そのままパイプ椅子から立ち上がり、鞄の中に入れていた携帯用の歯ブラシを取り出して水道へと向かう。

せっかくの酸味と甘さがもったいないような気がしたけれど、トランペットが腐敗するのを防ぐためにも歯磨きはしなければいけなかった。


シャコシャコと歯ブラシを動かしながら真央のスケッチブックを覗くと、そこに描かれていたのは今朝出て行ったばかりの部長の似顔絵で。

何だかんだしっかり描こうとしている姿に、ゆるゆると口角が上がった。


口を何度かゆすいで、タオルで口元を拭く。さっぱりした口の中を舌で確かめながら、葵はまた黒いケースの前に座った。

隣に味方がいてくれることを再度確認して、ゆっくりとケースを開ける。

中に入っていたシルバーのトランペットは半年以上吹いていない、でも手入れだけは入念にしてある“かつての相棒”。


そこに映る自分の顔が情けなく歪んでいて、わけもなく泣きそうになる。


自ら独りを選んだはずだったのに、吹奏楽部が練習している音を未練がましく聴いていた。

あのコンクールに戻れるのなら、今度は緊張なんかせずに完璧に吹ききってみせるのに。

何度も何度も、吹いてみようとした。

だけどいつだってあの十六小節が呼吸の邪魔をする。