聞きたいことがたくさんある。でも、話しかける勇気は持ち合わせていない。
そんな臆病な私は、米川さんの指がノートの上で遊ぶように動いているのを見るだけで、なんだか満足したような気になっていた。
「ねえ」
だから、そう。
「あたしの顔、何かついてる?」
こうして米川さんから話しかけてもらえるなんて、思ってもみなかったのだ。
四限目終了のチャイムが鳴ると同時に、教室から出て行った古典の先生を目で追っていた私の前に、塞がるようにして立った米川さん。私は鞄から取り出したお弁当箱を、危うく落としそうになった。
「え、あ、え、えっと」
早くここをどかないと、前の席の寺島さんの友だちが来てしまう。きっと今日も私の席を使うだろうから、私がいたら邪魔になるのに。
そう思うけれど、私は米川さんに話しかけてもらえたことで気が動転して、わたわたと両手を意味もなく動かす。
上手く目を見れなくて、咄嗟に前髪で隠そうと俯いたけれど、紫苑先輩から貰ったヘアピンがそれを阻止した。
「な、なん、どうして」
「さっきの時間やたらこっち見てなかった?」
バレてる……!
こっそり盗み見ていたつもりだったのに、米川さんはそれに気づいていたというのか。
うわあああ、と心の中で小さな私が絶叫する。実際の私はぽかんと口を開けたまま固まってしまった。
そんな私を不思議そうに見て、米川さんは再度首を傾げる。教室にいたクラスメイトたちは私たち二人が話している様子を、興味深そうに見ていた。
「ね、何かついてる?」
浮いている者同士の会話がそんなに珍しいのだろうか。いや、うん、珍しいのだろうな。教室中から遠慮なく向けられる視線が、ただただ好奇心に包まれている。
米川さんの顔をしっかり見たことはなかったけれど、こうして近くで見てみるとバッチリお化粧が施されていて、カラコンも入れているようだった。
明るい髪色とそのお化粧が米川さんを大人っぽく見せていて、余計に近寄りがたく感じるのかな、なんて。
私という人間はパニックになればなるほど、どこか冷静に分析する癖でもあるのだろうか。加工された大きな黒目がじっと私に向いていて、何か言わないと、と焦った私は口を開いた。
「ほ、……惚れました」
「は?」
あ、終わった。
◇
ものすごい勢いで部室のドアを開けた私を、鬱陶しそうに真央くんが見た。
でももうそれどころじゃないのだ。片手に持っていたお弁当箱を机の上に置きながら、私は今にも叫びたい気持ちを押さえて、うぐぐぐ、と唸った。
なんでだよ! 私はやっぱり馬鹿だなおい! お昼休み終わったらどんな顔して教室に行ったらいいんだ!
「はああああ……」
大きく溜め息を吐き出した。心臓がドクドクと鳴っている。
視界の端で真央くんが立ち上がる。ふわふわと色素の薄い髪を揺らしながら、項垂れる私の後ろを通り過ぎて、冷蔵庫を開ける音が聞こえた。
あのときの米川さんの驚いたような表情。教室中から向けられていた視線。サーッと顔から血の気がなくなって、考えるより先にスマホとお弁当を持って逃げ出した。
廊下での私の激走を見た人は、私の50mのタイムが10秒台だなんて思いもよらないだろう。
「真央くん……わたしゃもうだめだ……」
慰めの言葉が返ってくることは期待していない。でも吐き出さなければ、恥ずかしさでこの世から消滅してしまうような気がした。藁にも縋るような気持ちとは、こんな気持ちのことをいうのだろうか。
ぐでっと机の上に上半身を乗せて、真央くんのほうを向いた。
真央くんは至極面倒くさそうな顔をしながら冷蔵庫を閉じ、二人分のオレンジジュースを持ってきてくれる。思ってもみなかった優しさに涙が出そうだ。
どうやら話を聞いてくれる気はあるらしく、真央くんは私の隣のパイプ椅子に腰を下ろす。つい最近まで紫苑先輩の指定席だったところだ。
「この前、村瀬さんと三人でカフェ行ったとき、ジャズの生演奏見たでしょ? あれでね、トランペット吹いてたのが私のクラスの米川さんっていう人で」
初めの頃、真央くんに感じていた畏怖はどこへやら。私の口はペラペラと言葉を吐き出していく。
「すっごい心が揺さぶられたんだ。私もトランペット吹いてたけど、私が吹いてたのと全然違うものに聞こえて、楽しそうで、自由で、いいなあって思った」
さっき米川さんへ伝えた言葉は、あながち間違いではない。
惚れたんだ、あの楽しそうな演奏に。
「さっき教室で米川さんが話しかけてくれてね、こうやって言いたかったんだけど、でも、あの、……うがあああ」
恥ずかしさが舞い戻ってきて、思わず唸る。
そんな私を真央くんはじっと見ながら、グラスに口をつけた。こくり、音を立てながら動いた喉仏。
