ほどなくして、ぱたぱたと慌ただしく、でも院内であることに気をつかっているのがわかる足音がした。
そっとノックして顔を見せたのは、林太郎だった。
「ごめんの、勝手に出つんてて」
「いいよ、おじさんはどうなの」
「今日はすっごく元気やったわ、仕事してた」
よかったね、というのが適切かわからなかったので、そっか、と言うにとどめた。
あのワンマン親父が、ベッドに縛りつけられて何ヵ月も過ごしているストレスと、自尊心の傷つきっぷりは相当だろう。
ちょっと容態が安定したくらいで、よかったわけない。
「お母さん、村長に何を言ったんだろう」
「わからん、でも、よくここまで来たなってくらいお酒飲んでたらしいで、あんまりちゃんとは喋れんかったんやないかな」
「そう…」
安心した。
お母さんと村長の関係は、お人好しなお坊ちゃんの耳に入れることじゃない。
なんてね、と自嘲した。
ただ知られたくないだけだ。
あんたは、私を好きになっちゃいけないんだよ、なんて。
言いたくないだけ。
白いふわふわした空間で、私は浮いていた。
やばい、もしかして寝ている間にあっちの世界に来ちゃったのかと一瞬あせり、あせっても仕方ないとすぐあきらめた。
ふと気づくと、頭上には陸地が広がっていた。
いや、頭上じゃなくて、私が逆さまなんだ。
あれは地上だ、それも、日本だ。
急速に、吸いこまれるように地表に近づいた。
すべてが思いどおりになると思わせておいて、実は想像の域を越えたことは再現できない、この感覚には覚えがある。
私は今、夢を見ている。
ぐんぐん地上に近づいて、大雑把な緑の大地だったものは、白や灰色のビルが立ち並ぶ景色へと姿を変えた。
ここが生産工場なんじゃないかと思うくらいたくさんの車が、脇目も振らず、黙々と道路を走っている。
どこかで見たことのある、神殿みたいなデザインの建物の、中央の尖塔の上に、何かがいた。
鳥かと思ったそれは、ふたりの人物だった。
ひとりは、頭のよさそうな清潔な顔立ちに、黒いスーツを着ている。
もうひとりは、ふわふわの髪の毛を風に揺らして、柔らかそうな薄手の大きなシャツをダボダボさせた、まだ少年て年頃の子。
見たことのない外見だったけれど、すぐにわかった。
あれは伸二さんと、トワだ。
『人間が多すぎる』
『増えるばかりの国だ』
『あまり、いい循環をしていないけど。ここの人たちは、それを知っているのかな』
『気づいたところで、何ができるわけでもない』
そうか、と小さいほうの人影が、さみしげに頬杖をついた。
私は、快哉を叫びたい気分だった。
智弥子、やっぱりトワは、男の子だったよ。
『なぜ自分たちが、一定の個体数を保てないのか、考えないのかな』
『医療が発達し、食に富み、安全だからだと思っている』
『それは結果論だ、他の魂を食い潰したぶんが降りかかってきてるだけなのに、なんてのんきな国なの』
『彼らは彼らなりの法則の中で、生きている』
そう、とトワは、残念そうにため息を漏らす。
『人間て、もっと賢いのかと思ってた』
『賢いさ』
『僕らみたいに、たったひとつのことしかできないんじゃなくて、もっとなんでもできるのかと思ってた』
『できるさ』
ただ、とても長い時間がかかるだけだ。
伸二さんはそう言って、優しく笑った。
ふいに景色が横に流れ、何も見えなくなった。
推進力に揺られながらも私は一点に留まり、目の前を走る風景の奔流がゆるやかになる時を待つ。
『どうしたらいいのかな』
やがて聞こえてきたのは、もの思わしげなトワの声だった。
流れ去っていた視界がふわっと開け、大木の枝にちょこんと座る少年と、それに付き添う男の人の姿が見える。
また見知らぬ容姿に変わっていたけれど、もちろん伸二さんとトワだろう。
『いろいろな考えの者がいるが、俺なら、叶えてやる』
『でも、なるべく苦しみたいなんて、どうなの』
『理由は人の数だけあり、本人すら自覚していない願いも、込められているだろう、俺たちにできるのは、実現することだけだ』
『せっかくなんでも叶えてあげるんだから、もっと自由に発想したらいいのに』
不満そうというよりは悲しげに、だけどどこかあっけらかんと、トワは息をついた。
伸二さんがそれを見おろして、穏やかに言う。
『自由とは、選べることだ』
トワが見あげた。
『選択肢が用意されていることが自由なんじゃない。自由とはそれを自分の意思で選び、決めることができる状況を言うんだ』
『じゃあ、あの人は、心が自由じゃないんだ』
『罪悪感か、悔恨か。ヒトは縛られやすい』
