わたしと郁子と潮美と美織、どうでもいい話で盛り上がるHR前のひととき。郁子たちは同じアイドルグループのどちらが恰好いいかで議論を戦わせていたけれど、ちっとも興味を持てない。話を聞こうと努力することも忘れ、ぼんやり窓の外に視線を漂わせていた。とうに水分を失ったポプラの葉っぱが枝にしがみついて不安そうに風に揺られている。
昨日見たものが、まだ瞼の裏にこびりついている。教室の中とは全然違う、堂々とした佇まいの文乃。そんな文乃に当たり前のように服従していた河野くん……あの二人が付き合っている、という噂は何度か耳にしたことがあったけれど、まさかそんな、と聞き流していた。あの文乃が誰かと付き合うなんて、それが河野くんであってもありえない。
でも昨日の文乃と河野くんは、彼氏彼女の関係とは、ましてや友だちとも、違っていた。二人の間には確かな上下関係が存在していると思う。文乃が絶対的に上で、河野くんが下。
でもなんで二人の間にそんな関係が成り立ってるのか、文乃がどうして下僕のように河野くんを扱うのか、全然わからない。第一、二人にはまるで接点がない。一体いつから、どうやって、文乃と河野くんは親しくなったんだろう。
「もう、またぼけっとして。なんかあったの?」
郁子に言われてはっとする。潮美と美織はまだアイドルの熱い議論を繰り広げているけれど、郁子は一人ぼんやり友だちの会話から外れてるわたしを気遣ってくれたらしい。
「別に、なんもないよ」
「嘘つけ」
握りこぶしがこつんと額をつつく。ラケットの握り過ぎであちこちマメができた、真っ黒に日焼けした手。
「ごめん。希重が話してくれるまで待つって決めてたのにさ。でもやっぱ、我慢できない。希重が楽しくなさそうにしてんの、耐えられない」
ぶつけたい感情を押し殺した声に、ためらいなくわたしを親友だと言ってくれた子に心配かけてたんだと、改めて気づく。額に握りこぶしを当てたまま、郁子が微笑む。
「何があったのか知んないけど、言えば楽になるよ。大丈夫。あたしはそんなペラい人間じゃないよ。たいがいのこと、引かないって」
何もかも受け止めてくれそうな郁子を前に、打ち明けたいと胸が疼く。でも軽蔑するような文乃の顔を思い出して、やめとけともう一人の自分が警告する。だって、郁子に相談したところで何が変わる? わたしだってまだ昨日見たものを理解できていないのに。
黙っていると郁子がふいに首を後ろに曲げた。どうしたのかと郁子の視線の先に目を向けると、増岡くんや小松崎くんたちが何やら怪訝な顔をしている。
「なぁ、なんか臭くね?」
最初は男子たちの間だけでそう言い合っていたのがいつのまにか周りも彼らのただならぬ雰囲気に気付き、怪訝な顔が教室中に広がっていく。いつのまにか潮美と美織もアイドルの議論をやめ、そういえば何か臭うねぇとくんくん鼻を動かしていた。言われてみれば確かに、教室の空気に異質な臭いが混ざっている。何の臭いかと聞かれたらはっきり答えられないけれど、明らかに学校にはふさわしくない不快な臭いが、ぐいと鼻を曲げる。
「ねぇ、何これ?」
「なんか臭いよ。どっかで何か腐ってる?」
「いや、腐ってる臭いじゃないだろ。ガスかなんかじゃね?」
「ガスって何? えーなんか怖い」
「どこでしてんのこの臭い」……
教室のあちこちから聞こえてくるそんな声。気にすればするほど、臭いは強く濃くなっていくようだった。やがて最初に気付いた増岡くんたちが臭いの源泉を突き止める。それは増岡くんたちが陣取っている教室の一角の、すぐ後ろの席。
文乃の机だった。
みんなが文乃の机を遠巻きにしつつ指さしあってる、ちょうどその時文乃は登校してくる。不穏な教室の雰囲気にどんよりした目がちょっとだけ見開かれ、すぐに臭いに気付いたのかしかめっ面になる。増岡くんが怒ったような顔でずしずし文乃に近づいていく。
「高橋さ、お前、机に何入れたの? お前の机、くっせーんだけど」
「え」
