悲鳴を上げたのは文乃じゃなくて、遠くで見ていた三川さんと横井さんだった。リノリウムの床に、そこにあってはいけないものが落ちていた。誰もが息を詰め、茫然としている。文乃はきょとんとした顔で不本意ながら犬のフンを掴んでしまった自分の手と、乾いた黒い塊が転がる床を交互に見比べていた。

 誰もが動かない中、カールした茶色い頭が文乃に近づく。

「うっわぁー、何? 高橋さん、机にこんなもの入れてるの? やっだぁー」

 勝ち誇った顔、声。化粧を施したきれいな周防さんの顔が、残酷な笑みに歪んでいた。
 その瞬間すべてがわかってしまって、背筋が震えた。改めて周防さんを怖いと思った。

 周防さんに初めて恐怖心を持ったのは、一年生の三学期だった。その時周防さんとは違うクラスだったけど、中一なのに髪染めも化粧もしててよく目立つし、それでなくても存在感のある人で、話したこともないのによく知っていた。その周防さんが昼休み、半田さんや、自分たちと似た派手な感じの女の子数人とぞろそろ廊下を歩いてて、一緒に歩いてる子の一人に向かって周りによく聞こえるような声でこう言ってた。

「蒼衣ってさぁ、アオイっていうよりむしろアカイって感じだよねー? なんでさぁ、いつもそんなに顔が真っ赤なわけぇ? これからみんなで、アカイって呼んだげようよー」

 みんなにケラケラ笑われながらその真ん中で、蒼衣ちゃんは他にどうしようもないようにヘラヘラしてた。話したことはおろかその時まで名前も知らない子だったけれど、彼女が嫌な思いをしていること、嫌な思いをしているのに仕方なく笑っていることは、一目瞭然だった。わたしも冬になると頬の赤みが目立つから、蒼衣ちゃんが赤ら顔を悩んでる気持ちはよくわかる。周防さんはきっとそれを知ってて、アカイなんてあだ名をつけたんだ。

 よく見れば蒼衣ちゃんは、グループの中で一人浮いていた。化粧はしてるし髪も染め、制服のスカートも短く詰めているけれど、みんなのやり方を慌てて真似たような感じで、どうしてもあか抜けない。はっきり言えば、痛々しい。そんな蒼衣ちゃんがなんでこのグループにいるかっていったら、きっとみんなにいじめられるためなんだ。周防さんはいじめる対象、スケープゴートとして、蒼衣ちゃんをグループの一人に選んだんだ。

 その時と今と周防さんは同じ顔をしている。いじめをして楽しむ、そういう心の働きはきっと誰にでもある。でも周防さんはその心を隠すことなく、自分がみんなより優れていることを自覚し、優れた者として劣った者をいじめる権利を堂々行使する。日常の中でのちいさな非日常であるいじめは、中学生のもっとも手軽なエンターティメント。そんな周防さんだから、他の誰にも出来ないことを無邪気にしてしまう周防さんだから、わたしは怖い。

 他のみんなも、きっと同じ気持ちだった。教室の中の誰もが、いじめを楽しんでいる周防さんを怖がって、そして引いていた。いつもなら面白がって乗ってくる三川さんや横井さんや、増岡くんたち男子も周防さんの言葉に反応せず、茫然としたままだ。

 しんとした教室の中で、大人っぽいきれいな顔が自分を取り巻く冷ややかな視線に気づいたらしく一瞬歪み、それから焦ったように言葉を連ねる。

「高橋さん、これ何?もしかして自分の? やだぁ、高橋さん、中学二年生にもなってお漏らしでもしたのー?」
「……ああわかった違う、お漏らしじゃいよねー。高橋さん、こういう趣味があるんでしょ? 知らなかったぁー」
「……ねぇねぇ、こんなことして楽しいの? あたしわかんないから、教えてよ。ウンコ収集の楽しさ。あはっ、ウケるー。ウンコ収集だって。昆虫採集じゃないんだから」

「とにかく片付けようぜ」

 やめろよ、の代わりに増岡くんが言った。冷えた声に周防さんの横顔が凍りつく。ようやく周防さんも、自分が失敗したことを悟ったんだろう。

 「適度な」いじめは残酷な中学二年生たちを喜ばせ加害者を集団の中心に持ち上げる。でも度が過ぎてしまうと、ギャラリーはあっという間に引いてしまい、中心にいた加害者は途端に悪者だと認識される。

 昨日までは文乃に向けられていた視線を今は周防さんが浴びていた。

 増岡くんがロッカーの上に積み上げてあるトイレットペーパーをひとつ持ってきて、手早く黒い塊を包んだ。包んだものは教室の窓から捨てられた。二階にあるこの教室の真下は用務員の先生が管理する植え込みになっていて、生徒が立ち入ることはまずない。

 黒い塊は植え込みに隠れてしまったけど、臭いは消えない。増岡くんがおもむろにすべての窓を全開にした。