気の毒に、とトワは、抱えた膝に、顎を載せる。
柔らかそうな髪の毛を、風がなでた。
『でもいいね、なんだか、生きてるって感じがする』
『限りある命のほうが、色が濃い』
『人間が好きなんだね?』
トワがくすくすと笑いながら、伸二さんを見た。
伸二さんは、にこりと微笑んで軽くうなずき。
『────…』
その声は、風に邪魔されて、聞きとれなかった。
そして、ふいにわかった。
これは、伸二さんの見ている夢だ。
彼も今、どこかで身体を休めながら、ゆらゆらと追憶の海を漂っている。
幸福で、鮮明な。
トワのいた記憶。
はっと覚醒した。
どくどくと耳の奥で鳴る自分の鼓動を聞きながら目を開けると、部屋の中に、ぼんやりと光るものが浮いていた。
恐ろしいものじゃないという直感があり、目をこらすと。
それは丸まって眠る、伸二さんだった。
夜が明ける直前の、独特の静寂の中、ゆっくりと回転しながら、胎児みたいに身体を丸めて、目を閉じている。
見ていたら涙が出そうだったので、起きてほしいと思った。
その時、村のどこかで鶏が鳴いた。
呼応するように、ぴくりと伸二さんが反応し、目を開ける。
ぼんやりした視点は、私を見ても、なお定まらず。
ふわふわ漂ったまま、伸二さんは首をかしげ、不思議そうに言った。
「なぜ忘れていたんだろう」
死神も、寝起きには声がかすれるんだと知って。
どうしてか、切なくなった。
「ちょっと、変なとこ傷つけないでよ」
「言われたとおりやってるが」
台所に、梅の実の爽やかな匂いが充満していた。
ところどころ、ほんのり紅く色づいた黄色い梅を、ホワイトリカーを染ませた布で拭き、竹串でヘタをとる。
この時、誤って皮を傷つけると、漬けている最中に破けてしまい、完璧な梅干しにならない。
山ほどある梅を、拭いては、とる。
拭いては、とる。
「もうっ、ヘタだな、貸して」
「ほんなつまらんシャレ、がっかりやし」
「シャレじゃない!」
パカンと林太郎の頭を叩いて、竹串をとりあげた。
我が家では、梅干しと梅酒を、隔年で交互につくる。
今年は梅酒の年だったんだけど、母が誘惑されて苦しまないよう、梅干しに変更した。
その母は今朝、病院から猪上さんの車に乗せられて帰ってきた。
自分のしてしまったことがショックらしく、泣き腫らした顔ですぐ寝室に引っこんでしまい。
様子を見に来た林太郎を引っ張りあげたところ、話し声に誘われて、ようやく姿を見せた。
椅子に腰かけて、私たちを眺めて微笑んでいる。
その瞳が何かを憂えているようにも見えるのは、勘ぐりすぎだろうか。
「林ちゃんは、ママにそっくりね」
背もたれに頬杖をついて、惚れ惚れしたような調子でお母さんが言った。
林太郎は、ゴルフボールみたいな梅をせっせと磨きながら、ほうかの、と照れくさげにはにかむ。
「ユッコさんは、ほんとに感じがよくて美人だものね、林ちゃんも綺麗になるね」
「せっかくなら、男らしいって言われたいのお」
母と、10ほど歳上の林太郎のお母さんは大の仲よしだった。
今でも、時節の挨拶は必ず葉書で来る。
考えてみたら、そのふたりの関係って、かなり微妙だ。
「あんた、もうちょっとおじさんに似てもよかったのに」
林太郎の、すっきりしすぎとも言える顔立ちを眺めて同情すると、彼はちょっと困ったように眉を寄せて。
「似たかったのお」
のんびりとそう言った。
うちで一番大きなボウルに山盛りの梅の下ごしらえを済ますと、もう昼だった。
あとはホワイトリカーでもう一度消毒をして、塩をまぶして陶製のかめに詰める。
「うちで食べていけば?」
「なんも言ってこんかったで」
律儀な林太郎は、家に自分のぶんが用意されているからと、名残惜しそうにしながらも辞去する。
するとなぜか、私よりも一緒に食べたがっているであろう母が、しっしっと手を振って追い立てた。
「そうよ、男の子はもう帰りなさい、ご飯のあと、あーちゃんは、お祭りの準備をするんだから」
「え」
「林ちゃんと行くんでしょ?」
まさかそうよね、て感じに、母がきょとんとする。
確信犯なのか、天然なのかわからない。
向こうが蒸し返さないのを幸い、昨日のことを謝りもせず、なかったふうを装っていた私は、気まずく林太郎を見て、頭に来た。
なんと、勝ち誇った笑みを浮かべているじゃないか。
「何よ、その顔」
「なんのこと?」
「あんた、調子に乗るのもいい加減にしなよね」
「僕はいつだって、おとなしくて謙虚や。ほれだけが取り柄やって、あっちゃんにずうっと言われてきたもん」
腹立つ!
