笑って。僕の大好きなひと。


またね……ノア。いつかもう一度、出会おう。


再びめぐり会えたなら、そのときはまた笑い合って暮らそう。

君の得意な宝探しも、いっぱいしよう。

暑い日は木陰でひと休みして、寒い日は同じ毛布に包まろう。

夕陽が見える公園で、追いかけっこもやりたいね。遊びすぎて泥んこになったら洗えばいい。

シャンプーの後は、ぶるぶるって水を飛ばしてよ。「冷たいな」って笑うわたしに、得意げな瞳を見せて。

雷の夜は抱きしめるよ。誰よりも愛しい君を、わたしは思いっきり抱きしめるんだ。


そうしてふたり、一日、一年、また時を重ねていこう。


だから今は、少しの間、さようなら。

いつか出会えるその日まで、君が幸せでありますように――。



それこそが、わたしのただひとつの願いです。






 【笑って。僕の大好きなひと。】




夢から目が覚めたとき。

何かが変わった、と思った。

見慣れた天井も、勉強机も、ハンガーにつるした制服も、昨日と違うものはひとつもないのに、自分の中の何かが新しく変わった。そう思った。


  ***


「えっ!? 自転車で行くの?」

「うん」


びっくり顔のお母さんにうなずいて、わたしは引き出しの中から小さな鍵を取り出す。


「大丈夫なのか? 車が多いし、危険なんじゃ……」


心配性のお父さんが、ひげを剃りながらリビングに現れた。


「ちゃんと気をつけて走るから平気だよ。てかお父さんこそ、早く用意しなきゃ遅刻するんじゃない? 今日は出張でしょ?」


時計を見たお父さんが「やばい!」と叫び、ひげ剃りと同時進行でシャツのボタンを留めていく。器用だ。

わたしは頭の中で、学校までの道順を確認した。

ふだんは電車で通っている距離。自転車なら、二時間くらいはかかるだろうか。

急に思い立ったのには、特別な理由なんてなかった。ただ、なんとなく。本当になんとなく、自分の足で自転車をこいで、学校まで行きたいと思ったんだ。

忘れ物がないかチェックをすませ、かばんを持って出発する。
――と、その前に。

わたしはかばんを一旦置いて、リビングの真ん中に立った。

……深呼吸。二本の腕をぴんと上に伸ばし、鼻からめいっぱい息を吸いこむ。
それから大きな円を描くように、腕を横に下ろしながら息を吐き出す。

突然の行動に、両親がきょとんと目を丸くしてこちらを見た。

ふたりの注目を浴びながら、今度は腕を大きく振って、足の曲げ伸ばし。ちょっとガニ股で恥ずかしいけど、照れを捨ててやってみる。

やっと意味がわかったらしく、お母さんたちから温かい笑いがもれた。


「環ったら」


子どものころ、毎朝の日課だったラジオ体操だ。

あの頃のように、お母さんが少し音程のずれたメロディを口ずさみ、お父さんが足だけでリズムをとる。

カーテンの隙間からは、金色の朝陽がきらきらと射しこんでいた。


   ***



晴れ渡った冬の空は、どこまでも突き抜けるように高い。

冷たい風が、体中の細胞を目覚めさせていく。

移り変わる景色。自転車のチェーンが高速で回転する音。

町が後ろに流れていく。太陽はどこまでもついてくる。

もっと風を感じたくて、ペダルに乗せた足に力をこめると、ぐん、と体が前に突き出した。

制服の下に、じっとりと汗がにじんでいる。
呼吸が速い。太ももの筋肉が重い。だけどわたしは、自転車をこぐ足をゆるめない。

進め、進め。前へ、前へ。

前へ――。


やがて交通量の多い場所に差しかかり、道路には車の長い列ができていた。わたしの瞳に、いろんな人たちの姿が映った。

渋滞でイライラしてクラクションを鳴らす運転手。

忙しそうに電話をかけているサラリーマン。

眠い目をこすりながら、軒先の掃除をするコンビニの店員さん。


いろんな人と感情がごちゃ混ぜの、だけど愛すべき、この世界……。

