「ちょっと殴って、腹蹴ってやっただけだよ。こういうのってやったもん勝ちなのにさ、こいつ、めっちゃ弱いの。あたしだって殴り合いの喧嘩なんかしたことないんだから、大して強かないのに。立ち向かおうともしない人間って、マジ生きる価値ないよね」
と吐き捨てて、ゴン、となんのためらいもなく文乃の後頭部を蹴った。文乃がうっと呻いてトイレの床に転がって、エリサの上履きが髪の毛がぐしゃぐしゃになった文乃の頭をぐりぐり踏みつける。
エリサは完全にたがが外れて、あたしたには絶対たどり着けない別の世界の住人になっていた。この子のいじめはもう、自分を注目の中心に据えるためじゃない。いじめそのものを楽しむようになってしまったエリサに、正常と異常の垣根を越えてしまったこの子に、もう誰も近づけない。嫌悪感さえ湧いてこない。
「きったない顔。トイレの床で掃除してやんなきゃねー」
ぐりぐりとエリサが足を動かす。文乃が血を吐いたのか口の中が切れたのか、トイレの床が赤く汚れる。何も言わないあたしたちを振り返り、気味悪いぐらいの笑顔でエリサが言う。
「ほら、みんなもやんなよ。何いつまでもそんなとこにいんの」
「……」
「早くこっち来なって、てかドア開けっ放しにしないでよ、誰か通ったらどうすんの」
「エリサ。あたしたちもう、いじめはしないよ」
明菜たちが驚いたように振り返った。あたしが口を切ったのが意外だったらしい。エリサのぐりぐりが止まる。はっとあたしを見て、そして怪訝な表情になった。
「は、何言ってんのよ」
「いじめはしないって言ったの」
「ちょっと何いい子ぶってんの、おかしくない? なんでいきなりそうなるのか意味不明なんですけど」
自分が転落したことをまるでわかっていない以前通りの女王様口調に、冷たく返した。
「なんでって、決まってるじゃん。こんなことダメだって。高橋さんが可哀想だよ」
文乃を高橋さん、と本人の目の前で呼んだのは初めてだったかもしれない。そのことに驚いたように文乃が顔を上げた。エリサの足の支配から開放された顔は鼻血が出て口の横が切れて、ニキビから出た膿と血でべっとべとでひどいことになってた。
エリサの声がいっそう強く苛立ちを帯びる。
「何言ってんの鞠子、こんな奴が可哀想なわけないじゃん」
「可哀想だよ」
「ねぇほんとにどうしちゃったわけ? 頭おかしくなったの」
「頭おかしいのはエリサでしょ。こんなことしても何とも思わないなんて、異常だよ。あたしもみんなももう、エリサにはついていけない」
ぴちゃん、とトイレの蛇口から漏れた水滴がシンクを打つ。中途半端に開いたトイレの窓からもうだいぶ冬めいた風が入ってきて、ぎりぎりまで短くしたスカートからはみ出したエリサの足をさあっと撫でた。
ウザかった、ずっと我慢してた。それでもあたしが大切に守ってきたものは、こんなにも呆気なく捨てられるものだったんだ。
エリサのきれいな顔が真ん中から崩れた。頬がぴくぴくし、バラ色の唇が急速に色を失っていく。涙がこぼれそうな変な笑顔で、さっきとは打って変わった妙に優しい声を出す。
「何言ってんの」
「……」
「何、何よそれ、頭おかしいとか……鞠子とあたし、親友でしょ?」
「違うよ」
自分の声の冷たさに、びっくりした。誰かが窓の外を通ったらしく、ざわざわとはしゃいだ楽しそうな声がした。もう一度水滴がぴちゃん、と落ちた。
