聞き慣れない部活だった。
見間違いかと思ってもう一度顔を近付けて確認するが、そこに書かれていたのは“洗濯部”の文字。
なんだそれ、ともう一度じっくりとポスターを見る。
「活動日時は……“ここに来たくなったとき”? 活動内容は“天候と季節に左右されがち”……って」
よくよく読んでみればその内容はかなり変だ。
誰かの悪戯だろうか。いや、でもしっかりと学校の掲示許可印が押されている。
「……“一緒に青春しませんか”」
眉間に皺を寄せたまま、ポスターの一番上に書かれた誘い文句を口にする。
何故だかその誘い文句に、小さく胸が鳴った気がした。
そのときだった。
「なあ」
不意に背後から聞こえた、楽しげな声。
驚いて振り向くと、そこにいたのは笑顔を浮かべた男子生徒。
襟元についている校章の色は赤い。ということは二年生だろう。
涼しい五月の風が頬を撫でる。
目にかかっていた私の長い前髪が揺れて、視界が広がった。
露わになった私の瞳を覗き込むように首を傾げて、目の前の男子生徒は口を開く。
「洗濯部、入りませんか?」
私の人生のターニングポイントは、きっと今このときだった。
5月8日 晴れ
今日から新入部員がやってきた!
この洗濯部を盛り上げてくれる存在となるであろう!
すっっっっげー期待してる!
日向
私は思わず息をするのを忘れていた。
五号館の階段を上がったところ。すなわち二階の廊下で、ぴたりと足を止めた。
これから向かおうとしていたのは、その廊下の突き当りにある空き教室。
ただそこに行くまでにある問題が生じていた。
「……誰だあの美青年は」
音になるかならないかの微妙な声量で言葉を落とす。
ほぼ息を吐いただけのような呟きも、シンと静まり返ったこの空間には響いてしまうような気がして、咄嗟に口を押さえた。
そう。
私の目的地である空き教室の前に、人がしゃがみ込んでいるのだ。
しかもちらりと見えた横顔は、スッと鼻筋が通っていて色が白くて睫毛が長い。
今はその後ろ姿しか見えないが、サラッとした色素の薄い髪と細い腰から、美青年オーラがにじみ出ている。
どうしよう。
やっぱり、行くのはやめておこうか。
そもそも私に部活なんて多分無理だし、洗濯部だなんて聞いたこともない部活だし。
ああ、でも、だけど。
廊下の角から空き教室を見つめながら、考えを巡らせていたときだった。
――キーンコーンカーンコーン。
「うっひゃ!?」
突然鳴り響いたチャイムの音。
それに驚いて盛大に揺れた私の肩。手に持っていたスマホが滑り落ちて、カツーンと廊下にぶつかった。
「うわわわわ……!」
慌ててスマホを拾い上げ、画面にヒビが入っていないかを確認する。
幸い、手帳型のスマホケースをしていたから、画面はしっかりと守られていた。
ああ良かった、とほっと息を吐いたのも束の間。
不意に感じた人の視線。サーッと顔が青ざめていくのを感じながら、恐る恐る顔を上げた。
「……」
「……」
何ということでしょう。
空き教室の前にしゃがみ込んでいた美青年とばっちり目が合ったではありませんか。
いや、正確に言えば私の目は長く伸ばした前髪で隠れているわけだから、相手にはきっと目が合っていることは分からないはずだ。うん、多分、きっとそうだ、そうであってほしい。
「……」
「……」
お互いに無言のまま。
どうするのが正解なのか分からず、とりあえず持っていた鞄の中にスマホを仕舞ってみる。仕舞ったからといって、何が変わるわけでもないのだけれど。
目を逸らすことも出来ず、しばらくお互いにじっと見つめ合ったまま。腕時計の秒針がチクタクと動いていく音がやけに大きく聞こえた。
しばらくそうしていると、美青年が不意に私から目を逸らした。
興味をなくしたように床へと視線を落とした美青年を見て、金縛りが解けたように私の身体は自由を取り戻す。
思わず止めていた息を大きく吸い込み、ふーっと吐き出す。
いつもより細やかに脈打っていた心臓が動きを緩めていくのを感じながら、私はもう一度美青年を見た。
さっきは気づかなかったけれど、美青年は床に何かを並べていた。
ひとつひとつ丁寧に、一定の間隔を開けて並べられていくそれ。
……一体、何をそんなに丁寧に並べているんだろう。
不思議に思った私は、ぎゅっと鞄の持ち手を握りながらゆっくりと廊下の突き当りを目指して足を踏み出す。
この静かな空間に極力音が響かないように、忍者になった気持ちで歩いた。
空き教室に近付くにつれ、だんだんと見えてきたそれ。
「……え」
あと数メートル、というところで私はぴたりと足を止めた。
「い、石?」
私のその問いにしゃがみ込んだままの美青年はぴくりと肩を揺らす。しかし私の問いに答えることなく、またすぐに手を動かし始める。
五号館二階奥の空き教室。
そのドアの前にしゃがみ込んでいた美青年は、どういうわけだか、石を等間隔に並べていた。
えーっと、これはどうすべきなんだろう。
私はとりあえずこの先の空き教室に用があって、ここを通りたいんだけれども。
「……あ、あのーう」
とにかく、話してみなければどうにもならない。にじみ出ている美青年のオーラには気圧されてはならないのだ。
うむ、と自分に頷いてもう一度声をかける。
「あ、あの、すみません」
その私の声に、美青年はまたぴくりと肩を揺らす。しかし顔を上げるわけでもなく、またすぐに石を並べる手を動かし始めた。
……えーっと? これはつまりその、無視か、無視なのか?
