勝手にチャンネル替えんなよ。

・・・

やっぱり待ち合わせで先輩には勝てない。どこまでも広がる真っ白のなかで佇む彼はきれいで、うちの学校の王子にも引けを取らないんじゃないかと思うのは、さすがに彼女のひいき目ですか。

雪のなかでも短いスカートのあたしを見るなり、彼は「見てるだけでさみい」と言う。いや、平気な顔してるけど、実はもう感覚がないくらいには冷たいんだ。


「……あの、健悟さん」

「ん?」

「あの……」


会うなり本題に入るのはどうかと思ったけれど、こういうことは早く言ってしまったほうがいいような気がした。早く言ってしまわなければ、きっともっと言えなくなる。

嫌だよ。言えないまま、なんとなく東京に行って、なんとなく不安が募って、なんとなくダメになってしまうなんて。

つながっている手をぎゅっと握り直すと、先輩は心配そうにあたしの顔を覗きこんだ。


「……晶? どうした?」


どうして駅ってのはこんなにも人がたくさんいるんだろう。この雑踏と雪のせいで、先輩の声が耳に届かないし、その優しい顔が見えない。

それでも指先から伝わる温もりに安心できるのに、春からこれすらも無くなってしまうのかと思うと。もう、耐えられないよ。


「健悟さんは……離れるの、こわくないですか?」

「晶……?」

「……あたしが東京行っちゃっても、平気なんですか……?」


視界は恐ろしいほど真っ白だ。

彼の顔を見上げることはできなかった。真っ直ぐな瞳をした王子を思い出して、こんな自分が嫌になった。情けない。


「……平気だよ」


先輩が白い息と一緒にそうこぼした。そして、いつもと同じように笑った。


「S大つったらすげえとこだし、晶の可能性も広がると思う。俺、すげえ応援してんだぞ?」


そうだけど、そうじゃない。欲しかった言葉はそれじゃなかった。

応援しているなんて、本当に思ってくれていたとしても、言ってほしくなかったよ。女は面倒な生き物なんだ。


「淋しいのはあたしだけですか……?」

「そんなこと言ってねえじゃん」

「言ってるよっ」


先輩は優しいから、引き止めるなんてことはきっとしないだろうなって。そんなの分かってはいたけれど、少しくらいそういう素振りを見せてくれたっていいじゃんか。

優しすぎて不安になる。本当の気持ちが分からない。心に触れられない。

嘘だなんて思っていないよ。先輩も、ちゃんとあたしを好きでいてくれているということ。綾さんだって保証してくれた。


でも、だからこそ。

ちゃんとぶつかり合って、話し合って。そうやって100%の安心を与えられたいし、与えたいんだよ。もっと分かり合うために、分かり合えないことをふたりで泣きたいんだ。


「……あたし、このまま東京行くの、嫌です……」

「なに言って……」

「嫌ですっ!!」


手を離したのはあたしのほう。とたん、指先が急に冷え込んで、鼻の奥のほうがつんとした。





「これもいる」

どんどん荷物が

増えていく


 6.余計なもんは捨てろよ。




右脚が復活してからの毎日はとても忙しかった。部活、部活、アンド部活。おかげで後期の中間テストはぼろぼろで、終わってみれば再試が3つもあった。

テスト翌日から始まる、恒例の放課後日替わり再試。俺は、そのなかの数学ふたつと英語に、だいたい毎回いる。


「あー疲れた……死ぬ……」


どうして走ってばかりの部活より、ただ座っているだけの勉強のほうが疲れるんだろう。

帰るなりソファに倒れ込んだ俺に、母さんが「制服のまま寝ないでよ」と声をかける。


「どうだったの、再試は」

「……びみょー」

「ええ? だからお母さん言ったでしょ、無理して晶と同じ高校になんか行かなくていいって。入ってからがつらいんだから」


べつに晶がいるから西高に入ったわけじゃねえけどな。俺がこの高校を選んだのは、ほかでもない、日和さんがいたからだ。

でもそういやそうだったか。受験のときは晶を理由にしたんだっけな。姉ちゃんがいると楽だから西高に行きたいとか、テキトーなこと言って。


「晶と同じもん食って同じとこで寝てんのに、なーんで俺だけこんなに馬鹿なのかなー」

「それは頭の構造がお母さんに似たからでしょ」

「たしかになー。そうだよなー」

「ちょっと燿。ちょっとは否定しなさいよ」


ばりばりの銀行マンの親父と、名門大学にさらりと合格した姉。ふたりは本当によく似ている。母さんと俺が似ているのと同じくらいに。

疲れた身体を引きずりながらメシを食って、風呂のなかで再試の記憶をすべて浄化した。うっかり湯船で寝てしまいそうになった。相当疲れている。やっぱり頭使うのは慣れねえわ。

どうしてだろう。バスケだって、なにも考えずにやってるわけじゃねえのにな。ガードは頭使うんだ。

それでもやっぱり数学だけは本当に無理だ。あいつとはソリが合わない。サインコサインタンジェントなんて、これからの人生で絶対使わねーよ。

いや、しかし。こんなことばかり言っていて、果たして俺は春から受験生をまっとうできるのか。


ドライヤーをかけ、歯磨きを終えるころには、すでに俺の両目は半分ずつしか開いていなかった。さっさと寝てしまおう。

そういえば晶の姿が見えなかったけれど、あいつはもう寝てんのかな。いいな。晶はすでに受験終わってんだもんなあ。


電気を消して、ベッドに潜り込んだ。意識が遠ざかっていく気持ちよさに身体をゆだねていると、ふと、壁越しに、変な声が聴こえた。


「なんだよ……?」


声というか、鼻をすする音に近い。暗闇のなかで聴くそれはなかなか不気味で、思わず起き上がって電気を点ける。

晶の部屋に隣接している壁に耳を押し当てた。


姉が泣いていた。たぶん、確実に。あいつが泣いているところなんかほぼ見たことがないから、にわかには信じがたいけれど。それでも、たしかにあいつは隣の部屋で泣いていると思う。