ねえ、ノア。人間ってやっぱり滑稽だ。君たちのように、ただまっすぐには生きにくいね。

わたしたちは、つまらないことで悩む。ちょっとしたことで傷つく。迷う。つまずく。立ち止まる。

いつだって不完全な存在で、それでも小さな光を拾い集めて。強くなろうともがきながら、みんな必死で生きている。

だから、わたしも生きるよ。生きて、生きて、生き抜いて。

そうしていつか、終わりを迎えたそのときは、まっすぐ君のもとへと走っていくよ。



   ***


思いがけない人に遭遇したのは、学校まであと少しという時だった。


「――小林さんっ」


突然、耳に飛びこんできた声に、わたしは急ブレーキをかけて自転車を止めた。

振り向く前から、すでに予感はあった。わたしを苗字で呼ぶ人は少ないし、声に聞き覚えがあったから。


「雄大くん……」


思った通りの顔がそこにあり、わたしは肩で息をしながら自転車をおりた。

飾り気のない黒髪の、素朴な顔をした少年。彼が立っているのは、真新しい保育園の門の前だった。


「おはよう」

「おはよう。雄大くん、こんなところでどうしたの?」

「ちょうど今、妹を送ったとこだったんだ」

「そっか。小さい妹さんがいるって言ってたもんね」


って、そんな話をしている場合じゃない。雄大くんには、お礼とお詫びを伝えなくちゃいけないのだ。

わたしは自転車のスタンドを立てて、体ごと彼に向き直った。

視界の真ん中に雄大くんがいて、視界の下半分を園児たちがぞろぞろ歩いている。なんだか不思議な状況。


「あの……冬休みのことだけど、本当に迷惑かけてごめんなさい」


せんせー、おはよー! と元気にあいさつする園児の声に、わたしの声は少しかき消される。

それでも雄大くんは、ちゃんと聞き取ろうと、きまじめな顔でこちらを見てくれている。


「美那子から聞いたんだ。雄大くんがわたしのこと、すごく探してくれてたって。嬉しかった……ありがとう」

ぺこっと頭を下げると、雄大くんは「あ、いや」とか「そんな、別に」とか口ごもった。

お礼を言われているのに、たじたじするなんて彼らしい。初めて話したときと変わらず、わたしたちの会話はやっぱりぎこちない。


――『雄大くん、まじめに環のこと想ってるよ』


美那子の言葉を、ふと思い出した。わたしは急に恥ずかしくなった。


「じゃあ、ね」


会話を切り上げて踵を返し、自転車のスタンドを戻した、そのとき。


「あのさ!」


初めて、雄大くんの大声を聞いた。驚いて振り向くと、彼の顔はほてったような色をしていた。


「俺、小林さんのこと好きなんだ」


がちゃんっ、と足元で音が響く。喉の奥から変な声がもれた。倒れた自転車もそのままに、わたしはでくの棒のように固まってしまう。

雄大くんが咳ばらいをして、言葉を続けた。


「N県で小林さんが行方不明になったとき、もし二度と会えなくなったらって、すごい怖かった。
だから俺、次に会ったら後悔しないように、真っ先に伝えるって決めてたんだ」

口数の少ない彼が、必死に言葉をつむいでいる。後悔したくない、その一心で自分の殻を打ち破っている。


「だから……俺と友達になってくださいっ」


弾丸がぶちこまれた、ような気がした。彼のあまりの真剣さに、わたしは思わず息を詰めて――

それから、豪快に吹き出した。


「えっ、なんで笑うの小林さん」

「ごめん、だって雄大くん、決闘でも申しこむような剣幕で言うから」

「け、決闘?」


柄にもなくすっとんきょうな声を出して、雄大くんがあわてている。初めて見るそんな姿に、クスクス笑いながらわたしは言った。


「こちらこそ、お願いします。友達になってください」


瞬間、彼の顔に光が射すように、笑顔が咲いた。


……ああ、こんな風に笑うんだ、雄大くんって。

いいな。いい笑顔だな。

そう思った自分にびっくりしたけど、嬉しくも感じた。