くるんと背を向けて、そしてその後一度も、あたしはエリサのことを見なかった。
「ごめん」
「ごめんね」
「エリサごめん」
三人が口々に言って、あたしの後に続く。最後に和紗がトイレのドアを閉めて、みんな誰からともなく速足になった。階段を上り、自分たちの教室が連なる二階の廊下に戻ってくると、三人一斉にふううっと息を吐いた。もうホームルームが終わってだいぶ経つけれどまだ結構な数の生徒がそれぞれの教室に残っていて、平穏な喧噪が廊下に溢れている。その「いつも通り」があたしたちを勇気づけ、饒舌にした。
「鞠子、グッジョブ! マジ助かったよー、ハッキリ言ってくれてさ」
明菜がバシッと背中を叩き、両側から和紗と桃子もありがとう、マジ感謝! と褒めてくれる。じゃれ合って歩くあたしたちは小松崎と黒川とすれ違い、じゃあねー、と元気な挨拶を交わした。桃子がくうっと伸びをする。
「お蔭で肩の荷が下りたーっ!」
「うん。いいことするって気持ちいいね」
和紗が晴れ晴れした顔で言う。いいことした? たしかにあたしたちが今やってきたのは、正しいことだ。いじめをやめること、やめる勇気を持つこと。先生たちが聞いたら手を叩いて褒めてくれるだろう。その前、いじめの加害者だったことを差し引いても。
なのにいいことをした後のすがすがしい気持ちなんてまったくない。あんなに近くにいて、それでも親友じゃなかったこと。エリサをこんなに簡単に突き放せてしまうこと。
なのにいいことをした後のすがすがしい気持ちなんてまったくない。あんなに近くにいて、それでも親友じゃなかったこと。エリサをこんなに簡単に突き放せてしまうこと。
エリサに嫌われたくなかった。みんなの中心のエリサと一緒にいれば安心だし、もともと引っ込み思案なあたしは自分の力で友だちを作る勇気もなかった。常に顔色を窺い機嫌を取り正面からぶつかり合うことを避け、あれこれ我慢して、一緒にいた。小一の頃から。
上っ面だけの薄っぺらい友情だったのに、エリサと過ごした七年半の重みはたしかなもので、ズンと肩にのしかかってくる。最後に見たエリサ。違うよ、と言った時のエリサをどう表したらいいだろう。あんなに痛々しくて哀れで、女王様っぽさの欠片もなくて。
高いプライドや自己中さの鎧の奥には、もろくて孤独で無防備な女の子が隠れてた。七年半も一緒にいてその最後の時、気付いてしまった。気付かないほうが楽だったのに。
「やっぱさ、いじめってよくないよね? そりゃ文乃みたいなの、いじめられてもしょうがないけど、だからっていじめるのはやっぱ、ダメじゃん? そんなことしたって文乃が変われるわけじゃないんだもん」
明菜の言葉に和紗がこくこく頷き、桃子が明菜いいこと言う! とはやし立て、明菜は得意そうに鼻の頭をかいた。
いじめをしない子が言ったら、今のは立派な意見に聞こえただろう。でも、今こんな立派な意見を共有するのは、エリサと同じじゃないって、自分はいじめの加害者なんかじゃないって、ただ一人の悪者に踊らされてただけだって、思いたいからだ。ここにいる誰も、いじめをした事実から、自分の罪から逃げて、振り返ろうとしない。そしてあたしも。
「ねぇー、今から気分直しにマック行こ。エリサと友だちじゃなくなった記念ね」
桃子が言って、明菜と和紗が賛成! と声を合わせた。
エリサはまだ、トイレにいるんだろうか。そして文乃は。あの後二人はどうなった?
