冷蔵庫を確認すると、あるものでできそうだった。
湯豆腐なら、たいして時間もかからない。
座ってて、と無駄と知りつつ声をかけると、やっぱり母は、はーいと返事だけして、あちこちぶつかりながらダイニングを出ていった。
季節外れすぎて白菜がなかったので、かわりにキャベツ。
豚肉だとキャベツの甘みとケンカしそうだから鶏の薄切りにして、ポン酢でさっぱり食べよう。
手早く仕上げて食卓を整える頃には、母はリビングのソファで寝息をたてていた。
小さな音でテレビを見ながら、母の隣でひとりで食べた。
このクソ暑いのに湯豆腐って。
でも暑い時に熱いものって、実は健康にいいんじゃなかったっけ。
そんなくだらないことを考えて、母の寝顔を眺めた。
18で私を産んだ、年若い母。
まだ36歳なのに、何年もアルコールに侵された顔は、もっとずっと上に見える。
なんでこんなになりながらも、毎日メイクはちゃんとしてるのかなあ。
服だって不思議といつも流行りのものを身に着けてるし、女心ってすごいなあ。
ていうか、いつ外出してるんだろう。
「これは“未練”か?」
「うわあ!」
ガチャンとお取り皿をとり落とした先に、たまたまグラスがあって、派手な音と共に中身をぶちまけた。
同じソファの、母の向こう隣にゆったりと腰かけた伸二さんは、それを見て笑う。
「騒々しい家だ」
「誰のせいだと」
「だがにぎやかではない」
「…慣れない言語でちょっとうまいこと言ったからって、そこまで得意げな顔しないでください、ていうか、靴」
ぴしゃりと言うと、彼は不満げに顔を曇らせ、少し顎を動かしただけで、足の先からスニーカーを消した。
「褒めても罰は当たらない」
「靴を忘れてこなくて偉かったですね」
「靴の話じゃない」
完全にすねた様子で、母の飲み残しのウイスキーに口をつけて、うえっと顔をしかめる。
「未練て、なんですか」
「辞書を常に手の届くところに置いている家の子供は、頭がよくなるらしいぞ」
「ありますよ、そこの棚に。引きたきゃどうぞ、意味は知ってます」
「いやに攻撃的だな。未練とは、言葉どおりだ。俺はそれを解消するためにいる」
そうだ、と唐突に人見さんが立ちあがった。
母が一瞬の隙に散らかしたリビングを、音もなく歩き回りながら、手振りをまじえて朗々と語る。
「まだ説明していなかったな。俺の仕事は、きみが満足して人生を終える手助けをすることだ。未練の解消しかり、終末の演出しかり」
「演出?」
「何かあるだろう、人目につかないところでとか、もしくは報道されるくらい派手にとか」
「…死にかたってことですか」
「直截に言えば、そうだ。俺はそれを、きみの希望どおりに仕立てあげる、いわばプランナー兼プロデューサーだ」
窓辺で振り返ると、ぴっと私を指さして、にこりと笑う。
…死神の仕事って、そんな軽い響きでくくられるものなのか。
名刺くださいと言ったら本当にくれそうなので、やめておくことにした。
「母は、未練じゃないです」
「そうか、何よりだ」
私がいなくなるくらいのショックは、むしろ母が立ち直る、いいきっかけになってくれるだろう。
誰かが母に、やんわりと私の事情を伝えてくれて、しばらく面倒を見てくれれば、の話だけど。
「そのあたりは心配ない。事前に言ってくれさえすれば、事後のことも少しは請け負える」
「私、父親が誰だかわからないんです」
「そうか、きみの父親は、この村の村長だ」
だし汁で濡れたラグを叩く手がとまった。
かなりの重大事のつもりで言ったんだけど。
そんなあっさり。
「…村長が、母と? ってことですか?」
「ってことだ。まあ当時はただの村職員だが。高校を出るか出ないかのきみのお母さんをカドワ・カシ・タ。ん?」
「たぶらかした?」
「それだ」
自信がないなら翻訳しないでほしいな、と誰にともなく悪態をついて、伸二さんは窓のカーテンを指で揺らした。
はす向かい、といっても間にぶどう園があるので、そこそこ距離があるけれど、そこに村長の邸宅はある。
たわわに実ったぶどうと葉のシルエットの向こうに、贅沢な玄関の明かりが見える。
ひとりで私を産んで、育てた母。
と思ったら、父親はこんな近くにいた。
去年、村をあげて村長の還暦のお祝いをしたから、母とそういうことになった時は、えーと、42歳とか43歳とかってことか。
うんまあ、あの村長なら、わからないでもない。
精力的で活力にあふれて、リーダーシップがあると言えば聞こえはいいけど、とどのつまり、ただのワンマン親父。
気に入らない職員は飛ばし、当然のように村内のお店では飲み代を払わない。
横暴な嫌われ者の偏屈親父。
弥栄杉久(やさかすぎひさ)村長。
林太郎の、お父さん。
