「ね、そういえばあの体操着、どうしたの?」

 桃子が聞くと増岡は首をひねった。

「あー、あれ? どうしたっけ」

「俺が窓から捨てた」

 そう言ったのは山吹。えーマジひどーっと明菜と桃子が声をハモらせ、でも言葉とは反対にクスクスと嬉しそう。

「全然、ひどくないよ。高橋さんなんて体操着、ぐしょぐしょに濡らされたんじゃん。それに比べたら」

 和紗が反論する。この子の正義感の対象はあくまでエリサだけで、いじめという行為には向かないらしい。中学生のモラルなんて浅はかなもので好き嫌いだけで善悪が決まってしまうのだ。まぁそうだね、と鞠子が同意している。

「文乃」

 ちょうど階段に差し掛かった時、後ろから声をかけられて立ち止まる。後ろ? おかしい、わたしはみんなの一番後ろを歩いてるのに。明菜、和紗、桃子、鞠子……みんながわたしが止まっていることに気づかず階段を下りていくのが見える。今の声は、誰?

「文乃」

 もう一度呼ばれた。やっぱり変だ。みんな、わたしを高橋さんと呼ぶ。文乃とは言わない。じゃあこの声は……

 振り返った視界いっぱいにエリサの顔が映った。いつのまにこんなところにいたのか、驚くほど距離が近い。表情の消えた顔の中長い睫毛に縁取られた目がめらめらと憎悪に燃えている。

「高橋さーん?」

 明菜が呼ぶ。反射的に振り返ったのと背中を押されたのと同時だった。教科書が落ちるドサッという音。自分が落ちた鈍い音。痛み。悲鳴。どろりとしたものが頭を濡らす。

 曖昧になったり鮮明になったりを繰り返してやがてしぼんでゆく意識のなか、そういえば最近エリサの声を聞いてなかったこと、そのトーンを忘れかけていたことに気づいた。