いや、考えたって仕方ない。むしろ考える必要ない。だって、あたしは別に悪くない。単にエリサと友だちだっただけで、たまたまあの子の自己中に巻き込まれただけ。文乃がいじめられるのは文乃のせいだから、あたしたちがやらなくたってきっと別の誰かがしていたこと。そう、あたしは悪くない悪くない悪くない。
これから何度となく繰り返すことになるその呪文を、口の中で呟いた。
文乃をいじめてる時、頭の裏で白い花火がぱちぱちはじける。
かあぁ、とあたしを内側から火照らせる、赤よりも青よりも温度の高い真っ白。栄嗣と手を繋いだりキスしたりする時あたしの中心温度はかああぁっと急上昇するけれど、それよりもっとずっと強烈で思いっきり甘いチョコレートや外国製のどきつい色のキャンディーみたく、あたしをやみつきにさせる光だ。どっちも経験ないけれど、エッチや危険ドラックにハマるのと似たような感じかもしれない。
目の前の文乃は脱いだ上履きを自分のゲタ箱に突っ込もうとしてその直前でやめた、中途半端な姿勢で固まってこっちを見ている。この世の嬉しいこと楽しいことをすべて諦めた、今夜首をくくってもおかしくないような目があたしに焦点を合わすと、白い花火がぱちぱち脳内でスパークする。
いじめは絶対しちゃいけない、人間として最低の行為だなんてきれい事、誰が言い出したんだか。こういう暗いブスを、つまり教室というヒエラルキー社会の最下層の人間をいたぶるほど、面白いことってない。いじめが楽しいのは人間誰もが持ってる当たり前の感情なのにきれい事でそれを押さえつける、馬鹿じゃないの?
文乃をいじめたって誰に迷惑かけるわけでもないし法律にも違反してない。
「あれー、高橋さん、その上ばきどうしたの? 穴だらけじゃん。そういうオシャレ? 高橋さん的にはそれが流行の最先端だったりするわけぇ? それともああそうか、わかった、高橋さん水虫なんでしょ……」
嫌味ったらしい言葉を連ねるあたしの背中で、明菜たちが笑いを押し殺してる。この瞬間がすごく好き。みんな、喜んでる。たとえ、いじめはいけないだの文乃が可哀想だの思ってたとしたって、そんなの心の表面でのこと。本音では楽しくてしょうがないはず。自分が優位に立ってることを確認できて、教室の中の「上」と「下」が他のどんな時よりはっきりするいじめは、最高のエンターティメントだ。
エンターティメントの道具になった文乃はしばらくどんよりした目であたしたちを見ていた後のろのろ動き出した。今朝あたしたちの手で穴だらけにされた上履きをゲタ箱に突っ込み、代わりに薄汚いピンクのスニーカーを取り出す。昇降口に向かって二、三歩足を進めたところで何かを思い出したように振り返った。怒りも悲しみもない、静かでどんより暗い瞳が、あたしを見る。
背中のくすくす笑いがぴたり止まって、頭の中でスパークしてた花火がスッと消えた。無意識のうちに舌打ちする。
「なんなのよ」
自分の声が震えてるのがわかる。文乃はあたしの睨みつける視線に気づいてないのか、気付いて無視してるのか知んないけど、何事もなかったように昇降口を出て裏門のほうにてくてく歩いてった。今すぐ駆け出していって、中年太りのおばさんチックに脂肪のたっぷりついた背中を蹴っ飛ばしてやりたい。人目があり過ぎる放課後の昇降口で、そんなこと絶対無理だけど。いじめは楽しいけど先生にチクられたらたまらない。
「せっかく構ってやってんのにあっさり無視してくれちゃって。文乃のくせに生意気。最後のあの目、何? マジで」
「まぁまぁ、しょうがなくない? あいつ、お腹でも痛かったのかもしんないじゃん。いじめられてるどころじゃなかったんだよ、きっと」
のんびりした明菜の声が腹立たしい。何それ、あんた文乃の味方なの? あんな奴かばうとかどういうつもり? 感情のまままくしたてようとしたら桃子に遮られた。
「ねぇねぇ、気分直しにクレープ食べに行かない?」
