「お兄ちゃん! お腹すいた。ごはん~~」
隣から、彩羽の声が飛んでくる。細くて高い、カッコウみたいな声だ。
「……ちょっと待って」
ぶっきらぼうに返しながら、僕は手元に視線を縫い付けた。両手には小さな工具が二本。その前には、外装を剥がされて配線がむき出しになったVRギアが何台も転がっている。どれもこれも、別の街の廃棄品をこっそり持ち帰ってきたものだ。
コードを挿して、震える指で電源ボタンを押した。だが、ギアは光を灯さない。ただ沈黙したままだった。
小さくため息をつき、眉を掻いたところで、また隣から彩羽が声をかけてくる。
「お兄ちゃん、ごはん……イロハ、死ぬかもしれない……」
「わかったよ。今作るから、ちょっと待って」
工具をそっと床に置き、立ち上がる。ローテーブルの下には、布団で全身をぐるぐる巻きにした彩羽が、奇妙な格好で転がっていた。布団の隙間から、紺色のセーラー服の襟と真っ赤なリボンだけが、ぴょこんと飛び出している。
「暇ならさ、お父さんの足でも揉んであげたら? それと、早く着替えろよ」
「無理。イロハ、忙しい。勉強中」
確かに彩羽の目は、宙のどこかを見つめたまま、ひとりでくすくす笑っている。勉強……なら、まだいいんだけど。そんな彼女を背に、僕はキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開ける。納豆、豆腐、卵が数個と調味料。その下段から鶏肉の塊をひとつ取り出し、まな板の上へ置いた。
親指くらいのサイズに切り、フォークでぷすぷす穴をあける。ボウルに移して、塩と胡椒、にんにくチューブを入れ、手早く揉み込んだ。何個かはさらに半分に切っておく。
少し置いてから、唐揚げ用の小鍋に肉が半分浸かるほどの油を注ぐ。にんにくの香ばしさに、生の辛みが混じった匂いが立ち上がった。片栗粉と小麦粉を混ぜて肉にまぶし、残った粉をひとつまみ油に落とす。すぐに泡が立ち、粉が表面に浮かんだ。
あとは肉を入れて、返しながら揚げるだけ。
慣れた手つきで、僕は唐揚げを揚げはじめた。
料理を終え、茶碗二つと、唐揚げの皿をひとつ。それをリビングのローテーブルへ運ぶ。
「わーい!」
彩羽は布団を纏ったまま、ローテーブルの下から布団ごと這い出すようにして座り込んだ。
「先に食べてて。僕は先にお父さんにごはん、持っていってくるから」
「うん! いただきます!」
僕はもう一度キッチンへ戻り、親指の半分くらいの小さな唐揚げと、少しのごはん。水をコップに注いでストローを挿し、トレーに載せる。そのまま寝室へ入った。
畳の上、布団にもたれるようにして中年の男が座っている。頬はこけ、頬骨の線がやけにくっきり浮いていた。焦点の合わない目で、宙を見つめている。
「お父さん、もう起きてたの? それと、ヒーターつけてって言ったでしょ」
「大丈夫だ。このくらい、寒くない」
父が口を開くたび、白い吐息がふわりと上がる。
僕は黙って父の横へトレーを置き、エアコンのリモコンを取って電源を入れる。それから父の隣に戻り、箸で唐揚げをつまんで、口元へ運んだ。
「はい、食べよ」
「自分で食べられる。お前も早く戻って食え」
「はい、あーん」
父は一度、軽く咳払いをする。それから諦めたように口を開け、ゆっくり食べはじめる。
「うちの息子は、本当にえらいな。ひとりで大学も奨学金で通って、妹の面倒も見て……。お母さんに似て、料理まで上手でさ」
「ほら、もう一回。あーん」
僕は何も答えず、ただ静かに箸を父の口元へ運び続ける。
そうして食べ終わらせると、今度は部屋の隅に置いてあるプラスチックの薬ケースを手に取る。錠剤を取り出して父の手に握らせ、口に入れたのを確かめてから、ストローの刺さった水のコップを唇の前へ寄せた。
ごくん。
薬を飲み下した父が、もう一度口を開く。
「……俺がこんなだからさ。毎回、悪いな。咲」
「何言ってんの。いまさらだよ。あとで洗面道具、持ってくるから。休んでてね」
適当に返してトレーを持ち、部屋を出ようとした――そのとき。父が僕の袖を掴んだ。