……なんかあったのかな。あの晶が泣くほどのことが。

放っておきたいのはやまやまだ。もう寝てしまいたかった。それくらいには眠たかったし、晶もきっと泣き顔なんか見られたくないだろう。

でも、なんとなく、無視する気にはなれなくて。

余計なお世話だとは思う。でも、滅多に泣かない晶がいまひとりぼっちで泣いている。そう思うと、居ても立っても居られねえよ。だって俺、弟だもん。


「――晶?」


ノックはしなかった。いつもは忘れるだけなんだけど、今回はわざとだ。


「ひっ、ひか……!?」

「夜中にずびずびうるせーよ」


どうして憎まれ口しか叩けないんだろうと、自分でも嫌になる。

晶はベッドの隅で膝を抱え込んでいた。涙に濡れた頬が姉の顔にはあまりにミスマッチで、上手く言えないが、なんつーか、すげえ気持ち悪かった。


「いや、え、ちょ、待……」

「なんかあったんだろ?」

「いやいや……いきなり入ってきて、あんたね」


顔面はもうごまかしきれないほどびしょびしょのくせに、晶は急いで涙を拭う。

それでもあとからあとからあふれるそれを止めることはできず、彼女は途中で諦めたのか、開き直ってわんわん泣いた。子どもかよ。


「見んなばかっ。どっか行け!」

「やだ」


だって俺がいまどっか行ったら、またこいつはひとりぼっちで泣くんだ。晶はそういうやつだってこと、俺がいちばんよく知っている。

ベッドに腰かけた。すると、30センチ右にある細っこい手が伸びてきて、俺の肩をぐいぐい押しのけた。


「……かる」

「は?」

「ひかるう……っ」


やっていることと言っていることがちぐはぐなんだから困る。返事の代わりにぼりぼり頭を掻くと、変な沈黙が落ちた。

晶は相変わらず泣いている。俺の肩を押しのけながら。困った姉ちゃんだ。


「……健悟さんとなんかあった?」

「な……なんで分かんだよっ」

「そりゃおまえ。むしろ晶の悩みのタネっつったらそれしかねーわ」


晶は俺にとってずっと、世界でいちばん目ざわりで、こわい存在だった。なにがってわけじゃないが、いつもなんとなく、姉の全部が鬱陶しかった。

高圧的でふてぶてしい、神経質で口うるさい。晶はいつだって、俺の前では姉でいて。いい意味でも、悪い意味でも、完璧に姉をしていて。


それなのに。そんな姉貴が、いまは女の顔をしている。


「……どうしたんだよ。話せよ」

「燿のくせに優しくしてんじゃねーよハゲっ」

「ハゲてねーよデブ」


健悟さんと再会してから。健悟さんに恋をしてから。健悟さんと付き合ってから。晶は別人のように、急激に女の子になり始めたように思う。

健悟さんのことはそりゃもちろん大好きだけど、やっぱりそれなりに悔しいよ。だって俺、晶のこんな顔、17年間で一度も見たことがなかったんだ。