さすがに私の声が聞こえていないということは無いだろう。ここまで徹底的に無視されたのは初めてだ。
どうしよう。帰ろうか。いや、でも、これだけ声をかけておいて帰る勇気はない。
「あ、あの、すみません!」
ぎゅっと手を握って、もう一度声をかける。
美青年の肩はまたぴくりと反応した。
「私そこの教室に用があって、ちょっと通りたいんですけど!」
自然と大きくなった自分の声が廊下に響く。捲し立てるように言って、美青年の出方を窺う。
私が口を噤んだことによって、またシンと静まり返った五号館の二階。
耳元で大きく脈打つ音が聞こえる。全身が心臓になったみたいだ。
この音が目の前の美青年にまで聞こえていそうで、余計に緊張する。背中に一筋の汗が流れるのを感じた。
仁王立ちしたまま、じっと美青年を見つめていれば、不意に揺れた彼の髪。
色素の薄い髪がサラッと空気中の光を弾く。
それに見とれた次の瞬間、私の視界はガラリと色を変えた。
「……わっ!」
ガッ、と全身に走った衝撃。視界いっぱいに広がる美青年。
私の両肩を掴む力は、儚げな美青年からは想像できないほど強い。
「え、ちょっと、あの……っ」
長く伸ばした前髪で隠れている私の目を覗き込むように、美青年は顔を近付けてくる。
色素の薄い髪と同じ色をした瞳は、とても澄んだ色をしていた。
しかしその色に見とれている暇はない。彼のその瞳に込められていた強い感情――困惑と怒りに、私は思わず息を呑んだ。
どういうこと、だろう。
私はただ、彼の奥にある空き教室に行きたいだけだというのに。
彼から向けられている感情はあまりにも強く、まるで私がここに来ることを拒絶しているような、そんな感じがする。
怯んで固まる私を気にも留めず、両肩を掴む力は弱まることを知らない。
私は頭から冷水をかけられたように、サッと血の気が引いていくのを感じた。
突然向けられた拒絶に、口の中の水分がなくなっていく。代わりにうっすらと涙が膜を張った。
「わ、わた、わわ私は、あの」
それでも何か言わなくては、と口を開いたときだった。
「…………、……っ」
ヒュウ、ヒュッ、ヒュウッと美青年の口から息が零れた。
「……え」
驚いて、瞬きをひとつ。じわりと膜を張っていた熱い涙が、瞼に一掃されて視界が鮮明になる。
私の目を覗き込むようにしていた美青年は、口を大きく動かして、私に何かを訴えていた。
「…………、……っ!」
しかし聞こえてくるのはヒュウ、ヒュッ、ヒュウッという息の音だけ。
訳が分からず、だからといって逃げ出すこともできず、両肩を強く掴まれたまま立ちすくむ。
こわい。こわい、嫌だ。やっぱり部活なんて無理だ。
友だちを作ろうだなんて、そんなことを少しでも考えてしまった自分に嫌気が差す。
どうせ上手くいくはずもないのに、どうして私はここに来てしまったんだろう。
ぐるぐる、ぐるぐる。自分自身を罵倒する声が頭の中を駆け巡る。
やっぱりいいですと言って、この場から去ろうか。しかし美青年はいまだ拘束する力を弱めておらず、ヒュウヒュウと息を吐き出している。
「……な、なに、何て言っているんです、か?」
その必死の訴えに、思わずそう問いかける。
すると美青年はハッとしたように目を見開き、少し固まったのち、私の肩を掴んでいた手を離した。
急に解放された私は思わず二歩ふらりと後ずさる。緊張と恐怖で膝の力が抜けていた。
美青年はそんな私を一瞥して、そのまま乱暴に空き教室のドアに手をかける。
その手がガラッと大きな音を立ててドアを開ければ、空気のこもっていた五号館の廊下を風が通り抜けていった。
そして。
「ちょっと真央くん、急にどうしたのよ?」
教室の中からハスキーな声が聞こえてくるのと、美青年がスケッチブックを持って私のところに戻ってきたのはほぼ同時だった。