくと、遥は意を決したように「あの」と声をあげた。


「彼方くん、文化祭のときに誰と一緒に回る?」


彼方くんはきょとんと目を丸くした。


「え……うーん、まだ決めてなかったけど、たぶんあいつらと」


彼方くんが指差したのは活発そうな男子の集団だった。


彼方くんがいつも仲良くしている人たちだ。


「そっか……」


遥がそう言ってそのまま引き下がってしまいそうだったので、私はもう一度、彼女の背中をぽんっと叩いた。


「……あの、あのね」


うつむいていた遥が顔をあげて彼方くんをまっすぐに見つめる。


「よかったら、でいいんだけど」

「うん?」


彼方くんが微笑んで首をかしげる。


「一緒に、回ってくれないかな、って……」


遥、よく言った。がんばった。そう思う気持ちが半分。

ああ、とうとう言っちゃった、とショックを受ける気持ちが半分。


彼方くんは目を見開いて、ちらりと私を見た。

私は大きく頷く。


彼方くんは眉を下げて笑って、それから遥を見た。


「……うん、いいよ」


遥は「へっ?」と変な声をあげて、唖然とした顔で彼方くんを見上げる。

そんな顔でも可愛いな、と私は思った。


「でも」


彼方くんがそう付け足して私を見る。


「二人きりだとあれだし、遠子ちゃんも一緒にってどう? こっちも誰か一人連れてくから」


遥が私を見た。

それから少し泣きそうな顔で笑って、彼方くんに「うん、そうしよう」と答えた。









ふわふわした気持ちで教室に戻ると、待ち受けていた香奈と菜々美から結果を訊かれた。


「うん、オーケーしてもらえたよ」


遥が恥ずかしそうに笑って答える。


「えーっ、まじで? すごい!」

「やったね、遥!」


二人が遥に抱きつき、髪をかきまわしている。


「二人きりで回るの?」

「あ、ううん。遠子と、もう一人男子も一緒に」

「ああ、そりゃそうか。いきなり二人じゃ気まずいもんね」


頷く菜々美の横で、香奈が私を振り向いた。

私はすっと視線を逸らす。


興奮した様子ではしゃぐ三人を、少し離れた席で教科書の整理をしながら見ていると、遥の携帯が鳴った。


「あっ、彼方くんからだ!」


遥が嬉しそうな声をあげた。

当日の連絡のために、さっき二人は連絡先を交換したのだ。


「明後日よろしくね、だって! わあ、どうしよう! 嬉しい」

「へえ、わざわざそんなメール送ってくるなんて、向こうも乗り気だね」

「ええ、そうなのかなあ?」

「そうだよ、絶対!」


どうしてこんなに頭がぼんやりするんだろう。

しっかりしろ私、と頬を叩いてみた。


「あっ、いいこと思いついた!」


香奈がはしゃいだような声をあげた。


何だろう、と見ていると、香奈は白いチョークで黒板の端に何かをかきはじめた。


「え、なになに?」

「うわ、懐かしい、それ!」

「きゃあ、やめてよ、恥ずかしい!」


遥が声をあげたので、気になって側に寄って見てみる。


そこに書かれていたのは、ハート形の下に三角形とそれを貫く縦線が入った絵、つまり相合い傘だった。

小学生の頃に流行ったな、と思い出した。

線の右側には『かなた』、左側には『はるか』とかかれている。


「遥と彼方くんがうまくいきますように」


香奈が笑いながらそう言って、それから私を見た。


「ね? 遠子」


うん、と私は頷く。

変に返事が遅くなったりは、しなかったはずだ。


三人は相合い傘のことでひとしきり盛り上がったあと、「マック行って喋ろう」と言い出した。


「遠子はどうする?」


遥に訊かれて、私は「ごめん」と首を横に振る。


「文化祭の絵の仕上げがあるから」

「あ、そっか。そうだよね。がんばってね」

「うん、ありがとう」


三人は楽しそうに話しながら教室を出ていった。


一人だけ残った静かすぎる教室で、私はしばらく窓の外の夕焼けを見つめていた。


そして、気がついたときには、相合い傘の前にたっていた。

右手にチョークを、左手に黒板消しを持って。


頭と身体が、別々になったみたいだった。


頭では、『何してるの』と呆れているのに、

身体が勝手に動いてしまった。


左手が相合い傘の左側の文字を消していく。

はじめに『か』、次に『る』、最後に『は』。

私は『はるか』を消した。


それから右手が、空白になった傘の下に文字を書いていく。

『とおこ』。

『かなた』という文字の左側に、そう書いた。


出来上がった相合い傘をじっと見つめる。

指の力が抜けて、チョークを落としてしまった。


高く鋭い音が鳴った。

その音で我に帰った。


私は左手の黒板消しをぎゅっと握りしめ、相合い傘をまるごと消した。


なんにもなくなった。

彼方も遥も遠子もいなくなった。


私は両手で顔を覆って床にしゃがみこむ。


「……ごめん……ごめんなさい、遥……」


唇の間から、嗚咽と一緒に呻き声が洩れた。


ごめんなさい、遥。

あなたのことを綺麗な心で応援できなくて、ごめんなさい。

汚い心であなたの名前を消して、自分の名前を上書きしてしまって、本当にごめんなさい。


彼方くんの隣にいたいと思ってしまって、本当に、ごめんなさい。


許して、遥。