腰が抜けて動けない……怖くて声すら出せない。
そんな中、影宮さんが私の肩を掴んで前後に激しく揺さぶり始めたのだ。
「き、き、き、桐、桐山さん!」
ハッと我に返った私は、影宮さんの方を見ると……震える手で鏡を指差している?
咲良の血で赤く染まった鏡なんて見たくないと思いながらも、そちらに目を向けると……。
真っ赤な鏡の中から、目を見開いて鏡に張り付き、咲良の遺体を見ている女性の姿があったのだ。
「いやっ、いや、いやあああっ!!」
背筋が凍り付くほどの悪寒に、私は悲鳴を上げて廊下まで後退りした。
な、何なの今の!
鏡の中に人がいたような気がした!
いや、違う!
影宮さんも見たんだから、気がしたわけじゃない!
「ん?なんだ?……って、お前、それ血か!?」
「きゃーっ!!」
咲良の血を浴びて、顔や制服が赤くなっている私を見て、廊下にいた生徒達が騒ぎ始めた。
「き、桐山さん……ど、どうしよう!」
どうしようって言ったって……咲良が首を切り落とされた。
鏡の中に誰かがいる。
そして私達は血塗れで。
どこまでを信じてくれるかなんて、パニックになってる私でもわかった。
あれから、警察が来て学校中が大騒ぎになった。
片桐さんが死んだ翌日に、今度は学校で咲良が死んでしまったのだから。
それも、首を切られるという同じ殺され方で。
保健室で休んでいた私達の所に、刑事さんらしき人がやってきたけど……私達が咲良を殺す動機も、殺せるような凶器も見付からなかったということで、後でまた警察に行く事になった。
パニックに陥りながらも、起こった事を全て話したけど、どこまで信じてくれたのか。
きっと、頭がおかしいとでも思われたかもしれない。
そして、保健室に二人。
「桐山さん……見たよね?あれ」
影宮さんの言葉に、ビクッと身体が反応する。
見た……と言いたくない。
あの存在を認めたくない。
あれが一体何なのか分からないから、何をどう理解すれば良いのか。
「血が……人の顔に見えただけだよ。鏡の中に人がいるはずなんてないじゃない……」
そうは言ったものの、あれがそんなものではないという事は分かっていた。
だけど……。
「知ってるんでしょ?鏡の中のナニかの話」
そう言われて、私はもう一度鏡の中の顔を思い出した。
鏡の中のナニかに気付いてはならない。
ナニかに気付いた事を気付かれてはならない……。
あの時、鏡の中の顔は、咲良を見ていたはず。
私達はあれに気付いてしまったけど、あれは私達を見ていなかった……と思う。
「そう言えば、咲良は鏡越しに私達以外に誰かいるって言ってたよね……もしかして、ナニかに気付いたから」
「うん……きっと気付かれてしまったから……」
だから、片桐さんもブツブツ呟いていたんだ。
そしてきっと……自宅で鏡を見てナニかに殺された?
だけど、この学校の怪談なのに家で殺されるの?
いや、それよりも……怪談話が現実のものになるだなんて。
何年前かに起こった事件も、今回と同様の事が起こったのだろうか。
てっきり、先輩達が作った、怖がらせるだけの物かと思ってたのに。
「桐山さん、私達も気を付けないとね」
ボソッと呟いた影宮さんの言葉に、私は首を傾げた。
「私達は多分気付かれてないよね?」
だったら、大丈夫なんじゃないの?
そう思っていたけど……。
「本当にそう言える?ナニかがいる事を知ってしまったのよ?次にナニかが現れて……気付かないフリが出来る?」
咲良が死んでショックを受けているのに、影宮さんの言葉は、追い打ちのように私に襲い掛かった。
鏡の中のナニか……。
この後、本当の恐怖が襲って来る事を知らずに、私達はただ不安になっているだけだった。
午後20時過ぎ、警察での事情聴取が終わり、お母さんに迎えに来てもらった私は、家に着くなり自分の部屋にこもり、ベッドに横になった。
テーブルの上に置かれている鏡を伏せて、見えないようにしてから。
咲良が死んだ……高校に入って最初に出来た友達で、一番仲が良かったのに。
悲しいはずなのに、まだ死んだなんて信じられなくて涙が出ない。
唐突に訪れた死。
残虐な死。
そして鏡の中のナニか。
あまりにわけのわからない事が起こりすぎて、頭の中が整理出来ていない。
「ナニかに気付いたのに、気付かないフリが出来るか……かぁ」
もしもあの時、咲良が影宮さんより先に手を洗わなかったらどうなっていたんだろう。
影宮さんがナニかに気付いて、死んでいた?