つられて私もだるだると身体を起こし、同じようにオレンジジュースを口に含む。喉を通っていく酸味が心地好くて、ごくごくとそのまま一気飲みした。プハッと言いながらグラスを置いた私に、お前本当に女か、と真央くんの冷たい視線が聞いてくるけれど気にしないでおこう。
「このあとどんな顔して教室行ったらいいのか分かんないや」
溜め息混じりにそう呟いて、お弁当の包みを広げる。ぱかっと蓋を開けると、今日は国民的キャラクターの電気ネズミがにっこりと笑っていた。
黄色い顔はオムライスのようで、丸く切ったニンジンで赤いほっぺたを表現している。相変わらず凝っているな、と思いながら手帳型のスマホケースを開き、撮った写真をお母さんに送った。
すぐさま既読がついて、嬉しそうなスタンプが送られてくる。私はそれを確認してスマホケースを閉じた。
「ちゃんと、話してみたいんだけどな」
そう言った私の隣で、真央くんが鉛筆を持った。利き手は左。スケッチブックの上をさらさらと滑る。
(話してみればいい)
ずいっと差し出されたスケッチブックには、シンプルにそれだけ書かれていた。
うん、そうだ。私が恐れずに話をすればいいことなんだけれど。
「でも私、話すの下手だし」
(だいぶ上手くなった)
「確かに真央くんたちとは毎日一緒にいるから、そう思ってもらえてるかもしれないけど、……」
でも、と続けた私を遮るように、真央くんが私に手を伸ばした。反射的に目を瞑れば、左のこめかみあたりに柔らかい圧迫を感じる。
真央くんが触れたのは、紫苑先輩からもらったヘアピンだった。
「……え」
どういう意味か分からず首を傾げた私に溜め息を吐いて、真央くんはまた左手を動かす。
(もっと自信を持て)
少し崩れたその文字は、まるで魔法みたいに、私の背中をそっと押した。
いつだったか、前にもこんなふうに真央くんに話を聞いてもらったことがある。
特に言葉をかけてくれるわけでもないのに、その隣にいるととても落ち着いて、話を聞いてもらうだけで心が軽くなるような気がするのだ。
そういえば、あのとき部室に入ってきた女の人は一体どうなったのだろう。
何となくの予想だけれど、あの人は真央くんのお母さんだと思う。
そして多分、真央くんが“死にかけ”になった理由もそこにあるのだろう。
ぼんやりとそんなことを考えながら、もう一度真央くんの顔を見る。
今にも消えそうな儚さを持った美青年は、私の視線に気づいてゆっくりとこちらを向く。
「……」
な、に。
ゆっくりとその口が動いた。
何でもない、と首を振って私はオムライスにスプーンを突き刺す。
「私、自信を持ってしまったら、この前日向先輩に言ったような、考えなしのひどいこと言うかもしれない」
(自分の気持ちを伝えるのは別に悪いことではない)
「……うん、そっか。そうだね、今度改めて米川さんとちゃんと話してみる」
それから。
「日向先輩のこと、誘えるかな。一緒に土曜日来てくださいって、言えるかな」
ぽつりと漏らした不安を消すように、オムライスを口に入れた。
卵とケチャップとご飯が絶妙に混ざったそれを、ゆっくりと飲みこむ。
(大丈夫)
他の文字に比べて大きく書かれたその三文字。
(俺もいる)
真央くんの声は、どんな色を持っているんだろう。
私はこのときはじめて、真央くんの声を聞いてみたいと思った。
◇
「なあ葵、土曜日って何かあんのか?」
放課後。色んな部活から洗濯物を回収して、部室に戻って来たタイミングで日向先輩は口を開いた。
空は綺麗な夕焼け色に染まっていて、部室の中までオレンジの光が差し込んでいる。
米川さんと話してみる、という決意とは裏腹に、お昼休みが終わるギリギリの時間まで部室で真央くんと過ごし、極力教室にいる時間を少なくした。放課後も逃げるように部室に戻って来た私を真央くんは咎めることもなく、また今度頑張れ、と背中を押してくれた。
でも、日向先輩を誘うのは、今日じゃないと駄目だった。こっちは逃げることができないことだった。
「ほら、土曜日まで晴れててほしいって日誌に書いてあったからさ! ちょっと気になってんだよ、もしかしてまたデートか!?」
俺は全力で応援するぞ、とノリノリの日向先輩は、てるてる坊主でも作っとくか、と棚の中段からコピー用紙を数枚取り出して机の上に置いた。
いつものパイプ椅子に座ってコピー用紙をぐしゃっと丸め始めた日向先輩。その姿を見て、一度大きく息を吸った私は、隣に立つ真央くんに視線を向けた。
真央くんはそんな私を見下ろして、ゆっくりと頷く。
そのとき揺れた色素の薄い髪は、夕日のオレンジを浴びてキラキラと光った。
私も同じように真央くんに頷き返す。そしてぎゅっと手を握って、日向先輩の向かいの席に腰を下ろした。