「咲……お前は、幸せか? 俺のせいで、やりたいこと我慢してないか。金のためにVRなんて勉強してるんじゃないよな?」
父の視線は相変わらず、何もない壁を見ている。掴む手だけが、上下に大げさなくらいがたがた震えていた。
「何回言わせるの。僕がやりたくてやってるんだって」
僕は息を吸って、なるべく軽く言う。
「ちょっと待ってて。いつか、お父さんのためのVR、ちゃんと作ってあげるから」
「……そうか。ありがとうな」
その返事を背に、僕は立ち上がって部屋を出た。
リビングでは、もう食事を終えた彩羽の姿は消えていた。僕も冷めてぱさついたごはんをかき込み、食器を片づける。それからまた工具を手に取り、VRギアの修理へ戻った。余計なことを考えないように――ただ、目の前の配線だけを見つめて。
***
どれくらい経ったのだろう。目を開けると、両手には工具を握ったまま、僕はギアの前にうつ伏せになっていた。手も足も、感覚がない。
静かにホログラム端末を起動して時刻を確かめる。
『午後十時二十分』
その瞬間、僕は跳ね起きた。浴室へ駆け込み、洗面器にぬるい湯を張る。歯ブラシやタオル、ひと通りの洗面道具を掴んで、もう一度寝室へ向かう。
「お父さん、ごめん。ちょっと……うとうとしてた」
洗面道具を布団の脇に置き、寝ている父へそっと近づく。慎重に身体を起こそうとした、そのときだった。
持ち上げかけた両腕が、力なく、だらりと落ちる。顔色は灰色に近いほど青白く、爪は青いを通り越して黒に寄っている。喉の奥から、くぐもった痰の音が、ごぼ、とせり上がってくる。
数年前、〈あの日〉の記憶が、今の光景に重なる。
呼吸が早くなり、視界がぐらつく。手が、がたがた震えはじめる。
「お父さん……! お父さん!!」
呼んでも、返事がない。
(きゅ、救急車……救急車……!)
端末のアプリ一覧を必死に視線でなぞって、救急要請のアイコンを探す。
ない。五回、十回、タブを全部行き来しても出てこない。僕は人差し指を口に押し込み、強く噛んだ。検索を叩き、震える目で入力する。
『きゅう……きゅうきゅう……』
検索結果に、さっきまで見えなかったはずの〈救急要請〉が、ようやく現れる。目立つ赤い背景に、真っ白な救急車のイラスト。
僕はそれを押し、簡易の状況報告欄に〈父 脳卒中 倒れた〉と打ち込んだ。そして父の姿をカメラでスキャンし、送信する。
数秒のローディングのあと、視界に通知が浮かぶ。
――社会貢献ランク:D
――優先度:低
――予想到着時間:四十五分以上
『現在、Aランク市民の搬送が集中しています。順番をお待ちください』
『下記の資料もご確認ください:脳卒中発生時の応急対応』
無機質な文字が、視界の奥に冷たく残る。
「……くそっ!!」
声が漏れた。僕は床を、思い切り踵で踏みつけた。どん、と鈍い音が返る。
「お兄ちゃん!? どうしたの?」
彩羽がパジャマ姿で寝室へ飛び込んでくる。僕を一度だけ見て、それから父を呆然と立ち尽くしたまま見つめる。
「パパ……? パパ!!」
状況を理解したのだろう。彼女は父のところへ駆け寄り、抱きついて泣きはじめる。
「うわぁぁん! パパ、どうしたの!? お兄ちゃん! 救急車、救急車!!」
僕は人差し指を噛んだまま、何も言えなかった。指先に、鉄の味が滲んでくる。
AIの分析で、救急車の搬送順位まで決まる世界。僕にできることは、無力に待つことだけ。
しかし十分待っても、時間は縮まらない。結局、僕は遅ればせながら父を背負い、雪の積もる夜道へ飛び出した。
重い。普段、運動なんてほとんどしたことがないせいか、それだけで足腰が沈みそうだ。足は雪に取られ、何度も転びそうになる。
背中越しに、ヒュー、ヒュー、と擦れるような呼吸音が聞こえていた。その音だけが、僕の足を動かす燃料だった。
そうして、病院の明かりが見えた、そのとき。耳元の呼吸音が――ぷつり、と途絶えた。
「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ!!」
