先生、近づいても、いいですか。

しばらくして、また、カランコロンと鐘が鳴りました。






「いらっしゃいませ」







振り向いた私は、思わず動きを止めてしまいました。





戸口に立っていたのは、藤森先生だったのです。




はじめ、先生は、私のほうを見向きもせず、店内に目を走らせたのですが、空席に向かって歩きながら私に気づいて、「あ」と声を上げました。






私は「こんばんは」と言いましたが、驚きと緊張のせいか、いつにも増して声が消え入りそうに掠れてしまいました。






「………春川?」






先生が目を丸くして、私の顔をじっと見ています。





もしかして、他人の空似と思っているのかもしれません。






「はい………」






私は、もっと色々説明などをしたほうがいいと思いましたが、やっぱり言葉がうまく出てきてくれません。





先生は、さっきまでの少し疲れた顔から、さっと笑顔に変わりました。






「春川、お前、ここで働いてたのか」





「はい」





「そっか。俺、よくこの店来てるんだけど、全然気づかなかったな……」





「あの……先月から、なので………」





「あ、そうか。最近始めたんだな。ここのコーヒー、美味いよな」





「はい………」






私は、本当のところ、コーヒーの味はまだ分からないのですが、先生の話に合わせたくて、こくりと頷きました。






先生はしばらくの間、どこか困ったように眉を下げた笑顔で私を見下ろしていましたが、





「あの席、いいか?」





と私に確かめて、席に着きました。




私は急いでグラスにお水を注ぎ、先生のところに持っていきます。





なぜだかとても緊張して、テーブルに置くとき、手が小さく震えてしまいました。




なんとか零さずに置くことができましたが、先生が気づいていたらどうしよう、と思うと、息苦しいような気持ちになりました。





先生はチキンカレーを頼み、ゆっくりと味わうように食べて、食後のホットコーヒーをおいしそうに飲み、「じゃあ」と帰って行きました。






先生が出て行ったあと、私はほっと息を吐き出しました。






『春川について3』







ーーー今日は、驚いた。




仕事を終えて、夜9時近く、いつもの喫茶店で夕食をとろうと思ったら。



そこに、あの春川がいたのだ。





予想だにしなかった状況に、俺は一瞬、完全に魂が抜けてしまった。





なんとか自分を取り戻して、教師らしい対応をすることができた(と思う)が。





春川が相変わらず静かな声で言葉少なに答えるのを見ていると、すごく落ち着かない気分になってしまった。






俺はどうして、春川を前にすると、いつもの仮面を被っていられなくなるんだろう?





なんだか春川は、生徒という感じがしなくて、 一人の大人と向き合っているような気がしてしまうのだ。






居心地の悪さを隠すように、わざとゆっくり食事をして、食後のコーヒーも飲んで、俺は店を出た。




本当は、春川の視線が気になって、味わうどころじゃなかったんだが。





店を出る時に気づいたが、春川はまだ店に残るようだった。




すでに9時は大幅に回っていた。




たぶん、閉店の10時までシフトに入っているのだろう。






女子高生のバイトにしては、帰りが遅くなりすぎるよな………。




気にはなったが、指導するわけにもいかないしな。





働く春川の姿を見ていて思い出したのだが、春川は確かに、学校にアルバイトの希望を出していて、生徒指導部と学年団での会議の末、承認されたのだ。





だから、アルバイトについて俺が口出しするのも変な話なのである。







理由は何だったか……。




会議のときには、名前を聞いてもぴんとこなかったので、正直なにも覚えていない。





特に春川のことを認識していなかったし、顔も記憶にないくらい距離感のある生徒だったから。





つくづく俺は、適当な教員だと思う。






担任しているクラスの学級経営や、授業のための教材研究、生徒指導関係の会議や資料作成。




そういった山積みになっている仕事をこなすのに精一杯で、正直、自分のクラスでもない生徒の個別の事情にまで気を回す余裕もない。






ただ、接点を持ったからには、やっぱり気にはなる。




あんなにか弱くて体力もなさそうで、しかも世間慣れしていない感じの春川が、あんな遅くまで駅裏でアルバイトなんて………大丈夫なんだろうか?






翌朝、職員室に入った俺は、向かいの席に座っている倉田先生に声をかけた。






「倉田先生、おはようございます」





「おはよう、藤森さん」






倉田先生は人の好さそうな笑顔で応えてくれた。



生徒たちから『おじいちゃん』なんて呼ばれつつも、優しい笑顔で慕われている先生である。




春川彩香のクラスの担任だ。







「あの、ちょっと伺いたいことがあるんですが」





「はいはい? いいですよ」





「先生のクラスの、春川のことなんですけど」





「うん? 春川……彩香さん?」





「そうです」







俺は頷いて、昨日駅裏の喫茶店でアルバイトする春川に偶然出会ったことを話した。






「あぁ、そうだね。そうか、駅裏にある店だったんだ」





「ええ。あの……理由とかって、訊いても大丈夫ですか?」






恥ずかしながら、俺は会議のとき上の空だったので、春川がアルバイトをする理由を聞いたはずが、記憶に残っていなかった。





倉田先生が少し不思議そうに頷き、アルバイト許可申請の書類を取り出して、見せてくれる。







「春川さんちね、お父さんが十年前に亡くなってるんだって。

お母さんがパートで働いてるけど、それだけだとギリギリだし、大学に進学するために貯金しておきたいからって」






「………そうでしたね」







頷きながら、昨日の春川の様子を思い出す。





必死で声を張り上げて(それでも普通の人よりずっと小さい声だが)、慣れない手つきでカップや皿をテーブルに置いていた。




それが、将来の学費のため……



………なんというか、本当に、現代の女子高生とは思えないやつだ。













午後9時20分。



今日もこんな時間になってしまった。




パソコンにかじりついていたせいで、肩から背中にかけてが凝り固まっている。




校門を出て駅に向かいながら、俺は両腕を上げて伸びをした。





改札に入ろうとして、ふと足が止まってしまう。






「……………」







ーーーー深入りする必要は、ない。



むしろ、深入りしないほうがいい。





もう高校生なんだから、自分の判断で行動しているんだ。




いくら教師だからって、ちゃんと手続きを踏んでやっていることに対して、俺が口を出すべきじゃない。





「教師としての考え方」をもとに考えると、そういう答えが出た。







…………それなのに。






気がついたら、俺の足は、改札を素通りして、裏口に向かっていた。