しれっとそんなことを言い放った林太郎は、ほなのー、とのどかに手を振って、廊下へ消えかけ、あ、と振り返った。
「夕方、迎えに来ていい?」
「小学生じゃないんだし、現地集合でいいでしょ」
「あーちゃん、可愛くしなさい!」
何年ぶりかにお尻を叩かれて、ぎゃっと声をあげた私を、林太郎が笑う。
「あとでの、あっちゃん」
突然、胸が締めつけられるように痛んだ。
うん、となんとか手を振って、林太郎を行かせる。
陰りのない笑顔。
“あとで”会えることを、信じて疑わない、明るい別れ。
だけど私は知っている。
その“あと”がある可能性は、五分五分。
今朝、目覚めた時から、なんとなく漂う違和感。
自分の中身が、八割くらいに減ってしまったような、妙な浮遊感。
たぶん、近いんだ。
もう、ほんとに近いんだ。
その証拠になるのかわからないけれど、今日はずっと、伸二さんの存在がすぐそこにあるのを感じる。
姿は見えなくても、常にそばにいるのがわかる。
その気配が、なんとなくぴりぴりと、いつもの彼らしくないざわつきに覆われているような気がするのは。
仕事本番への緊張からなのか、はたまた、トワの夢のせいなのか。
「ご飯、何にする?」
「お母さんがやるわよ、できるまで遊んできなさい」
「きなさいったって」
窓の近くに寄りたくないくらい、表が暑いのは伝わってくるし、そもそも外で遊ぶって歳でもないし。
漫画やテレビも芸がなさすぎる、と悩んで思いついた。
「じゃあ、ちょっと出てくる」
「帽子かぶるのよ」
「冗談でしょ」
覚悟していたとおり、外は敵意を感じるほどの熱射だった。
負けるもんか、とわけのわからない奮起をしつつ、知っている人に会わなそうな道を選んで歩く。
「伸二さん、一緒に歩きませんか」
ふっと横に気配がして、死神が並んだ。
神妙な顔つきで、生真面目に左右の足を交互に出す姿に、なんだか笑ってしまう。
当然ながら、怪訝そうにされた。
「なんだ」
「歩いてるの、久しぶりに見た気がして」
「笑うことか?」
首をひねるのが可愛くて、さらに笑うと、つられたように彼も表情を緩める。
粗いアスファルトに、サンダルの裏を溶かされそうだ。
真上からの日射しに、逃げ場はほとんどなく、足元にまとわりつくような影は黒々としていた。
ふと伸二さんの足元を確かめると、その視線に気づいたのか、ぱっと影が現れる。
「あれから何か、思い出しましたか」
「少し」
「どんなことを」
「そこまで具体的ではないんだが、どうやら俺は一度、懲戒免職にされかけている」
「懲戒免職? されると、どうなるんですか」
「消える」
当然のように言った。
「俺たちは、この職務のためにいるから、それをとりあげられたら、存在できない」
「え、消えたら、どうなるんですか」
「どうもならない」
「…魂とかは」
「さあ」
まるで頓着していないみたいに、首をかしげる。
何それ、伸二さんたち、そういうもののエキスパートなんじゃないの。
自分のことになると、知識も興味も、そんなもんなの。
「…どうして、仕事を続けられたんですか」
「それも、記憶は曖昧なんだが、どうやら、あいつが関係している」
テンか。
その苦々しい声音からは、若干の記憶が戻った今でも、二匹の仲は相容れないらしいことがわかる。
彼らとトワと、村長の謎を、最後まで追いたいけれど。
伸二さんが、よくわからないものから解放される手助けをしたいけれど。