「他に未練は? きみの担当である限り、きみの周辺事情を俺は入手することができる。なんでも提供する」
ひとつ小さな仕事をしたせいか、晴れ晴れとした顔で伸二さんが笑う。
私はなんだか、急激にくたびれて、のろのろと首を振るのがやっとだった。
「これまでどおり、普通に暮らしたいです」
結局、そういう人は多いんだろう。
でも伸二さんは、それを口に出さずにいてくれた。
優しく微笑んで、うなずくだけで。
お前は最後の最後まで他の誰とも変わらない、つまらない平凡な存在だなんて、言わずにいてくれた。
静まったリビングに、テレビの絞った音と、母の軽いいびきが響く。
伸二さんが気持ちよさそうに薄く開けた窓から、林太郎の部屋の明かりが見えた。
ねえ林太郎。
私たち、兄妹なんだってさ。
血が繋がってるんだって。
家の前の道で、林太郎と遭遇した。
林太郎は眠そうに目を細め、おはよ、と笑う。
「そっち、こんな時間で間に合うの?」
「んー、寝坊しつんた」
「ならさっさと行きなよ」
ほやな、とうなずいておきながら、急ぐ様子も見せず、私と並んで自転車をこぐ。
進学校でしょ、遅刻したら怒られるんじゃないの、なんてわざわざ言わないけど。
対向から来た軽トラックが、大げさに林太郎の自転車をよけて、のんきなクラクションを鳴らした。
「危ないぞおっ、林ちゃん」
「ごめんのぉ」
村のおじさんだった。
仲よくなー、と窓から手を振って去っていく。
「あっちゃん、昨日言ったの、考えてくれた?」
「昨日って?」
「夏休みの話、したが」
ああ…と自転車のカゴの中で弾むバッグを眺めた。
なんて言えばいいんだろう。
たぶんその頃には、私はもうこの世にいないんだよね、なんて言ったところで、誰が信じるよって話なわけで。
「ごめん、やめとく」
「忙しんか」
「わかんないけど」
林太郎は少し黙って、ほうなんか、と残念そうに言った。
柔らかそうな髪がさらさらと、風に揺れる。
今日も朝から青い空、白い雲、ぎらつく太陽。
お昼ごろにはきっと、立っているだけでやけどできるくらい気温が上がるだろう。
「夏祭りは、行くん?」
「いつだっけ」
「来週の今日や」
頭の中で、指を折って数えた。
来週の今日ってことは、私が伸二さんに会ってから、九日目にあたる日だ。
──だいたい一週間から10日くらいの間かな。
「…微妙だな」
「予定、あるんか」
「いや、うん、予定というか、まあ」
…予定だね、と目を泳がす私に、林太郎が首をかしげた。
「どっちやの」
「読めない日ってあるじゃん」
「ちーちゃんは? 去年ふたりして、来年は絶対彼氏と来るって豪語してたが」
「智弥子だけでしょ、私はそんなこと言ってない」
「ほやったっけ」
「ほやったよ」
伝染った。
林太郎が、白い歯を見せて笑う。
こういう顔すると、小さい頃の面影が濃く出て、私の胸はどうしてだかぎゅっとつかまれたように痛む。
駅前の信号につかまった時、のぉ、とふいに林太郎が、私の自転車のハンドルに手を置いた。
重みで自転車ごと少し、そっちに傾いた。
「もし、行けるようなったら、僕と行こっさ」
熱い指が、わずかに私の手に触れる。
照れくさそうに微笑んで、だけどまっすぐに私をのぞきこむ、善良な坊ちゃんの瞳。
せっけんの匂いがした。
「…林太郎さあ」
「ん」
「私が死んだら、泣く?」
一重の、和風の目がまばたきをする。
たぶん唐突な質問に戸惑ってるのと、誘いをはぐらかされたのとで、傷ついたような表情を浮かべて。
それでも律儀に考えこんでから、わからん、と首を振った。
「泣かないかもって意味?」
「違うわ」
のぞきこむようにして、私と視線を合わせる。
こいつ、こんなふうにしないと目線が並ばないくらい、背が伸びてたんだ。
「泣くくらいで済むんやったらいいなあって」
恥ずかしそうに、その顔がほころんだ。
「ほういう意味や」
ハンドルに置かれた手が、かすかに動いた。
手を握られるのかと一瞬緊張した。
けど林太郎は、遅刻や、と今さら慌てだして。
信号が変わるなり、ほなの、と言い残して猛スピードで先に行ってしまった。
耳が赤くなってるのが見える。
サッカークラブの練習がある日らしく、背負ったスポーツバッグが重たげに揺れてる。
林太郎、ごめん。
ごめんね。
私たち、兄妹なんだよ。
血が繋がってるの。
「何を泣いてる」
「泣いてません」
なんだってこんな、一番会いたくないタイミングで。
げんなりしたところに、ふっと影が差し、顔を上げると、伸二さんが自転車のカゴにとまっていた。
「何を笑ってる」
「鳥みたいだなって思って」
「俺はそんなに忘れっぽいか」
「トリ頭と言ったわけではありません」
