「……彼方くんと、仲良くなったの?」
ひょっこりと顔を覗かせた遥を見た瞬間、氷水が降ってきたような気持ちになった。
衝撃のあまり、うまく呼吸ができなくて、声が出せない。
「なんか、前よりも親しげにしゃべってた気がしたから」
遥の表情には、いつものとの違いは読み取れなかった。
ただ、不思議に思ったから訊ねているだけ、という感じに見えた。
「……ええと、たまたま、夏休みの部活のときに、彼方くんが私の絵を見て……あの、文化祭用の」
「へえ、そうなんだ。だから絵は順調? って言ってたんだね」
「う、うん。ほんと、それだけ」
最後の一言は余計だったかもしれない、と思ったけれど、遥はあまり気にしていないようだった。
「ねえ、それにしてもさ、さっきの彼方くん、かっこよかったね」
遥がふふっと笑う。
私も頑張って同じように笑みを浮かべた。
「なんかさ、彼方くんって、正義感っていうか、冷静に正しい判断ができるっていうか、すごいよね」
「あ、うん、そうかもね」
「なんか大人だよねー、落ち着いてるし。かっこいいなあ」
「………」
変な答えをするわけにもいかず、私は黙って遥の言葉を聞いていることしかできなかった。
遥の話を聞きながら、私は何度も何度も同じことを考えていた。
遥は私の大切な人。
命の恩人。
彼女を傷つけることは、裏切ることは、絶対にできない。
彼方くんは遥の好きな人。
だから私は絶対に彼方くんを好きになってはいけない。
遥に嫌な思いをさせたくないから。
それでも好きになってしまった。
好きを止められなかった。
それなら、隠すしかない。
恋心は胸の奥底に秘めておくしかない。
それなのに、どうしてだろう。
想いが勝手に溢れてしまう。
彼のことを好きな気持ちがどんどん膨れ上がって、彼の笑顔や言葉でどんどん大きくなって、
押さえきれないほどに溢れてしまう。
どうしよう。
どうすればいい?
どうか、誰か教えてください。
『好き』の消し方を教えてください。
『好き』を消すには、どうすればいいんですか?
彼のことを好きでいるのは、苦しい。
とても苦しい。
いやだ、好きでいたくない。
それなのに、自分の心が、こんなにも思い通りにならないなんて。
生まれて初めて私は知った。
い
っ
そ
白
く
染
め
て
*
「あのね、彼方くんを誘おうと思うの」
文化祭を三日後にひかえたある日の昼休み。
お弁当の玉子焼きをゆっくりと箸で切りながら遥が言った。
じっと見つめ返していると、遥は照れたような表情で続けた。
「文化祭のときね、一緒に回ろうって……誘ってみようかなって」
「うん、いいんじゃない。がんばって」
私は大きく頷きながら答える。
勇気を出して決心をした遥を励ましてあげたかった。
「いきなり何、とか思われないかなあ?」
「大丈夫だよ。だって、最近はちょこちょこ話してるでしょ? いきなりなんて思われないよ、きっと」
「でも、やっぱり、誘うのとかこわいな……だって、どう考えても好きってばれちゃうよね。告白してるも同然だよね」
「うーん……でも、とりあえず一緒に回るだけだし、そこまで気にしなくていいって」
私が説得しても、遥はまだ悩んでいる様子だった。
しばらく頭を抱えていた彼女がふと顔をあげた。
「ねえ、遠子も一緒に行ってくれない?」
「……えっ?」
「一人じゃ勇気出ないから、ねえ、お願い!」
遥に両手を合わせて拝まれて、断れるわけがない。
「……うん、分かった」
*
放課後、私たちは連れ立ってA組まで行った。
終礼が終わっているのを確認して、廊下の窓から中を覗きこむ。
「彼方くん、いるかなあ?」
と遥が首を巡らせる。
「いるよ……、あそこ」
見渡すまでもなく、すぐに私の視線は彼方くんの姿に吸い寄せられた。
彼を差した私の指を追って遥の目が動く。
彼方くんを見つけると、彼女は私の腕をつかんだ。
「やばい! いるよ、見つけちゃったよ、どうしよう」
私はくすりと笑って「いて良かったよ、声かけよう」と言った。
でも遥は頬を押さえて、どうしよう、と迷っている。
彼女の勇気が出るまで待とうと、彼方くんのほうに目を向けると、目があってしまった。
「あっ、遠子ちゃん」
そのまま駆け寄ってくる。
私は慌てて一歩下がり、遥の後ろに立った。
「遥ちゃんも。どうしたの、誰かに用?」
遥はだまっている。
その背中をつつくと、遥は意を決したように「あの」と声をあげた。
「彼方くん、文化祭のときに誰と一緒に回る?」
彼方くんはきょとんと目を丸くした。
「え……うーん、まだ決めてなかったけど、たぶんあいつらと」
彼方くんが指差したのは活発そうな男子の集団だった。
彼方くんがいつも仲良くしている人たちだ。