戸惑った声を出して文乃は自分の席に歩み寄り、一歩ごとに強くなる臭いにますますしかめっ面の皺を深くする。スクバを机の上に置き、ついで中のものを確かめようと手を入れる。文乃の目が今度は限界までかっと見開かれる。中年太りのおばさんみたいな体が飛び退く。どす黒い塊が教室の床に落ちた。
「きゃっ」
昨日見たものが、まだ瞼の裏にこびりついている。教室の中とは全然違う、堂々とした佇まいの文乃。そんな文乃に当たり前のように服従していた河野くん……あの二人が付き合っている、という噂は何度か耳にしたことがあったけれど、まさかそんな、と聞き流していた。あの文乃が誰かと付き合うなんて、それが河野くんであってもありえない。
でも昨日の文乃と河野くんは、彼氏彼女の関係とは、ましてや友だちとも、違っていた。二人の間には確かな上下関係が存在していると思う。文乃が絶対的に上で、河野くんが下。
でもなんで二人の間にそんな関係が成り立ってるのか、文乃がどうして下僕のように河野くんを扱うのか、全然わからない。第一、二人にはまるで接点がない。一体いつから、どうやって、文乃と河野くんは親しくなったんだろう。
「もう、またぼけっとして。なんかあったの?」
郁子に言われてはっとする。潮美と美織はまだアイドルの熱い議論を繰り広げているけれど、郁子は一人ぼんやり友だちの会話から外れてるわたしを気遣ってくれたらしい。
「別に、なんもないよ」
「嘘つけ」
握りこぶしがこつんと額をつつく。ラケットの握り過ぎであちこちマメができた、真っ黒に日焼けした手。
「ごめん。希重が話してくれるまで待つって決めてたのにさ。でもやっぱ、我慢できない。希重が楽しくなさそうにしてんの、耐えられない」
ぶつけたい感情を押し殺した声に、ためらいなくわたしを親友だと言ってくれた子に心配かけてたんだと、改めて気づく。額に握りこぶしを当てたまま、郁子が微笑む。
「何があったのか知んないけど、言えば楽になるよ。大丈夫。あたしはそんなペラい人間じゃないよ。たいがいのこと、引かないって」
何もかも受け止めてくれそうな郁子を前に、打ち明けたいと胸が疼く。でも軽蔑するような文乃の顔を思い出して、やめとけともう一人の自分が警告する。だって、郁子に相談したところで何が変わる? わたしだってまだ昨日見たものを理解できていないのに。
黙っていると郁子がふいに首を後ろに曲げた。どうしたのかと郁子の視線の先に目を向けると、増岡くんや小松崎くんたちが何やら怪訝な顔をしている。
「なぁ、なんか臭くね?」
最初は男子たちの間だけでそう言い合っていたのがいつのまにか周りも彼らのただならぬ雰囲気に気付き、怪訝な顔が教室中に広がっていく。いつのまにか潮美と美織もアイドルの議論をやめ、そういえば何か臭うねぇとくんくん鼻を動かしていた。言われてみれば確かに、教室の空気に異質な臭いが混ざっている。何の臭いかと聞かれたらはっきり答えられないけれど、明らかに学校にはふさわしくない不快な臭いが、ぐいと鼻を曲げる。
「ねぇ、何これ?」
「なんか臭いよ。どっかで何か腐ってる?」
「いや、腐ってる臭いじゃないだろ。ガスかなんかじゃね?」
「ガスって何? えーなんか怖い」
「どこでしてんのこの臭い」……
教室のあちこちから聞こえてくるそんな声。気にすればするほど、臭いは強く濃くなっていくようだった。やがて最初に気付いた増岡くんたちが臭いの源泉を突き止める。それは増岡くんたちが陣取っている教室の一角の、すぐ後ろの席。
文乃の机だった。
みんなが文乃の机を遠巻きにしつつ指さしあってる、ちょうどその時文乃は登校してくる。不穏な教室の雰囲気にどんよりした目がちょっとだけ見開かれ、すぐに臭いに気付いたのかしかめっ面になる。増岡くんが怒ったような顔でずしずし文乃に近づいていく。
「高橋さ、お前、机に何入れたの? お前の机、くっせーんだけど」
「え」
戸惑った声を出して文乃は自分の席に歩み寄り、一歩ごとに強くなる臭いにますますしかめっ面の皺を深くする。スクバを机の上に置き、ついで中のものを確かめようと手を入れる。文乃の目が今度は限界までかっと見開かれる。中年太りのおばさんみたいな体が飛び退く。どす黒い塊が教室の床に落ちた。
「きゃっ」