ここまで来ると、翻訳機能のミスなのか伸二さんの語力の限界なのか、もはやよくわからない。
彼は、そうか、とあっさり納得し、ふわりと浮いて、次に気づいた時にはうしろの荷台に座っていた。
「よく眠れたか」
「そんなわけないでしょう、出しますよ」
「何をだ?」
「自転車をです」
マジックか、と嬉しそうに手を叩く。
「発進しますよって意味です」
「なんだ」
急につまらなそうになった伸二さんは、重さも感じさせないのに、自転車の出発に合わせて揺れるという凝った芸当を見せた。
うしろ向きに座って、遠慮なしに私に寄りかかり、今後について何か希望はないかと訊いてくる。
「特に思いついてないです」
「そうか」
「伸二さんたちは、全部の生き物に対して、その、仕事をするんですか?」
いや、と温かい背中が言った。
「終わりに納得を求めるのは、ヒトと一部の動物だけだ、俺たちが担当するのは、そういう生き物だ」
「一部の動物っていうのは、犬とかですか」
「そうだな、賢い個体や、人間と長く過ごしたりした動物は、何か手を打ってやらないといけないことが多い」
「成仏できないってことですか」
「そう、ジョーブツだ。これができないと、魂が還元されず、ひたすら漂うことになる」
還元ってのは、生まれ変わるってことだろうか。
疑問を口に出した覚えはないのに、近い、と伸二さんがうなずいた。
「我々の上位組織に、リサイクル部門があってな、正しく終わった魂は、そこで加工され、また使われる」
「魂って再利用できるんですか」
「正確に言えば、再資源化だな、一度溶解するから」
紙か。
「じゃあもしかして、前世の記憶とかって、本物なんですね」
「リサイクル担当者が雑な仕事をすると、そういう不具合も起こる。それを防ぐために、オートメーション化が叫ばれている」
環境の授業みたいになってきたな、と聞いているうちに学校が見えてきた。
「魂が漂うのは、まずいんですか」
「彼らをゼロからつくりだす技術はまだないんだ、だから回収できないと、次に回す資源が枯渇する可能性がある」
「そうすると、まずいんですか」
「いい質問だ」
得意げな声。
「枯渇したらまずいのか、そもそも本当に枯渇するのかすら、誰にもわかっていない」
「ははあ」
「だが誰もがなんとなく、それを恐れている。お前たち人間が、天然資源の枯渇を、真偽もわからないまま恐れているように」
なるほどね。
石油がいつかなくなると世界中が震撼してみたり、専門家が、それはデマだと言ってみたりする、あれか。
そして危機意識のあるところには、ビジネスが生まれる。
浮遊してしまう魂を減らし、リサイクル率を上げるために、伸二さんたちみたいな職業が必要とされたってことだ。
命の尊さという考えが、バカバカしいのか言いえて妙なのか、わからなくなってきた。
「何か思いついたら言え、たいていのことは実現してやれる」
「実現が難しいのは?」
「誰かを巻き添えにするとかだな。──の新規作成は、実はそこそこ厄介なんだ、決裁ルートも違う」
何か一部、翻訳しきれなかったのか、不鮮明で聞きとれない部分があった。
たぶん、案件、みたいな意味なんだと思う。
つまり、ひとりの人間が消える予定を、別の人の希望によって決める、みたいなのは難しいってことだろう。
「そうなんですか」
「残念そうな口ぶりだな」
「冗談やめてください」
「俺は冗談を言わない」
「冗談やめてください」
存在自体が冗談みたいなもののくせに。
気分を害すかと思われた伸二さんは、その表現が気に入ったらしく、嬉しそうに何度もくり返していた。
「新、おっはよ、更新分のノベル読んだ?」
「読んだ、てかそのおかげで生物のレポートしあげるの忘れたの、今気がついた」
「あらら、手伝うわ」
智弥子が長い髪を、耳にかける。
その仕草がうらやましくて、髪を伸ばそうかなと何度も考えたことを思い出した。
結局、部活の時に邪魔じゃないよう結べるくらいの長さになるまでがこらえどころで。
私は挫折をくり返して、ずっとボブのままだ。
一度くらい、伸ばしてみればよかった。
(なんだかなあ)
人が人生の終わりに、悔やむことなんて。
こんなくだらない、小さなことばかりなんだろうか。
「そういえば新、夏祭り、行く?」
私の中途半端なレポートを眺めながら、智弥子が言った。
答えを用意していなかった自分を、心中で罵った。
出て当然の話題だ、バカめ。
「あー、えっとね」
「実はねあたし、もしかしたら一緒に行く人、いるかもしれないんだ」
…ほほう。
照れ笑いをする智弥子は、朝のバスで行き会う男の子に、ずっと片思いしていた。
軽そうに見られがちな外見に反して、智弥子にはそういう純情なところがある。