カチャカチャとベルトを外す音、ポテチの袋を破る音、しゃりしゃりポテチをかみ砕く音。もう、そこにいるのが文乃だってことに疑いはなかった。聞いたことのない文乃の声。いらいらした命令口調。ドアにギリギリまで近づいて、迷った。踵を返してこの場を立ち去りたい衝動に駆られた。わたしは今、ずっと知らなかった文乃の姿を見ようとしている。そしてそれは文乃がおそらく誰にも、もちろんわたしにも見せたくない姿だ。

 勇気を振り絞って部屋の中を覗き込んだ。

 スプリングがはみ出したベッドの端に文乃が腰かけて、ポテチを頬張っていた。すぐ傍に破れたビニール袋とコーラのペットボトル。白いものが床にはいつくばっていた。

河野くんの裸だった。

 ずんぐりむっくりした河野くんの体ははんぺんみたいに真っ白で、やわらかそうだった。背中はなめらかなのにすねには黒くて太い毛がいっぱい生えていて、男の子の裸なんだって嫌でも思い知らされてしまう。四つん這いになった河野くんは床に顔をくっついている。床と河野くんの顔の間に赤く動くものが見える。

 何をしているのかわかって、めまいがした。想像以上の衝撃で体中の血がてんでんばらばらの方向に流れ出す。文乃がにやりと唇を曲げる。

 その顔は周防さんによく似ていた。

「そっ、部屋じゅう隅々までちゃんとやってよいつも通り。終わったら壁だから」
「文乃っ!!」

 はじかれたように文乃がこっちを見た。河野くんが飛び上がって体を起こし、わたしを見るなり耳まで赤くして床に散らばった服をかき集める。あう、あううー、と意味をなさない言葉が血の気が引いた唇からこぼれ落ちる。うるさいと文乃が河野くんを一喝する。改めてわたしを見た文乃は、悔しいような怒ったような顔をしていた。そんな文乃の表情に真っ赤な感情が突き上げてくる。

 仁王立ちで部屋に突入したわたしの両手がわなわなしていた。

「文乃最悪だよ最低だよ、何やってんの何考えてんの、裸にさせて床舐めさせるとか文乃だってやられたことないじゃん!! 自分がされたことよりずっとひどいことを文乃はやってるんだよ、しかも河野くんは障がい者だし!! なんでこんなことされなきゃいけないのかこの人はわかんないんだよ!? いじめられる辛さは文乃が一番よくわかってるのに、ひど過ぎる」

「ひどいのはあんたじゃん!!」

 文乃の強い声に、刺すような目に、びくっと肩が上下した。小さい頃に喧嘩した時だって、文乃はこんな顔はしなかった。こんな、まるでわたしを軽蔑するような。

「時々話しかけてくるけどあれ、マジに何のつもり? 気でも遣ってる? いいことしてるつもり? それでわたしが喜ぶとでも思ってんの? 喜んでんのは自分じゃんさ。いじめられてるあたしを庇ってる自分が好きなんでしょ? 見て見ぬフリする人になっちゃった自分が可哀想なんでしょ? 自分が一番可愛いくせにえらそうなこと言うなよ」

 変わり果てた文乃の言葉のひとつひとつが、わたしをえぐる。

 文乃は変わった。「きえちゃんきえちゃん」とまとわりついてきたあの頃の文乃は、もうこの世のどこにもいない。ひとかけらの罪悪感もなく、強い者が弱い者をいじめることを当然のように考えている文乃は、周防さんと同じだ。

そして文乃をこんなふうに変えてしまったのは、周りの友だちに簡単に同調して文乃を疎外して、いじめから助けることもしなかった、わたしなんだ。

「……言う。絶対言う。わたし文乃がやってること、大人に言うから。お父さんにもお母さんにも先生にも、みんな」

 鋭い目を必死で睨み返しながら言った。寒くもないのに全身ががたがたしている。文乃がケッ、と笑った。