お客さんが、我先へと逃げてゆく。
それを見て太った男が満足げに笑った。
男と目が合う。
思わずそらした私の目に、若い男がメオに詰め寄るのが見えた。
なにかをメオの耳元で言うと、彼女は早口で言い返した。
その声には勢いがなく、ソムチャイが受け継ぐように声を荒げた。
しばらく沈黙。
太った男が、あごを動かして合図すると、ふたりは店からゆっくりと出て行った。
「だ、大丈夫!?」
呪縛が消えたかのように、ようやくふたりのもとに駆け寄る。
うつむくメオの目に涙がこぼれていた。
ソムチャイは、男たちの背中をにらみつけている。
「なに、なんなの?」
急な展開にまったく思考がついていかない。
メオは立ち上がると、手の甲で涙をぬぐうと、
「だいじょぶ」
と言った。
「大丈夫じゃないよ! なに、あの男たち」
「だいじょぶよ」
メオはため息をつくと、散らばった食器を片付けだす。
ソムチャイがタイ語でなにか言うと、少し笑ってメオが答えた。
ズボンを払いながらソムチャイは立ち上がると、
「実羽、帰ろう」
と言った。
「え、でも・・・」
こんな状況で?
ソムチャイが店から出てゆくので、私もそれを追うしかなかった。
もう、メオはこっちを見てくれない。
帰り道、ソムチャイの背中は怒っているように感じた。
ホテルまで戻ると、ソムチャイはホテルの仕事があるらしく行ってしまった。
モヤモヤとした気持ちのままで部屋まで戻ると、ベッドに横になった。
まだ夕方には早い時間。
ふと、思い立ってお母さんに電話をしてみる。
海外からの電話の仕方は、お姉ちゃんに聞いていたからメモを片手に番号を押した。
たっぷり間をあけてから呼び出し音がなると、すぐに受話器が持ち上げられる音がした。
『あ、実羽? 果凛はどう?』
開口一番、お母さんはそう言った。
まるで近くで話しているみたいに近い。
「ちょっと、最初にそれ? まずは私の心配をしてよ」
『あんたはどこ行ったって元気でしょう。そっちは暑いの?』
窓からの景色に目をやる。
さっきの海を思い出して、胸がざわつく。
この気持ち・・・。
『ちょっと、聞こえてるの?』
「あ、うん。こっちは暑いよ。お姉ちゃんも真っ黒になるくらい」
『で、あの子帰ってくるって?』
やっぱ、そうくるよね。
「え?ああ・・・、まだ聞いてないんだ」
『・・・そう』
怒られるかと思ったけど、意外にも簡単にお母さんは引き下がった。
“緊急事態”の内容を聞かれないうちに話を変えないと。
「お父さんは?」
『お父さん、すっかり信じちゃってるから話合わせるの大変よ。お願いだから、外国のおみやげなんて買ってこないでよ』
そうだった、いとこの家に行ってることになってるんだった。
私は肝に銘じてうなずいた。
しばらく話していると、隣の部屋の扉が開く音が聞こえた。
「お姉ちゃん帰ってきたみたい。早番だって言ってたけど、早いなぁ。じゃあもう、切るね」
『果凛に代わってちょうだい』
お母さんがそう言うのを聞こえないふりして、
「バイバーイ」
と、電話を切った。
いそいで隣の部屋に行くと、ドアをノックした。
「あら、実羽。部屋にいたの? ああ、暑い。クーラー早く効かないかな」
「じゃ、ちょっと私の部屋来て」
お姉ちゃんに着替えもさせずに自分の部屋に連れてゆくと、私は今日のタイ料理屋であった出来事を話した。
どうしても、早く誰かに聞いてもらいたかった。
お姉ちゃんは、表情を曇らせてそれを聞いてくれたけど、最後まで聞き終わると、
「そう」
と言ったまま黙ってしまう。
「ほんと、ヤバい感じだったんだよ」
「うん」
その表情を見て、私は気づいた。
「お姉ちゃん・・・、知ってるんだね」
「・・・うん」
立ち上がって窓辺にもたれてこっちを向いたお姉ちゃんが言った。
「メオのご家族からも何度か相談されてたから・・・。あ、私じゃなくて彼がね」
「いったいどういうことなの?」
「ううん・・・」
お姉ちゃんが、話すべきかどうか迷っているのはわかった。
余計なことを私に言っても仕方ないし。
そう、私はこの島ではただの旅行者だから。
ずっと住んでいるみんなからすれば、すぐに去る人だもん。
でも、メオが泣いていた。
ソムチャイが怒っていた。
その原因を知りたい、って思った。
「お願い、教えて。気になるの」
お姉ちゃんはしばらく私を見ていたが、やがて、
「あのね」
と口を開いた。
「メオの家は、もともとサムイのはずれで食堂をやってたのね」
私は黙って次の言葉を待った。
「でも、だんだんサムイが観光地になってきて、一家で中心部に出てきたわけ。それが、実羽が今日行った食堂」
「へぇ、そうなんだ」
「中心地に近いから、土地の値段も高かったらしいの。でも、こんなチャンスはないって、決断したんだって」
「うん」