笑いながら言ったのが誰だかわからなかった。もはや誰でもよかった。あたしは素早く踵を返し、自動操縦されてるロボットみたいにつかつか足を動かす。この場から離れたってみんなにまた好きになってもらえるわけもないのに、逃げたら、逃げまくったら、そんな奇跡が起こるんだって信じてるように。


 風花にムカつくって言われたのも、麻奈にウザいとかいい子ぶってるって言われたのもキツかったけど、一番ショックだったのは美晴の言葉だった。あたしを「あの子」と呼んだ美晴。別に親友じゃないって、あんなに簡単に言えてしまう美晴。ずっとあんなに近くにいて、あたしは美晴の本当の気持ちにさえ気付けなかったんだ。それじゃあたしかに、親友なんかじゃない。


 たんたんたん。生徒がみんな帰ってしまった放課後の廊下に、あたしの足音だけが高く強く響く。どこかでトロンボーンかサックスか、吹奏楽部の仲間が練習してる音がするけれど、速足で歩くからどんどん遠くなる。どこまでも歩く。ずんずん歩く。目的地もわからないまま、ひたすら足を動かす。


頭の裏はかっかして、鼻の奥がひりひりして、喉の奥には吐き出せない気持ち悪さがぐるぐるしていた。みんなに嫌われるのがこんなに気持ち悪いことだなんて知らなかった。みんながあたしを嫌い。みんなの中に、あたしはいない。あたしという存在が、少しずつみんなの中で「嫌い」の感情に汚されていく。それって、こんなに気持ち悪くてしょうがないことだったんだ。


 今、気づいた。あたしはあたしが思ってたより、ずっとひとの目を通して自分を見てたんだ。みんなに好かれてるから、安心できる。みんなに好かれてるから、自信を持てる。みんなに好かれてるから、自分を好きでいられる。なのに、みんなに嫌われてしまったら。


 気がついたら、自分のクラスの前にいた。ドアにはまった長方形のガラスの向こうに、机に座ってる、中年太りのおばさんみたいな肉付きのいい背中が見えた。エラの張った輪郭、痛そうな赤いニキビが散るほっぺ、つやのない中途半端な長さの髪。文乃の指の短い手が、机の上で文庫本のページをめくっている。


 放課後の誰もいない教室で読書なんて。そんなキモいことを平気でしているから嫌われるんだ。中学って場所では、変わったことなんかしちゃいけない。障がい者と付き合うことも放課後の教室で一人本を読むこともミスをした部活仲間を責めることも、いけない。嫌われたら周りには誰もいなくなる。誰もいなくなったら、この小さな世界は終わる。


 いつも以上に文乃がウザくてムカついてその丸々した背中を蹴っ飛ばしてやりたくて、勢いよく教室の引き戸を開け、中に踏み込んだ。文乃がゆっくり振り向いて、あたしを見る。いつものような湿度100%の視線。腐った魚の目が、あたしに焦点を合わせた。


 美晴が言ってたことを思い出す。文乃は本当は、助けてーって意味だけを込めてあたしやみんなを見てるんじゃない。美晴はちゃんと、気付いてたんだ。


目の前にある文乃の瞳はあたしに同情している。


 蹴っ飛ばしたい気持ちは、すぐに消えた。でも矛先不明の嫌悪感は膨れ上がって、ひりひりした喉にごおっと熱が湧いて、引きつった唇を夢中で動かしていた。


「あんたウザいんだよ。キモいんだよ。なんで嫌われてるくせにいじめられてるくせに、学校来んの。どういう神経してんの。あんたがいるだけでみんな迷惑してんだよ。あんたがいるだけであたしは迷惑なんだよ。いっそみんなの前から、あたしの前から、消えてよ。早く死んでよ」