明菜や和紗の笑い声が遠くに聞こえる。みんな心から楽しそうだけど実はこれからもっと楽しくなる、今は何も知らない明菜たちがこの後文乃いじめの暗い喜びに顔を輝かせるところを想像して、恋にも似た高ぶりに胸がドキドキした。鞠子がエリサそれ面白いー?

 とあたしが読んでるマンガの表紙を見ながら聞いてくる。

「うん、面白いよ。とっても」

 例のマンガの既刊を全部揃えたら今月のお小遣いはゼロになった。主人公がいじめに立ち向かうことを決意するシーンや家族に励まされるシーンはどうでもよかった。どんどんエスカレートしていくいじめのシーンを何度も読み返して、文乃いじめの計画を練った。

 何をしても無反応な文乃、無反応だから心からいじめを楽しめないみんな。けど今から、すべて覆る。

「なぁ、なんか臭くね?」

 やがて増岡たち男子らが騒ぎ出した。「臭い」という言葉に反応するようにクラスメイトたちみんなの嗅覚が敏感になる。桃子が鼻をつまみしかめっ面の和紗が顔の前で手を振っている。教室のいたるところでひそひそ声が起こる。

「すごい臭いだよ。うえー吐きそう」
「どこからしてんの一体」
「あっちじゃない? ほら、高橋文乃の机らへん……」

 鞠子がはっと顔であたしを見る。さすが親友。今ここで何が起こっているのか、真相にいち早く気付いたらしい。なぜか青ざめている鞠子に向かってぱちっと片目を瞑った。

 胸のドキドキがいっそう強く、大きくなる。いつもよりずっと熱い激しい火花が、あたしの中心でぱちぱち白く弾けている。文乃何やってんのよ、早く登校してきなさいよ。早く教室に入って机の中に手を突っ込んで、その指の短いブサイクな手をもっともっとブサイクに汚してしまえ。

 あたしの願いが通じたらしく文乃が教室のドアをくぐった。既にみんな臭いの源泉が文乃の机にあるって気付いてるから、訝しげな視線が文乃に集中する。いつも鈍くさい文乃も鼻が曲がるほどのこの臭いにはさすがにすぐ気づいたようで、前髪に半分隠れた目を見開いた後うっと不快感をこらえる顔をした。増岡がイラついた足取りで文乃に近づく。

「高橋さ、お前、机に何入れたの? お前の机、くっせーんだけど」

 増岡に言われるがいなや、文乃が普段のトロいこいつからしたらびっくりするほど素早い動きで自分の席に歩み寄る。壊れ物を扱うようにスクバを机に置き、おっかなびっくりって感じで右手を中に入れる。

 早く入れろ。早く入れろ。早く入れろ入れろ入れろ。汚いお前の汚い手で汚いものを掴んでしまえ、あんたにはそれがお似合いなんだから。

 きゃっと悲鳴が上がった。文乃じゃなくて、息を詰めて文乃の動きを窺ってた明菜たちだった。文乃は、驚いていた。あたしが想像していたように熱い怒りを滾らせ顔を真っ赤にするわけでも悔しさに涙ぐむわけでもなく、目の前で起こっていることにただただ、驚いていた。信じられないといった目で床に転がった黒い塊と、汚物でべっとり汚れた自分の手を変わりばんこに見ている。

 それだけであたしは半ば満足していた。いつだってどんより暗い無表情で死んだように生きてた文乃に、このあたしが「驚き」の顔をさせ、新たな命を吹き込んだような。朝5時起きの眠さ、散歩中の犬の後を追い辺りを窺いながらコソコソと放置されたウンコをビニール袋に入れた惨めさ、二重三重に包んでも汚物であることは変わりないそれをバッグに入れていた気持ち悪さ。そういうものが一気に報われた気がした。