「おっいいね、ちょうど今、ブルーベリーキャンペーンってのやってるんだってよ」
和紗が素早く乗っかった。誰からともなく足を動かし昇降口を出る。今の不快な出来事をさっさと忘れようとするようにあたしの怒りを無視するように、早口で紡がれる会話。
苦手だ、このムード。たしかに、一年の頃から同じクラスでいつもつるんでた明菜たちと、あたしと鞠子の二人とじゃあ、どうしたって距離がある。でも、一学期の始業式の朝、「ねぇねぇ、周防さんだっけ? その髪の毛超カワイイー! どうやって巻いてんの?」なんて目を輝かせながら話しかけてきたのは明菜たちのほうなのに。
あたしの髪型とかメイクとか制服の着崩し方とか、なんでもカワイイ、カワイイって真似したがって、文乃いじめを始めたらきゃあきゃあ面白がってあっさりいじめに加わって。ところが最近、どっちにも飽きてきたのかすぐこうして三人だけのおしゃべりが始まる。
幼稚園からずっとみんなの中心にいたけれど、こんな思いをするのは初めてだ。中学二年生は思春期まっさかりで、思春期は大人に近づいてる時期だって保健体育で習った。大人になったら、顔が可愛いとかいじめをするとかだけじゃ、みんなの中心にはいられないんだろうか。
ありえない。そんなの、認めない。明菜は分厚い化粧でごまかしてるけど実はすっぴんがブサイクで、和紗は中二になってもまだスポーツブラしかつけたことがない超貧乳、桃子に至っては一年の時に先輩とエッチしたのを事あるごとに自慢してくる、ウザいヤリマン女。つまり三人とも、あたしより「下」だ。「下」のくせにあたしに飽きるとか、あたしを馬鹿にするとか、許さない。
「ねぇね、エリサ」
そんなことを考えてイラついてると、隣にいた鞠子が話しかけてくる。背が低い鞠子の目はちょうどあたしの肩のところにあって、凶暴な熊にエサをあげようとする時みたいな目がおそるおそるあたしを見上げていた。
「そういえば中沢くんは? 今日とか、一緒に帰んないのー?」
その名前を聞いて、反射的に鞠子から目を逸らしていた。鞠子は何も知らない。もう二週間も栄嗣とデートしてないことも、三日前に送ったメールの返事がまだ返ってきてないことも、近頃は廊下ですれ違っても前みたいに「よっ」て片手を上げてもらえないことも。
「付き合ってるからって毎日一緒に帰るわけじゃないよ。あたしはあたしで鞠子やみんなとこうして友だち付き合いがあるし、栄嗣は栄嗣で男の付き合いってやつがあるし」
何度、そうやって自分を納得させようとしただろう。会いたくてもいつも「その日は友だちと遊ぶことになってるから」って断る栄嗣は、特別友だち思いってわけじゃない。単に、あたしよりも友だちといるのが楽しいだけだ。
「ふーん、そんなもん? 前はそんなんじゃなかったじゃん。夏休みだってほぼ毎日会ってたんでしょ」
「夏休みは夏休み、今は今だよ」
「何それ、たった三か月前の話じゃん。ねぇもしかして、中沢くんと上手くいってない?」
「……そういうの、余計なお世話だから」
ぴしゃりと言ってやると鞠子はそれきり黙ってしまって、もう栄嗣の話も他の話もしなかった。あたしたちの二歩前でテレビの話で盛り上がってる明菜たちは、やたら楽しそう。
鞠子は、ちゃんと気付いてる。あたしと栄嗣の仲が、本当はどんなものなのか。でも、こういう時他の女の子が普通するように、「どうしよう、あたしフラれそうなの」なんて涙目で親友に恋愛相談なんて、死んでも出来ない。
あたしが「上」で鞠子が「下」、小一の頃からずっとそれでやってきた「親友」同士のあたしたち。悩みを相談するのは、「下」が「上」にすることだ。あたしが鞠子に栄嗣のことを相談したら、二人のバランスが崩れてしまう。
甘いクレープを食べたってよどんだ心はちっとも晴れなかった。
クレープ屋のワゴンの前、ベンチを占領して大声ではしゃぐあたしたちは、傍目には何の悩みもなくて毎日がひたすら楽しい中学生に見えただろう。