私には致命的に、時間がない。
「煩わせて、すまない」
「いえ、心残りではありますが」
「そうか、俺は失格だ」
そうだった、彼の仕事は、私がこの世に未練なく去れるようプロデュースすることだ。
悄然と息をつく伸二さんに申し訳なくなり、はっと気がついた。
「どこか、悪いんですか」
「え?」
こちらを見る、顔色がよくない。
「痩せた」とテンが言った時、そうかなと思ったけれど、こうして日の光の下に出てみると、確かに以前より、青白く力ない。
私の視線を避けるように、伸二さんは自分の頬をさわりながら、問題ない、と言った。
「でも実際」
「問題ない」
頑なな声。
黙った私に、すまない、と謝る。
「心配しなくていい、きみのことは責任を持って、全力で送り届ける」
伸二さん、私、そんなこと気にしてるんじゃないですよ。
純粋に、あなたが心配なんです。
私が消えたあとも、あなたは残るんでしょう。
死神の寿命なんて知らないけど、きっと途方もなく長い時を、何人もの終わりに寄り添いながら、過ごすんでしょう。
欠けた記憶と、封じられた力にひとり、首をひねりながら。
「今の俺が言うのもなんだが、安心してくれていい」
気づかわしげで優しい声が、痛ましかった。
「何これ、どうしたの」
「お母さんが昔着てたの、あーちゃんにあげる」
昼食後、母がどこからか持ち出してきたのは、浴衣だった。
白地に藍色で、古典的な水紋と芍薬の柄が入っている。
着付けてあげるから、と言われ、腰が引けた。
「いやでも、今日は林太郎と会うだけなんだけど」
「だから着てくんでしょ、林ちゃんの前で可愛くしなくて、どこでするの」
「こんなの着て、どんな顔して会えって」
「絶対に喜んでくれるわよ、大丈夫」
そりゃ喜ぶだろう。
それが想像できるから、素直に着る気になれないのだ。
さあさあ、と服を引っこ抜かれ、私は丸裸になった。
「あんまり傷んでないね」
「これをもらってすぐに、お腹にあーちゃんがいるのがわかってね、一度か二度、着たきりなの」
「もらったって、誰に?」
補正用のタオルを私のウエストに巻きつけながら、お母さんは少し、思い出にふけるように言葉を切った。
ぎゅっと細い帯で締めあげられて、思わずぐえっと呻く。
「お母さんねえ、好きな人がいたの」
「え?」
肩にかけられた浴衣は、桐箪笥の匂いがした。
身体に両腕を回して、腰紐を締めながら、母が続ける。
「でも、死んじゃった」
え、それって。
もしかして、村長のこと?
「死んじゃったって…最近?」
「うん」
お母さん、村長、まだ生きてるよ。
記憶が混乱しているのかと危ぶんだけれど、母の顔は、そうではないと語っていた。
きっと母なりに、彼に別れを告げたと、そういうことなのだ、これは。
「…ずっと好きだったの?」
「そう、ずうっと」
「どんな人?」
「それがねえ」
どこで覚えたのか、母の手つきに迷いはない。
和服なんて、七五三に着せられたきりだ。
母は、女の子みたいに少し、頬を染めた。
「ひどい人なの、自分勝手だし、相手の気持ちなんか意にも介さないし、目つきとか話しかたも怖くてね」
くるんと私をひっくり返し、うしろのおはしょりを調整しながら、でもね、と笑う。
「時々、すごく優しいの」
「へえ」
「お母さん、高校があまり好きじゃなくて、途中で行かなくなって、小さな食堂で働いてたんだけどね」
「中退してたっけ?」
「ううん、先生の厚意で、卒業だけはさせてもらったの」