僕は父を背負い直し、喉が裂けるほど叫びながら走った。
病院に着いて、父が救急手術室へ運ばれてから、どれくらい経ったんだろう。端末に、文字が浮かび上がる。
『2052年11月21日 23時51分、金子陽翔様 死亡。謹んでご冥福をお祈りいたします』
続いて、
『一般葬儀をご希望の方は、こちらの〈一般葬儀〉ボタンを押してください。金子陽翔様は無料火葬の対象です。選択がない場合、数時間後に自動火葬が実行されます』
僕は椅子の上で、小さく体を縮めたまま、その文字をただぼんやり見つめていた。
そして数時間後――あんなに重かった父が、僕の腕よりも細い小さな瓶に収まるほどの白い粉になって帰ってきた。
あまりの軽さに、そこで初めて、僕は膝から崩れ落ちた。
***
「おい!」
耳を突き抜けて頭頂まで響く、聞き慣れた声。
「ん……う、うん……?」
目を開けると、前にいたのはすいさんだった。眉間に深く皺を寄せて、こちらを睨みつけている。
「何回起こしたと思ってんの? 立ったまま、よくそんなに寝られるね。次の駅で降りるから、早く準備して」
「……え? あ、はい……」
じわじわと記憶が戻ってくる。車内は人でぎゅうぎゅう。がたんごとんと揺れる電車の音。両手には、ずしりと重い黒いバッグが二つ。
「……よだれ、拭きなよ。昨日も運動してたわけじゃないよね?」
すいさんはポケットから、小さな白い子犬の絵が描かれた黄色いハンカチを差し出した。
「……ありがとうございます。明日、洗って返します……。あと、運動は毎日するべきです」
ハンカチを受け取り、口元へそっと当てると、ふわりと淡い桜の匂いがする。その穏やかな匂いに、脳裏に残った鉄錆の気配がほんの少し薄れる。
『次は、二子玉川。二子玉川――』
車内アナウンスに合わせて、僕は肩だけ小さく回す。軽くストレッチをして、バッグを握る両手に力を込める。
(……そうだ。これは、僕が選んだ仕事だ)
父の顔を思い浮かべながら、バッグのグリップを強く握り込んだ。重さは変わらない。食い込むベルトが痛い。けれど、その痛みだけが、僕を現実につなぎとめてくれる気がした。
そして電車の扉が開く。なだれ込んでくる朝の光の中へ、僕は勢いよく歩き出した。
今日も、お客様の笑顔のために。
隣から、彩羽の声が飛んでくる。細くて高い、カッコウみたいな声だ。
「……ちょっと待って」
ぶっきらぼうに返しながら、僕は手元に視線を縫い付けた。両手には小さな工具が二本。その前には、外装を剥がされて配線がむき出しになったVRギアが何台も転がっている。どれもこれも、別の街の廃棄品をこっそり持ち帰ってきたものだ。
コードを挿して、震える指で電源ボタンを押した。だが、ギアは光を灯さない。ただ沈黙したままだった。
小さくため息をつき、眉を掻いたところで、また隣から彩羽が声をかけてくる。
「お兄ちゃん、ごはん……イロハ、死ぬかもしれない……」
「わかったよ。今作るから、ちょっと待って」
工具をそっと床に置き、立ち上がる。ローテーブルの下には、布団で全身をぐるぐる巻きにした彩羽が、奇妙な格好で転がっていた。布団の隙間から、紺色のセーラー服の襟と真っ赤なリボンだけが、ぴょこんと飛び出している。
「暇ならさ、お父さんの足でも揉んであげたら? それと、早く着替えろよ」
「無理。イロハ、忙しい。勉強中」
確かに彩羽の目は、宙のどこかを見つめたまま、ひとりでくすくす笑っている。勉強……なら、まだいいんだけど。そんな彼女を背に、僕はキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開ける。納豆、豆腐、卵が数個と調味料。その下段から鶏肉の塊をひとつ取り出し、まな板の上へ置いた。
親指くらいのサイズに切り、フォークでぷすぷす穴をあける。ボウルに移して、塩と胡椒、にんにくチューブを入れ、手早く揉み込んだ。何個かはさらに半分に切っておく。
少し置いてから、唐揚げ用の小鍋に肉が半分浸かるほどの油を注ぐ。にんにくの香ばしさに、生の辛みが混じった匂いが立ち上がった。片栗粉と小麦粉を混ぜて肉にまぶし、残った粉をひとつまみ油に落とす。すぐに泡が立ち、粉が表面に浮かんだ。
