窓からの景色に目をやる。
さっきの海を思い出して、胸がざわつく。
この気持ち・・・。
『ちょっと、聞こえてるの?』
「あ、うん。こっちは暑いよ。お姉ちゃんも真っ黒になるくらい」
『で、あの子帰ってくるって?』
やっぱ、そうくるよね。
「え?ああ・・・、まだ聞いてないんだ」
『・・・そう』
怒られるかと思ったけど、意外にも簡単にお母さんは引き下がった。
“緊急事態”の内容を聞かれないうちに話を変えないと。
「お父さんは?」
『お父さん、すっかり信じちゃってるから話合わせるの大変よ。お願いだから、外国のおみやげなんて買ってこないでよ』
そうだった、いとこの家に行ってることになってるんだった。
私は肝に銘じてうなずいた。
しばらく話していると、隣の部屋の扉が開く音が聞こえた。
「お姉ちゃん帰ってきたみたい。早番だって言ってたけど、早いなぁ。じゃあもう、切るね」
『果凛に代わってちょうだい』
お母さんがそう言うのを聞こえないふりして、
「バイバーイ」
と、電話を切った。
いそいで隣の部屋に行くと、ドアをノックした。
「あら、実羽。部屋にいたの? ああ、暑い。クーラー早く効かないかな」
「じゃ、ちょっと私の部屋来て」
お姉ちゃんに着替えもさせずに自分の部屋に連れてゆくと、私は今日のタイ料理屋であった出来事を話した。
どうしても、早く誰かに聞いてもらいたかった。
お姉ちゃんは、表情を曇らせてそれを聞いてくれたけど、最後まで聞き終わると、
「そう」
と言ったまま黙ってしまう。
「ほんと、ヤバい感じだったんだよ」
「うん」
その表情を見て、私は気づいた。
「お姉ちゃん・・・、知ってるんだね」
「・・・うん」
立ち上がって窓辺にもたれてこっちを向いたお姉ちゃんが言った。
「メオのご家族からも何度か相談されてたから・・・。あ、私じゃなくて彼がね」
「いったいどういうことなの?」
「ううん・・・」
お姉ちゃんが、話すべきかどうか迷っているのはわかった。
余計なことを私に言っても仕方ないし。
そう、私はこの島ではただの旅行者だから。
ずっと住んでいるみんなからすれば、すぐに去る人だもん。
でも、メオが泣いていた。
ソムチャイが怒っていた。
その原因を知りたい、って思った。
「お願い、教えて。気になるの」
お姉ちゃんはしばらく私を見ていたが、やがて、
「あのね」
と口を開いた。
「メオの家は、もともとサムイのはずれで食堂をやってたのね」
私は黙って次の言葉を待った。
「でも、だんだんサムイが観光地になってきて、一家で中心部に出てきたわけ。それが、実羽が今日行った食堂」
「へぇ、そうなんだ」
「中心地に近いから、土地の値段も高かったらしいの。でも、こんなチャンスはないって、決断したんだって」
「うん」
「毎月の返済はしっかりとしていたそうなんだけど・・・ね。最近急に、返済金額を上乗せして請求されるようになったんだって。それも、3倍くらい」
「それってひどくない? ちゃんと支払ってたのに、なんで?」
お姉ちゃんは、首を横にふった。
「わからない。でも、悪質な取り立てみたいで、しっかりした契約書もないから困っているんだって・・・。それより、もっと困るのが・・・」
「なに?」
お姉ちゃんを見ると、大きなため息をこぼしている。
「借金の連帯保証人が、ソムサックになってるの。ここも、お客さんは多く来てくれているけど、値段も安い設定のホテルだから、けして裕福ではないの・・・。だから、ここを売るかもしれないの」
「・・・売っちゃうって。売ったあと、ソムサックやお姉ちゃんはどうするの?」
「わからない」
そう言うと、お姉ちゃんはクスッと笑った。
「実羽にこんな話してごめんね。ま、こっちはこっちでなんとかなるから気にしないで」
お姉ちゃんは・・・。
もう、すっかりこっちの人なんだな。
ソムサックと結婚する人として、一緒に悩んでいるんだ。
なんだか、ひとりだけ仲間はずれにされた気がしちゃうけど、みんな私に心配させまいとしているんだよね・・・。
私は、黙ってうなずいてみせた。
翌朝、まだ暗い時間にドアをノックする音で目が覚めた。
一瞬、自分が日本にいるような感覚。
でも、違う。
ここはサムイ島だし、実際に今ノックされている。
飛び起きて、
「だれ?」
とドアに向かって尋ねた。
「ソムチャイ」
いつもの明るい声がした。
「え?ソムチャイ、どうしたの?」
そう言いながらドアを開けると、
「サワディクラー」
と微笑む顔。
「サワ・・・え?」
「サワディクラー。これ、タイ語のあいさつ。それより、早くいそいで」
手を引っ張られ、ソムチャイが廊下を歩きだす。
「え? ちょ、待ってよ。私、パジャマ」
「マイペンライ」
マイペンライは、たしか“大丈夫”の意味だっけ?
全然大丈夫じゃないし。
「ノーマイペンライよ。裸足だし!」
「マイペンライマイペンライ」
呪文でもとなえるかのように、それでいて楽しげな口調でソムチャイは言う。
その間にもどんどん廊下を進んで階段をおりてゆく。
・・・でも、良かった。
昨日、厳しい顔が最後に見た表情だったから。
やっぱ、笑ってるほうが素敵だな。