でもその実、べらべらしゃべりまくってるのは明菜たちだけ。あたしがいなくても何の問題もなく成り立ちそうな会話も時々鞠子が気を遣って話しかけてくるのも、胸に巣食ったイライラを増幅させる。
ちょっと前までは、文乃いじめを始めたばっかりの頃は、こんなんじゃなかった。みんな、ニュースでさんざん騒がれてるいじめ問題の主人公に自分がなれたことに興奮して、いじめをすることで自分がちょっとだけ偉くなれた気がして、「今度はどうやって文乃をいじめるか」って話題で何時間でも盛り上がれた。いじめを通じて五人の結束は強まったはずだった。もちろん、あたしを中心に。
文乃が悪いんだ。あいつ、何したって無反応なんたもん。ハンカチをゴミ箱に捨てられようが教科書に接着剤を塗りつけられようが上ばきを穴だらけにされようが、ドブ川みたいにどす黒く濁ったくらーい目をぼんやり宙に彷徨わせるだけ。泣くとかキレるとか何か反応がないといじめって面白くない。
一年の頃蒼衣をいじめてた時は面白かったのに。「いつも顔が赤いからアオイじゃなくてアカイね」なんてひどいあだ名をつけてみんなの前でアカイアカイって呼んでやると、今にも涙を溢れさせそうな困った顔を無理やり笑いの形にさせてたっけ。本当はそんなふうに呼ばれたくない、でも「やめて」って言った途端ハブかれたらどうしようって、卑屈でグズグズした気持ちが顔に出まくりで面白かった。
だけど文乃は何をされても「ほんとは嫌なのに」って顔をしないし、実際そう思うこともないんだろう。小学校からずっといじめられ続けてクラスに一人も友だちがいない文乃は、きっとプライドってもんがない。もともと一人だからハブられたところで辛いわけないし、いじめられるのも文乃にとっちゃ当たり前のことなんだろうし。
ブスでトロくて性格が暗くて、まさにいじめられるために生まれてきたであろう文乃は、誰よりも大きな火花をあたしの頭ではじけさせる、最高のターゲットだと思ったのに。とんだ期待外れだ。
ムカつく。何の役にも立たない、死んだところで誰にも悲しまれない人間なんだから、せめてあたしを楽しませるぐらいしろっつーの。なんとかして文乃を泣かせてやりたい。表情筋が麻痺してる醜い顔をもっとぐちゃぐちゃに醜く歪ませて、「やめてよ」って泣きながら怒らせたらどんだけ気持ちがいいだろう。
そんな文乃を想像しただけで恍惚としてしまう。イメージの力で頭の裏に火花が生まれる。文乃の泣き顔を思い浮かべて歩いてたあたしはいつのまにか一人で笑ってたらしく、すれ違った四十過ぎぐらいのおじさんが気味悪そうにこっちを見ていた。道路の脇に停められた車のミラーで自分の顔を確認すると、緩みきってトロンとした笑顔が映ってる。急に恥ずかしくなって慌てて顔を引き締めてから、再び足を動かす。
冷凍庫から吹いてくるようなひんやりした風が折って短くしてるスカートを持ち上げ、太ももにざあっと鳥肌が立つ。冬はもう、近い。日はだいぶ短くなって辺りは紺色の闇にすっぽり包まれている。こんな寒い夕方に一人で歩いてると胸の中に隙間風が吹く気がする。みんなに囲まれてる時は無敵のあたしは、一人ぼっちになると急に弱くなるらしい。
とぼとぼ足を動かしていると、やがてライトで照らされた「周防食堂」の看板が近づいてくる。何年も前から「防」のこざとへんと「食」の左側半分が消えかけてるのに、直しもしないボロ看板だ。
食堂の娘なんてダサくて恥ずかしいから中学に上がってからの友だちには誰にも言ってないけど、うちは両親二人で二十年以上もやってる食堂だ。
ここらへんは他の地域の人に言わせればあんまり「ガラの良くない」界隈で、みずぼらしい公団住宅や大正時代から建っていそうな古いアパートがひしめいてる。住んでいるのは工事現場とかで働いてるアル中予備軍のおじさんや、駅前の繁華街に勤める水商売のおばさんとその子どもとかで、酔っ払いのケンカや万引きやらが絶えずパトカーの出現率がやたら高い。