あとは肉を入れて、返しながら揚げるだけ。
慣れた手つきで、僕は唐揚げを揚げはじめた。
料理を終え、茶碗二つと、唐揚げの皿をひとつ。それをリビングのローテーブルへ運ぶ。
「わーい!」
彩羽は布団を纏ったまま、ローテーブルの下から布団ごと這い出すようにして座り込んだ。
「先に食べてて。僕は先にお父さんにごはん、持っていってくるから」
「うん! いただきます!」
僕はもう一度キッチンへ戻り、親指の半分くらいの小さな唐揚げと、少しのごはん。水をコップに注いでストローを挿し、トレーに載せる。そのまま寝室へ入った。
畳の上、布団にもたれるようにして中年の男が座っている。頬はこけ、頬骨の線がやけにくっきり浮いていた。焦点の合わない目で、宙を見つめている。
「お父さん、もう起きてたの? それと、ヒーターつけてって言ったでしょ」
「大丈夫だ。このくらい、寒くない」
父が口を開くたび、白い吐息がふわりと上がる。
僕は黙って父の横へトレーを置き、エアコンのリモコンを取って電源を入れる。それから父の隣に戻り、箸で唐揚げをつまんで、口元へ運んだ。
「はい、食べよ」
「自分で食べられる。お前も早く戻って食え」
「はい、あーん」
父は一度、軽く咳払いをする。それから諦めたように口を開け、ゆっくり食べはじめる。
「うちの息子は、本当にえらいな。ひとりで大学も奨学金で通って、妹の面倒も見て……。お母さんに似て、料理まで上手でさ」
「ほら、もう一回。あーん」
僕は何も答えず、ただ静かに箸を父の口元へ運び続ける。
そうして食べ終わらせると、今度は部屋の隅に置いてあるプラスチックの薬ケースを手に取る。錠剤を取り出して父の手に握らせ、口に入れたのを確かめてから、ストローの刺さった水のコップを唇の前へ寄せた。
ごくん。
薬を飲み下した父が、もう一度口を開く。
「……俺がこんなだからさ。毎回、悪いな。咲」
「何言ってんの。いまさらだよ。あとで洗面道具、持ってくるから。休んでてね」
適当に返してトレーを持ち、部屋を出ようとした――そのとき。父が僕の袖を掴んだ。
「咲……お前は、幸せか? 俺のせいで、やりたいこと我慢してないか。金のためにVRなんて勉強してるんじゃないよな?」
父の視線は相変わらず、何もない壁を見ている。掴む手だけが、上下に大げさなくらいがたがた震えていた。
「何回言わせるの。僕がやりたくてやってるんだって」
僕は息を吸って、なるべく軽く言う。
「ちょっと待ってて。いつか、お父さんのためのVR、ちゃんと作ってあげるから」
「……そうか。ありがとうな」
その返事を背に、僕は立ち上がって部屋を出た。
リビングでは、もう食事を終えた彩羽の姿は消えていた。僕も冷めてぱさついたごはんをかき込み、食器を片づける。それからまた工具を手に取り、VRギアの修理へ戻った。余計なことを考えないように――ただ、目の前の配線だけを見つめて。
***
どれくらい経ったのだろう。目を開けると、両手には工具を握ったまま、僕はギアの前にうつ伏せになっていた。手も足も、感覚がない。
静かにホログラム端末を起動して時刻を確かめる。
『午後十時二十分』
その瞬間、僕は跳ね起きた。浴室へ駆け込み、洗面器にぬるい湯を張る。歯ブラシやタオル、ひと通りの洗面道具を掴んで、もう一度寝室へ向かう。
「お父さん、ごめん。ちょっと……うとうとしてた」
洗面道具を布団の脇に置き、寝ている父へそっと近づく。慎重に身体を起こそうとした、そのときだった。
持ち上げかけた両腕が、力なく、だらりと落ちる。顔色は灰色に近いほど青白く、爪は青いを通り越して黒に寄っている。喉の奥から、くぐもった痰の音が、ごぼ、とせり上がってくる。
数年前、〈あの日〉の記憶が、今の光景に重なる。
呼吸が早くなり、視界がぐらつく。手が、がたがた震えはじめる。
「お父さん……! お父さん!!」
呼んでも、返事がない。
(きゅ、救急車……救急車……!)
