文乃の無邪気な言葉は素直にわたしを喜ばせた。飼い主に忠実な犬のように「きえちゃんきえちゃん」とつきまとってくる文乃。そんな文乃が、たしかに愛おしかった。

 わたしが文乃を拒絶して文乃がわたしと親友でいることを諦めて、五年。大人になってもどころかほんのちょっと先の未来でも、わたしたちは一緒にいれなかった。文乃はどうしてもいじめられるタイプで、わたしはそうじゃなくて、そのことが二人を決定的に引き裂いていた。

 黙り込んでしまった中二の文乃の前で、気まずくてどうしたらいいのかわからない。このまま何事もなかったように通り過ぎてしまおうか、さっさとボールを取りに行こうか。でもそしたら、文乃の友だちが誰かわからなくなる。わたしは知りたい、今の文乃にとっての友だちが誰なのか。わたしと一緒に帰らなくなった文乃が、誰と下校を共にするのか。

 静かな裏門に駆け足が近づく。足音の主はなかなか体重があるのか、ドッドッと重く鈍い響きが地面に伝わる。やがて錆びたフェンスの向こうからくるんと丸い頭が現れた。

「ふ、文乃さん」

 どもる声に聞き覚えがあった。びっくりして振り返ると、同じくびっくりしている瞳と目が合った。河野潤平は文乃の名前を呼んだことを恥じるように、真っ赤になって俯いてしまう。制服のブレザーを着た肩ががくがくと落ち着きなく震えていた。

 ひまわり組、つまり障がい者クラスの河野潤平っていったら、この学校で知らない人はいない。障がい者っていっても体のどこかが不自由じゃなくて、つまり不自由なのは頭のほうだから、どうしても悪目立ちする。お調子者の男子、うちのクラスでいうと増岡くんとかは時々、河野くんのどもるしゃべり方や、廊下で上げる奇声なんかを真似して、先生にきつく叱られていた。

女子たちはそういうことがよくないってもうわかるぐらいには大人だから、移動教室でひまわり組の前を通り過ぎる時、廊下でニヤニヤしたり奇声をあげている河野くんを見ても、知らんぷりでほうっておいて、話題にもしないけれど。

 その河野潤平が、文乃の名前を呼んでいる。まさか文乃の待ち合わせの相手って、と思った瞬間、文乃がすっくと立ち上がった。

「遅い。何やってんのよ」

 そう言う声はさっきまでと違ってもごもごしてなくて、すっと芯が通っていた。自分より10センチ以上背の高い河野くんを見つめる目はらんらんと不気味に光っていて、教室での文乃とは別人だ。

 ちっとも事態を飲み込めてないわたしの前で、文乃が動いた。のしのし河野くんに歩み寄って、ひとつも飾りのついてないスクバを押し付ける。

「ほら、持って」
「は、はい」
「行くよ」

 文乃がらんらんとした目のまま、一瞬こっちを見た。驚いているわたしを軽蔑するような顔だった。ふん、という声が聞こえた気がした。

 文乃が踵を返して歩き出し、その二歩後ろを二人分のスクバを重そうに抱えた河野くんがついていく。文乃の足取りはしっかりしていて、家来を従える女王様みたいだった。