戸惑い、辟易している俺の思いを知ってか知らずか、春川の顔色は全く変わらない。
―――ほんとに、人形みたいなやつだ。
春川はいつも表情が乏しく、ごくたまに口を開いても事務的なことを言うばかりで、何を考えているのかさっぱり分からない。
クラス担任の倉田先生も、春川とはほとんど会話したことがないらしい。
面談で5分ほど話しただけで、それも春川が「はい」とか「いえ」とか「そうです」とか、短い相づちを打つばかりだったという。
クラスメイトたちと談笑しているようなところも、一度も見たことがなかった。
休み時間も、立ち上がってわいわいと騒いでいる生徒たちの中で、ひとり静かに席につき、ひっそりと本を読んでいる。
だからといって、いじめられているとか、無視されているとか、そういう問題があるわけでもないようだが。
クラスに好意的に受け入れられているのは、なんとなく伝わってくる。
それにしても、こんなに大人しい生徒は、女子にしては珍しい。
この年頃の女の子なんて、みんな考えるよりも先に言葉が飛び出しているとしか思えないくらい、きゃぴきゃぴと喋ってばかりいるものなのに。
春川は、考えていることの10分の1も口には出していない、という気がする………
「先生」
「………あ、えっ」
唐突に言われ、俺は、自分が春川をじっと眺めながら、無言で考えを巡らせていたことに気づいた。
やばい、表情筋が緩みきっていた気がする。
俺はすぐに自分を取り戻し、生徒に対していつも向けている、大らかで明るい笑みを作った。
その瞬間。
ーーーふ、と、春川の能面みたいに白い顔が、綻んだ。
硬かった蕾が、そっと花開くように。
冷たい雪が、すっと解けるように。
俺は驚いて、目を瞠る。
春川は穏やかな、控えめな、ごく微かな笑みを浮かべて、俺を見上げていた。
その微笑みは、すぐに消えて。
「………委員の子が、今日もお休みだったので……」
校内のざわめきに消えてしまいそうな小さな声で囁き、春川は一枚の紙を俺に差し出してきた。
「………ん。ありがとな、おつかれさん」
俺は小さく頷き、それを受け取った。
春川はぺこりと頭を下げて、踵を返すと、足音も立てずに教室棟のほうに帰っていった。
ーーーやっぱり、不思議な雰囲気をもった生徒だ。
俺は小さな華奢な後ろ姿をしばらく見送ってから、職員室へと戻った。
『藤森先生観察日記2』
◇
今日は、体育祭がありました。
普段の授業のときより、集合時間が早かったので、遅れてはいけないと思って、私はいつもよりも早めに登校しました。
校門をくぐると、グラウンドが見えます。
テントが建てられていて、体育科の先生たちが、ライン引きをしていました。
先生たちは、私たちの体育祭のために、私たちよりも早く出勤して、準備をしてくれているのだな、と思いました。
私は勉強も得意ではありませんが、運動はもっともっと苦手です。
だから、体育祭のときはいつも、少し憂鬱な気分になってしまいます。
ですが、こういうふうに働いてくださっている先生たちを見ると、私なりに一生懸命がんばって、精一杯楽しもうという気持ちになりました。
更衣室で体操服に着替えて教室棟に行きました。
まだ、生徒の姿はほとんどありません。
私のクラスの教室にも、まだ誰も来ていませんでした。
ひんやりと静まり返った教室で、自分の席に座り、私は読みかけの本を取り出しました。
しばらく夢中になって読んでいると、廊下の方から、ぱた、ぱたという足音が聞こえて来ました。
生徒用のスリッパとは少し違う音だったので、誰か先生が来たのだろう、と思いました。
足音が近づいて来たところで、私は顔を上げ、廊下側の窓を見ました。
現れたのは、藤森先生でした。
先生は、私の視線を感じたのか、ちらりとこちらに目を向けました。
そして、なぜか一瞬、動きを止めてから、
「………おう、春川。早いな」
いつもの笑顔に、ぱっと変わりました。
私は開いたままの本を机に伏せ、「おはようございます」と挨拶をしました。
先生は少し躊躇うような素振りを見せたあと、教室の中に入ってきました。
「いつもこんなに早く来てるのか?」
「あ、はい……」
もっとたくさん言葉を出したかったのですが、口下手な私は、それきり何も言えず、少し俯きました。
先生は、すこし困ったように頭を掻いたあと、
「………俺は、教室の見回り。
えーと、ここのクラスは、何も問題ないな?」
「あ、はい………」
先生は、「じゃ、オッケーだな」と頷いて、教室を出て行きました。
………本当は、もっとお話したかったんだけど。
私はいつも、うまく喋ることができなくて。
そんな自分に、呆れてしまいます。
再び本を手にとり、ぼんやりと黒板の上の時計を見ていると、8時が近づいてきたころから、クラスメイトたちがちらほらとやって来ました。
みんな、体育祭が楽しみなようで、仲良しの子たちと集まって楽しげにお喋りをしています。
うつむいて本を読んでいると、誰かが私の席に近づいてくる気配がありました。
「おっはよー、春川さん」
にこにこと声をかけてきたのは、いつもクラスの中心にいる、活発で明るい中西さんでした。
私は顔を上げ、「おはよう」と答えました。
声が小さすぎたかな、と不安になりましたが、中西さんは気にする様子もなく、笑顔のまま私を見つめています。
「春川さん、おだんごしてこなかったんだ?」
中西さんがそんなことを訊ねてきたのには、理由があります。
クラスの中でも目立つ、元気な女子たちのグループが、今日の体育祭を「おだんごデーにしよう!」と言っていたのです。
私ももちろんそのことは知っていたのですが、いつもと違う髪型をするのは恥ずかしいような気がして、結局そのままで登校しました。
「………あの、髪が、短いから……」
私がそう答えると、中西さんは「そっかー、ざんねーん」と言いながら、仲良しグループのところに帰って行きました。
私は昔から、中西さんのような華やかで明るい女の子と話すとき、どきどきしてしまいます。
地味で暗い私のことを、不快に思っているんじゃないかな、と不安になるから。
でも、このクラスの子たちは、私にも分け隔てなく接してくれるので、嬉しくなります。
◇
グラウンド集合の時刻が近づいてくると、みんなが次々に立ち上がり、教室を出て行きます。
女の子たちは日焼け止めを塗るのに忙しいようで、すこし遅れ気味です。
私は肌が弱く、陽に当たるとすぐ真っ赤になってしまうので、日焼け止めは欠かせませんが、更衣のときに塗ってあったので、早めに教室を出ました。
ぱらぱらと生徒が整列を始めているグラウンドに行き、自分のクラスの列に並びます。
藤森先生は二年生の列の前のほうで、他のクラスの先生と談笑していました。
年配の先生たちと喋っているときの顔は、生徒に対するときとはまた違います。
背筋がぴんと伸びていて、表情も穏やかな笑顔でした。
社会人の顔だな、と私は思いました。