ふたりのつながりだって、もともとは俺の存在があってこそのものなのに。いまではもう俺なんか蚊帳の外で、ふたりの世界って感じだもんな。嫌になる。

同時に、こんなことを思う自分も、嫌になる。


「……あたし、東京、行かない」


晶が信じられない言葉を放った。


「は? マジで言ってんの? S大蹴るのかよ?」

「うん……こっちの大学受け直す。センターはいちおう申し込んであるし……」

「いやいや。そういうことじゃねーだろ。まさか健悟さんと離れたくないからとか言わねーよな?」


そう問うと、その目はばつが悪そうに伏せられて、そのくちびるは言葉に詰まった。どうやら図星らしい。

我が姉ながら、これはちょっとひどすぎる。


「だ……だっせ……」

「はあ!? こっちは真剣に悩んでんのに……!」

「いやおまえ、それはさすがにだせーよ」


もし自分の彼女がこんなことを言いだしたらと思うだけで、正直ゾッとする。

たしかに、晶の離れたくないって気持ちはよく分かる。俺だって好きなやつとはそりゃ一緒にいたいし、実際いざ離れるとなればきっと想像以上に淋しんだろう。健悟さんだって同じだと思う。

でも、男としてはさ。そこはやっぱり笑顔で「行ってこい」って言ってやりたいところなんだよ。間違っても「行くなよ」なんて、口が裂けても言えねーよ。かっこわりいじゃん。

晶はちょっと男心ってもんが分かってなさすぎる。


「健悟さんはなんて言ってんの」

「『応援してる』って……」


ほらな。

晶はいったいなにが気に入らないのだろう。なにをそんなに泣いてんだろう。


「でもさあ、先輩は全然淋しそうじゃないんだよ。あっさり笑顔でそう言ったんだよ。なにそれって感じじゃん……」

「あー」

「もしそれが本心ならそれはそれで嫌だし、本心じゃないとしても嫌だしさあ……! なんなんだろう!!」

「あー」


頭が良いやつってのは面倒くさい。そんなに深く考える必要ないんじゃねーかと思うのは俺だけだろうか。素直に「ありがとう」って言っとけばいいのになあ。

男と女とでは感性が違うのかな。まあ、脳の作りも違うって言うしな。

それにしたって面倒くせーよ。彼女にこんなこと言われたら喧嘩になる自信あるわ。


「ちょっとあんた聞いてんの」

「聞いてんじゃん」

「ずかずか勝手に乗り込んできたかと思えばその態度! なにそれ!!」

「なんで俺が怒られてんだよ……」


よくこんな女に付き合っていられるなと、ちょっと健悟さんに同情した。姉が本当にお世話になってます。ほんとすいません。


「おまえさあ。仮にこっち残ったとしても、そんなんだったら続くもんも続かねーぞ?」

「……じゃあどうしたらいいの」

「健悟さんを信じて東京行けよ」


……で、黙るのか。やっぱり腑に落ちないらしい。

俺は晶に比べたら相当馬鹿だし、男だから、こいつの気持ちなんか全然分かんねーな。健悟さんの気持ちのほうがよっぽど分かるよ。