「そっか……」
遥がそう言ってそのまま引き下がってしまいそうだったので、私はもう一度、彼女の背中をぽんっと叩いた。
「……あの、あのね」
うつむいていた遥が顔をあげて彼方くんをまっすぐに見つめる。
「よかったら、でいいんだけど」
「うん?」
彼方くんが微笑んで首をかしげる。
「一緒に、回ってくれないかな、って……」
遥、よく言った。がんばった。そう思う気持ちが半分。
ああ、とうとう言っちゃった、とショックを受ける気持ちが半分。
彼方くんは目を見開いて、ちらりと私を見た。
私は大きく頷く。
彼方くんは眉を下げて笑って、それから遥を見た。
「……うん、いいよ」
遥は「へっ?」と変な声をあげて、唖然とした顔で彼方くんを見上げる。
そんな顔でも可愛いな、と私は思った。
「でも」
彼方くんがそう付け足して私を見る。
「二人きりだとあれだし、遠子ちゃんも一緒にってどう? こっちも誰か一人連れてくから」
遥が私を見た。
それから少し泣きそうな顔で笑って、彼方くんに「うん、そうしよう」と答えた。
*
ふわふわした気持ちで教室に戻ると、待ち受けていた香奈と菜々美から結果を訊かれた。
「うん、オーケーしてもらえたよ」
遥が恥ずかしそうに笑って答える。
「えーっ、まじで? すごい!」
「やったね、遥!」
二人が遥に抱きつき、髪をかきまわしている。
「二人きりで回るの?」
「あ、ううん。遠子と、もう一人男子も一緒に」
「ああ、そりゃそうか。いきなり二人じゃ気まずいもんね」
頷く菜々美の横で、香奈が私を振り向いた。
私はすっと視線を逸らす。
興奮した様子ではしゃぐ三人を、少し離れた席で教科書の整理をしながら見ていると、遥の携帯が鳴った。
「あっ、彼方くんからだ!」
遥が嬉しそうな声をあげた。
当日の連絡のために、さっき二人は連絡先を交換したのだ。
「明後日よろしくね、だって! わあ、どうしよう! 嬉しい」
「へえ、わざわざそんなメール送ってくるなんて、向こうも乗り気だね」
「ええ、そうなのかなあ?」
「そうだよ、絶対!」
どうしてこんなに頭がぼんやりするんだろう。
しっかりしろ私、と頬を叩いてみた。
「あっ、いいこと思いついた!」
香奈がはしゃいだような声をあげた。
何だろう、と見ていると、香奈は白いチョークで黒板の端に何かをかきはじめた。
「え、なになに?」
「うわ、懐かしい、それ!」
「きゃあ、やめてよ、恥ずかしい!」
遥が声をあげたので、気になって側に寄って見てみる。
そこに書かれていたのは、ハート形の下に三角形とそれを貫く縦線が入った絵、つまり相合い傘だった。
小学生の頃に流行ったな、と思い出した。
線の右側には『かなた』、左側には『はるか』とかかれている。
「遥と彼方くんがうまくいきますように」
香奈が笑いながらそう言って、それから私を見た。
「ね? 遠子」
うん、と私は頷く。
変に返事が遅くなったりは、しなかったはずだ。
三人は相合い傘のことでひとしきり盛り上がったあと、「マック行って喋ろう」と言い出した。
「遠子はどうする?」
遥に訊かれて、私は「ごめん」と首を横に振る。
「文化祭の絵の仕上げがあるから」
「あ、そっか。そうだよね。がんばってね」
「うん、ありがとう」
三人は楽しそうに話しながら教室を出ていった。
一人だけ残った静かすぎる教室で、私はしばらく窓の外の夕焼けを見つめていた。
そして、気がついたときには、相合い傘の前にたっていた。
右手にチョークを、左手に黒板消しを持って。
頭と身体が、別々になったみたいだった。
頭では、『何してるの』と呆れているのに、
身体が勝手に動いてしまった。
左手が相合い傘の左側の文字を消していく。
はじめに『か』、次に『る』、最後に『は』。
私は『はるか』を消した。
それから右手が、空白になった傘の下に文字を書いていく。
『とおこ』。
『かなた』という文字の左側に、そう書いた。
出来上がった相合い傘をじっと見つめる。
指の力が抜けて、チョークを落としてしまった。
高く鋭い音が鳴った。
その音で我に帰った。
私は左手の黒板消しをぎゅっと握りしめ、相合い傘をまるごと消した。
なんにもなくなった。
彼方も遥も遠子もいなくなった。
私は両手で顔を覆って床にしゃがみこむ。
「……ごめん……ごめんなさい、遥……」
唇の間から、嗚咽と一緒に呻き声が洩れた。
ごめんなさい、遥。
あなたのことを綺麗な心で応援できなくて、ごめんなさい。
汚い心であなたの名前を消して、自分の名前を上書きしてしまって、本当にごめんなさい。
彼方くんの隣にいたいと思ってしまって、本当に、ごめんなさい。
許して、遥。