端末のアプリ一覧を必死に視線でなぞって、救急要請のアイコンを探す。
ない。五回、十回、タブを全部行き来しても出てこない。僕は人差し指を口に押し込み、強く噛んだ。検索を叩き、震える目で入力する。
『きゅう……きゅうきゅう……』
検索結果に、さっきまで見えなかったはずの〈救急要請〉が、ようやく現れる。目立つ赤い背景に、真っ白な救急車のイラスト。
僕はそれを押し、簡易の状況報告欄に〈父 脳卒中 倒れた〉と打ち込んだ。そして父の姿をカメラでスキャンし、送信する。
数秒のローディングのあと、視界に通知が浮かぶ。
――社会貢献ランク:D
――優先度:低
――予想到着時間:四十五分以上
『現在、Aランク市民の搬送が集中しています。順番をお待ちください』
『下記の資料もご確認ください:脳卒中発生時の応急対応』
無機質な文字が、視界の奥に冷たく残る。
「……くそっ!!」
声が漏れた。僕は床を、思い切り踵で踏みつけた。どん、と鈍い音が返る。
「お兄ちゃん!? どうしたの?」
彩羽がパジャマ姿で寝室へ飛び込んでくる。僕を一度だけ見て、それから父を呆然と立ち尽くしたまま見つめる。
「パパ……? パパ!!」
状況を理解したのだろう。彼女は父のところへ駆け寄り、抱きついて泣きはじめる。
「うわぁぁん! パパ、どうしたの!? お兄ちゃん! 救急車、救急車!!」
僕は人差し指を噛んだまま、何も言えなかった。指先に、鉄の味が滲んでくる。
AIの分析で、救急車の搬送順位まで決まる世界。僕にできることは、無力に待つことだけ。
しかし十分待っても、時間は縮まらない。結局、僕は遅ればせながら父を背負い、雪の積もる夜道へ飛び出した。
重い。普段、運動なんてほとんどしたことがないせいか、それだけで足腰が沈みそうだ。足は雪に取られ、何度も転びそうになる。
背中越しに、ヒュー、ヒュー、と擦れるような呼吸音が聞こえていた。その音だけが、僕の足を動かす燃料だった。
そうして、病院の明かりが見えた、そのとき。耳元の呼吸音が――ぷつり、と途絶えた。
「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ!!」
僕は父を背負い直し、喉が裂けるほど叫びながら走った。
病院に着いて、父が救急手術室へ運ばれてから、どれくらい経ったんだろう。端末に、文字が浮かび上がる。
『2052年11月21日 23時51分、金子陽翔様 死亡。謹んでご冥福をお祈りいたします』
続いて、
『一般葬儀をご希望の方は、こちらの〈一般葬儀〉ボタンを押してください。金子陽翔様は無料火葬の対象です。選択がない場合、数時間後に自動火葬が実行されます』
僕は椅子の上で、小さく体を縮めたまま、その文字をただぼんやり見つめていた。
そして数時間後――あんなに重かった父が、僕の腕よりも細い小さな瓶に収まるほどの白い粉になって帰ってきた。
あまりの軽さに、そこで初めて、僕は膝から崩れ落ちた。
***
「おい!」
耳を突き抜けて頭頂まで響く、聞き慣れた声。
「ん……う、うん……?」
目を開けると、前にいたのはすいさんだった。眉間に深く皺を寄せて、こちらを睨みつけている。
「何回起こしたと思ってんの? 立ったまま、よくそんなに寝られるね。次の駅で降りるから、早く準備して」
「……え? あ、はい……」
じわじわと記憶が戻ってくる。車内は人でぎゅうぎゅう。がたんごとんと揺れる電車の音。両手には、ずしりと重い黒いバッグが二つ。
「……よだれ、拭きなよ。昨日も運動してたわけじゃないよね?」
すいさんはポケットから、小さな白い子犬の絵が描かれた黄色いハンカチを差し出した。
「……ありがとうございます。明日、洗って返します……。あと、運動は毎日するべきです」
ハンカチを受け取り、口元へそっと当てると、ふわりと淡い桜の匂いがする。その穏やかな匂いに、脳裏に残った鉄錆の気配がほんの少し薄れる。
『次は、二子玉川。二子玉川――』
車内アナウンスに合わせて、僕は肩だけ小さく回す。軽くストレッチをして、バッグを握る両手に力を込める。
(……そうだ。これは、僕が選んだ仕事だ)
父の顔を思い浮かべながら、バッグのグリップを強く握り込んだ。重さは変わらない。食い込むベルトが痛い。けれど、その痛みだけが、僕を現実につなぎとめてくれる気がした。
そして電車の扉が開く。なだれ込んでくる朝の光の中へ、僕は勢いよく歩き出した。
今日も、お客様の笑顔のために。