夕方のこの時間帯は、その「ガラの良くない」人たちが多く夕食を取るためにうちの食堂を訪れるから、店内は一日のうちで一番の賑わいを見せる。小学校の頃、鞠子はうちのお客さんたちを目の前に「なんか怖そう」とビクビクしていたけれど、話してみれば意外にいい人ばっかりだからあたしは慣れている。堂々と正面から引き戸を開けた。お客さんでいっぱいの室内の熱気と、食べ物たちの放つ匂いが混ざり合ったむんわりした空気。
「おぅ、エリサちゃん久しぶりだねぇ。なんだよもう、すっかりキレイになっちゃって。おじさん、高校生かと思っちゃった」
「高校生なんて。あたし、そんなオバサンじゃないですー。まだ中二ですよぉ」
眉尻を下げた常連のおじさんがさっそく話しかけてきて、同じく常連のおばさん(駅前にあるスナックのママでいつもニューハーフみたいな濃い化粧をしている、てかひょっとしてニューハーフかも)が、ちょっとぉ高校生がオバサンならあたしはなんなのよ、と肘で小突いてくる。
常連のお客さんたちとは挨拶とそのちょっと延長線上の会話しかしないのに、学校で明菜たちといる時よりずっと肩の力を抜いて話せる。みんなの前ではちゃんとしなきゃ、この子たちに憧れられる周防エリサでいなきゃって気負いがあるけれど、お客さんたちにはないから。この人たちになら鞠子にも言えない栄嗣のことを打ち明けてもいいと思うけれど、もちろんそんなことはしない。
「キレイになったんじゃなくて、イキがってんだよ。ったく、ガキのくせに化粧なんか覚えやがって」
カウンターの中で中華鍋を揺すってるお父さんがちらりと目を上げて吐き捨てるように言う。イキがってるだのガキのくせにだのなんとも腹の立つ言い方だったけど、そんな言葉を浴びせられるのは日常茶飯事でいちいち言い返してるほどこっちも暇じゃないし、それに怒りより胸の中にひゅんと吹いた隙間風の冷たさのほうが勝ったから、何も言わない。
「ったく、何度同じこと言わせるんだよ。店から入ってくるなっていつも言ってるだろ」
エプロンの隙間から見える三段腹を揺らしつつ、奥のテーブルを拭いていたお母さんまで尖った声をあたしに突き刺す。
親にとってあたしは髪を染めパンツが見えそうな恰好で歩く今どきの関心しない若者の典型で、勉強はしないわ親の言うことは聞かないわ悪いところを挙げればきりがないのにいいところがひとつもない不肖の娘で、つまり恥ずかしいからお客さんの前にはできるだけ出したくないってわけだ。
「毎日毎日こんな遅くまで何やってんだよ、店の手伝いもしないで」
「まだ六時過ぎじゃん」
「ほらまたそうやって口答えする。いったいこの子は親を何だと思ってんだろうねぇ。育ててやったのはこっちなんだっちゅうに」
ぷりぷりまくし立てるお母さんをまぁ反抗期なんだから仕方ないよとか、エリサちゃんもそのうち親のありがたみがわかるさぁとか、常連さんたちがなだめている。何か言いたげなお父さんの苦い視線を横顔で受け止めながら厨房に入り、その奥の靴脱ぎでスニーカーを脱ぎ捨てた後ルーズソックスの足でみしみし鳴らしながら古い階段を上がる。
ちゃんと家族用の玄関があるのにわざわざ店の入り口から入るのは、お父さんとお母さんの顔を見たいからだ。優しい言葉をかけてほしい、いやせめてやわらかい視線を投げてほしい。
忙しい二人はいつもなんとなくイラついていてそれでなくても不肖の娘を恥ずかしく思っているからそんな望み叶うわけないのに、毎日のように懲りもせずはかない期待を持ってお父さんとお母さんの前を通り過ぎてしまう。売り言葉に買い言葉で反抗してしまうあたしもあたしなんだけど。
二階の端っこのあたしの部屋はドアを閉めても窓を閉めても階下の話し声がよく聞こえる。あたしが生まれる前に死んだお父さんのお父さん、つまりおじいちゃんが建てた食堂兼自宅は、古いし壁も薄い。お客さんたちの話し声や笑い声の間に、時々お父さんやお母さんの声が混ざる。あたしに何か言う時よりずっと、楽しそうな声。