それとも、影宮さんは気付かないフリをしたのかな。
何にしても、今までただの作り話だと思っていた怪談が、入学して二年目で現実のものになってしまった。
私はどうすれば良いんだろう……。
咲良を失って悲しいのに、涙は出ない。
ナニかを見てしまって不安なのに、まだ大丈夫と思っている部分がある。
どの感情も中途半端で、何一つとして実感が湧かないままだった。
それからしばらくして、私のスマホがブルブルと震え始めた。
警察署に行っていたから、マナーモードにしていたのを忘れていたけど、流石にこの状況で震えるとびっくりする。
誰からだろうと思って画面を見てみると……。
「紫藤京介」
ゲーセンで遊んでて、今帰ったのかな。
その程度にしか思わずに、私は電話に出た。
「何?今話す……」
『おい、菜月!雪村が死んだってマジかよ!』
今は話す気分じゃないって言おうとしたのに……京介はいつもこうだよ。
「知ってるんだったら私にきかなくても良いじゃない。今、気分が悪いから切るよ」
『いや、待て!お前は……大丈夫だったのか?怪我はないか?』
「……怪我はないけどさ。目の前で咲良が死んだんだよ。そっとしておいてよ」
それだけ言うと、私はスマホを耳から離して終了ボタンに指を置いた。
『菜月!ちょっ……』
その声が遮られるように通話が切れ、ホーム画面に戻した時、私の目に飛び込んできたものは……。
メッセージアプリにあった、19件のメッセージ受信だった。
「じゅ……19?」
その数に、ゾワッと頬を撫でられるような感覚に襲われた。
一体誰がこんなに……と、そう思いながら、恐る恐るメッセージアプリを開くと……。
「影」と書かれた人物から、19件全部のメッセージが送られて来ていたのだ。
影って言うと……影宮さん?
多分そうだと、少し安心してメッセージを開いてみると。
『桐山さん、鏡は見ないで!』
『気付かれてないはずだけど、ナニかが見える!』
『私達が気付いた事を確かめようとしてるのかもしれない!』
『ダメ!どこにいても追ってくる!』
『明日まで生きられるかどうか』
『窓ガラスとか水なんかは大丈夫みたい』
『次は私が殺される!』
「な、何よこれ……」
19件のうち、殆どがパニックになって送ったであろうものだったけど、7件は影宮さんの必死さが伝わって来る。
次は私が殺される……。
大丈夫だと思っていたのに、影宮さんにナニかが迫ってるの?
だとしたら、あの場にいた私の所に来てもおかしくない。
そう考えると……もうすでに、この部屋の中にいそうで、ゾクゾクと、嫌な悪寒に背筋を撫でられた。
影宮さんからの最後のメッセージがあったのは13分前。
丁度家に帰っている時。
私よりも先に家に帰って、ナニかを見てしまったんだ。
「影宮さん……大丈夫だよね?」
言いようのない不安に襲われて、「大丈夫!?」とメッセージを送ってみるけど……それに既読の文字が付かない。
もしかするともう……。
ダメだ、あんな事があったから、悪い事ばかり考えてしまうよ。
人の心配よりも……自分の心配をしなきゃいけないのに。
保健室で影宮さんに言われた言葉が重くのしかかる。
鏡の中にナニかがいると知ってしまったのに、気付かないフリなんて出来るのか。
今でさえ意識的に鏡を見るのを避けているのに、万が一、鏡を見た時にナニかが映っていたら。
私は、気付いていないフリなんて出来る自信がないよ。
もういっそ、眠ってしまおうかとも思ったけど、お腹も空いたしお風呂にも入っていない。
布団の上に落ちた、赤い粉……固まった咲良の血を見て、お風呂には入りたいと思った。
だけど……お風呂場にはもちろん、脱衣所にも鏡はある。
そこにナニかが現れたらと思うと、部屋から動きたくはなかった。
なんて考えていても、このまま永遠にお風呂に入らない事なんて出来やしない。
鏡の中の異変に気付かなければ、多分どうにかなるって事でしょ?
本当に、ナニかが影宮さんの方にいると言うのなら、私の所には来ないかもしれないよね。
だから……影宮さんには悪いけど、お風呂に入るなら今しかない。
部屋を出て、廊下を歩いて階段。
そこを下りると……正面に見える脱衣所の洗面台の鏡。
よりによってドアが開いていて、私を待ち構えているかのよう。
普段なら何も思わないのに……暗闇の中に浮かび上がる、鏡に映った私の姿が妙に不気味に感じる。
あれは……本当に私なのだろうか?
見慣れている自分の姿でさえ、私ではない別のナニかに思えてしまう。
私の顔が別の人になっているかも。
脱衣所に入ったら、閉じ込められてナニかが手を伸ばしてくるかも。
ダメだ、悪い事ばかり考えるのはやめよう。
今まで悪い事を考えて、実際にそんな事が起こった事なんてないから大丈夫。
自分にそう言い聞かせ、脱衣所の電気のスイッチを押して……。
覚悟を決めて顔を上げた。
するとそこには……。
……顔に血が付着している私が映っているだけ。
ナニかではなかったけど、改めてその姿を見ると少し怖い。
普段見慣れない姿が映るのがこんなに不気味だなんて。
「……早く入ろう」
ブルッと、小さく身震いをして制服を脱ぎ始めた。
今頃、影宮さんはどうしているんだろう。
影宮さんは、咲良が死んだ時にナニかに気付かれたかもしれないけど、私はまだ気付かれてはいないと思う。
確かにそれを見たけど……ナニかは咲良の遺体を見ていたから。
制服を脱ぎ、洗濯カゴに入れた私は、フウっと溜め息を吐いて風呂のドアを開けようと振り返った。
え?
ドアノブを掴む手が震える。
振り返ったその時に……視界に入ってしまった鏡。
その中に、私じゃない誰かがいたように思えたから。
大丈夫だと言い聞かせていた私に襲い掛かる激しい悪寒。
何がそこに映っているのか気になる。
その姿を確認して、見間違いだったと安心したい。
だけど……もしもそれが、私を追って来たナニかだったら。
時間にしてほんの一瞬。
覚悟を決めた私は……。