朝練が終わってHRが始まるまでの時間、教室に一番近いトイレには誰もいなくて教室の喧騒もちょっと遠くて、誰かのおしゃべりとか廊下を駆ける足音とか、いろいろ聞こえてくるのに静かだった。蛇口をひねると手のひらを流れる水が少し冷たい。ついこの前まで冷たい水が気持ちよかったのに、季節はもう冬に近づいている。


「ねぇ。あたし、間違ってたかなぁ?」


 隣の蛇口で手を洗っている美晴に言う。美晴はたれ目がちの目をあたしに向けないで答える。水しぶきがタイルの上で小さく跳ねていた。


「間違ってないよ、亜沙実は。悪いのはコピー忘れたみずきだし」


 突き放した言い方だった。クロスでクラリネットを拭きながら、困ったような怒ったような顔をしていたさっきの美晴を思い出す。やっぱり美晴はあの時ちょっと怒っていて、今も怒っているのかもしれない。


「んー、でも、なんかさ。コピー忘れたのはみずきが悪いんだけど、あんな空気にしたのはあたしじゃん? ああなっちゃうとみずきよりむしろ、あたしが悪いみたいでさ」

「そう思うんなら、みずきに謝ったら?」


 やっぱり突き放した言い方で、あたしも美晴を見れなかった。こんな時でも美晴はお腹の中のものを全部吐き出さないで、親友のあたしに言いたいことを言おうとしない。そうやって自分の周りをぐるりとバリアで囲まれてしまうと、それ以上近づけなかった。


「人に謝るの、苦手なんだよねぇ。あたし」


 言いながら、きゅっと蛇口を締めた。


 すっかり冷静になってイライラが完全に落ち着いた今、明らかに言い過ぎだなって思う。やるべきことをやらなかったみずきはたしかに悪いけれど、みんなの前であそこまで責めることない。一年生だって見てたのに。もっと言えばあそこであたしがあんなに怒ったことで、貴重な練習時間が無駄になった。美晴はハンカチで手を拭きながらやっぱりあたしを見ないまま、


「亜沙実って、何気ソンな性格だよね。そういうこと」


 なんて言う。ちょっと毒のある言葉に、そうかも、とだけ返した。何気に、じゃなくてかなりソンな性格なんだ、きっと。必要以上にイライラするところも、キレたら止まらないところも、後で気付いても素直になれない強情さも。


 水音が沈黙を破りあたしも美晴もぎょっとして振り向いた。文乃がすうっと、幽霊みたいな動きで個室から出てくる。一番奥の個室が塞がってたことに、今初めて気付いた。


 文乃が近づいてくる。三つある蛇口の一番右側で素早く手を洗い、スカートの裾で拭う。足元は職員用スリッパだった。また、エリサたちに隠されたんだろう。


「汚っ」


 文乃がトイレから出て行くと、無意識のうちに吐き捨てていた。指の短い厚ぼったい手がプリーツスカートで水滴を拭う、ただそれだけの行動がやたら気持ち悪かった。たぶん、文乃だからだ。


「ハンカチぐらい持ってこいっつーの」

「ハンカチも隠されてたのかもよ、エリサたちに」

「てか今の会話、聞こえてたかなぁ。まぁいいよねぇ、文乃だし」


 美晴は何も言わなかった。そういえばあたしや風花が文乃の悪口で盛り上がってても、美晴はいつも積極的に乗ってきたり、暗い笑みで唇を歪めたりしない。どこが違うのかうまく言えないけどあたしとは確実に違う美晴。いつも本当の気持ちを見せない美晴。


 うちら親友だよねって言い合ったこともあるし、今もおそろいのキーホルダーをスクバにぶら下げている。でも親友ってたぶん、本当はそんなもんじゃない。おそろいのキーホルダーを持ってるからって、美晴があたしの一番で、あたしが美晴の一番だとは限らない。頭の片端に浮かんだ恐ろしい仮説を無視し、美晴との沈黙が心地悪くてどうでもいい話題を持ち出す。美晴は薄い表情で相槌だけ打っていた。