「帰ったぞ」
玄関からの声に、母がびくりと体を震わせた。
背筋を伸ばして立ち上がり、パタパタとスリッパを鳴らしながら「お帰りなさい、あなた」と父を出迎えに行く。さっきまで子供に縋りついていたとは思えない。
リビングに父が入ってきて、反射的に立ち上がった。
「お、お帰りなさい」
「帰ってたのか」
そっけなく返事をして和室に入って行った父を見て、ほっと胸をなでおろした。昨日の怒りは無事収まったようだ、仕事が一段落したのかもしれない。
母のやっかいな時間が終わったと思ったらもっとやっかいな父親の時間が始まる。
父の地雷を踏まないように、一言一句注意を払わなければならない。二日連続で逆鱗に触れることはめったにないけれど、用心するに越したことはない。
父は白髪を真っ黒に染めているからか五十代にしては若々しくみえる。
お腹も出ていないし、身長も一七〇後半とそこそこ高い。垂れ下がり気味の瞳と若干ハの字になった太い眉毛は、なにも知らない人から見れば〝優しそうなお父さん〟だと思うだろう。
大手建築会社の建築士として働いたあと、ひとりで建築事務所を立ち上げた父は家で仕事をすることも多く帰宅時間も仕事によってまちまちだ。
建築のことはよくわからないが、図面を描くような仕事ではなく、図面を見ながら電卓を叩き表を制作している。
世間的に見れば〝立派な父親〟なのだろう。
年収もそこらのサラリーマンよりもずっといいのを知っている。自慢気に子供に報告するからだ。父が今まで歩んできた道には、間違いも失敗もない。だからこそ、父は自分が一番正しいと信じて疑わない。
「おい、飯は?」
「今からです。れーちゃんもほら、鞄置いてきなさい」
母は生き生きと動き始める。
『れーちゃんだけがママの生き甲斐』
口癖のように常に口にしているけれど、母にとって本当の生き甲斐は父だ。父の言うこと全てに賛同し、全てを父に任せて生きている。
この家は、ピラミッドだ。
この家の頂点に君臨しているのが父。
その下に母がいて、子供は最下層だ。
そして、両親ともにそう思っていることを隠そうともしない。当たり前のことだと、そう思っている。
鞄を手にして二階に上がって自分の部屋に入り、制服を脱いでジャージとロンTに着替えた。