僕が書いた世界の果てで、君の幸せを問う

「今日は……本当にありがとうございました」

 接続を終え、ギアをすべて片づけ終わったころ。隣で見守っていたお客様が声をかけてきた。

「いえ、僕はやるべきことをやっただけです。むしろ、昔から憧れていた小説の世界をこの目で見られて、こちらこそ光栄でした」
「……ありがとうございます」

 僕は荷物をまとめ、最後にバッグの背面ポケットにしまっていた文庫本へ手を伸ばす。ちらりとお客様の顔を見上げ、ページの端を指先でいじっていた、そのときだった。

「あの……妻の状態は、大丈夫なんでしょうか?」

 彼は爪で反対の手のささくれを何度もつまんでは放しながら、恐る恐る切り出した。

「ええ、あまり心配しないでください。今日は一日、ずっと楽しそうに過ごされていましたから」

 隣にいたすいさんが、どこか湿った低い声で答えた。

「それなら、本当によかった……」

 その言葉が終わるのとほぼ同時に、病室のドアのほうから控えめなノックが響く。

「パパ、いる?」

 不思議と親しみのある、鈴玉みたいに澄んだ高い声。その声が聞こえた途端、お客様はとっさにドアへ駆け寄って外へ出ると、慌ててドアを閉めた。
 僕はバッグの口を閉じ、持ったまますいさんを見る。彼女も硬く立ち尽くしたまま、僕を見返していた。そして、ドアの向こうから会話が漏れてくる。

「なんでそんなに慌ててるの?」
「え……、ことりちゃん……なんでここに?」

 ドア越しに聞こえるはずのない、喉が鳴る音までやけに生々しく耳にまとわりつく。

「前に言ったでしょ、感謝祭の時期だって。だから休暇取って来たの。パパとママの結婚記念日も、もうすぐだし」
「そ、そうか……そうだよな。アメリカから帰ってきたばかりだし、疲れてるでしょう? 連絡くれたら迎えに行っ――」

 お客様の震える声を遮って、彼女が歯切れよく答える。

「子どもじゃないって。ほら、パパに飲ませようと思って柚子茶。ママには梅干しとクッキーも買ってきた。あと、今日は私がママの看病するから、パパは家で休んで。見たらさ、インコたちのビタミン、湿気でカチカチに固まってたし。最近、ほとんど家に帰ってないでしょ?」

 そのままドアが、す……っと静かに開きかけて――すぐに、また閉まる。

「なに?」
「……う、うん。ちょっと待って。ことりちゃん、手、消毒した?」
「は? なにそれ……」

 さっきまでまっすぐだった彼女の声が、一瞬で揺らぎはじめる。
 そして、嫌な沈黙の中で、ドアが開いては閉まり、また開いては閉まる。僕はなぜか、部屋の隅から隅まで視線を走らせたが、身を隠せそうな場所なんてどこにもなかった。

「……もうっ!」

 天井を刺すような鋭い声の直後、ドアが――ガラッ、と勢いよく開く。
 そして、僕と目が合う。
 ゆるいウェーブのかかった前髪が、右耳の上に留められた白い羽根のようなヘアピンをかすめて、長く流れている。艶のある茶色の髪は胸元まで伸び、鼻筋は細くまっすぐ通っている。一重なのに切れ長で大きい目。背は一六〇を軽く超えて見えた。
 膝下まである黒いコートは、鈍く光るのにどこか落ち着いた質感で、肩には真っ白な綿みたいな何かがちょこんと付いている。左手には紙袋がいくつも。もう片方の手には、見慣れた灰色の〈A〉のロゴが入った黒いビジネスバッグ。
 僕がぎこちなく口角を上げたまま立ち尽くしていると、彼女の視線が僕の手元――ギアの入った会社のバッグへ、数秒だけ居座った。
 そして、次の瞬間。

「……VR、なの? パパ……?」
「い、いや、それは……ことりちゃん、違うよ」
「最悪……約束したのに。なんで、なんで……?」
「だって、ことりちゃんも分かってるでしょう……? ママは治せない。もう五年だよ……」
「技術の進歩がどれだけ速いと思ってるの? なんで一人で決めつけるの! VRを使ったらママにどれだけ危ないか、知ってるくせに!」

 彼女は唾を一度ごくりと飲み込んでから、もう一度言葉をつなぐ。

「ママを……殺す気……? それに分かってるでしょ、ママみたいな人にVRは――麻薬よりタチが悪い。数日だけ使って取り上げたら、どんな地獄になるか……!」

 それから、彼女は両手の荷物を病室の片隅に下ろした。
 お客様が話を続ける。

「で、でも……ネットだと、しばらく時間が経ってからまた使えば大丈夫って……」
「……は? ネット? パパ、バカなの……?」

 高くなっていた声が、一気に底へ沈む。

「パパに向かってバカだなんて――」
「嘘つき。触らないで」

 パシンッ!

 乾いた音が空気を裂いた。伸ばされたお客様の手を、彼女は容赦なく払いのけた。
 そして僕とすいさんを、まるで人間の手そのものを拒む、威嚇(いかく)する野良猫みたいな目で睨む。しかし、唇の隙間から覗く歯は小刻みに揺れていた。
 彼女はそのまま奥様のもとへ歩み寄る。

「……ママ。ママ……」

 奥様の手をぎゅっと握りしめ、嗚咽(おえつ)が漏れた。向かい側でお客様は、下唇を強く噛み、眉間を赤くなるほど掻きむしるだけだった。
 僕がバッグを握った指だけを、もぞもぞと動かしていると、端末にメッセージが一件届いた。

『早く出よう。ここにいても邪魔なだけ』

 直後、すいさんは「申し訳ありません……私たちは、先に失礼いたします」とだけ残し、静かに僕の腕を取って病室を出た。一歩進むごとに、足がひどく重くなる。
 無言のまま廊下を進んでいると、午前中に見かけた看護師が、また僕たちを呼び止める。

「……すみません。お二人、午後に女性の叫び声が聞こえるってクレームが入ってまして。明日も面会のご予約が入ってるみたいなので、少しだけ……お気をつけくださいね」
「はい……申し訳ありません……」

 すいさんはマフラーをすっと持ち上げて口元を隠し、小さく答える。耳だけが、妙に赤い。
 それから僕らはまた、迷路みたいに長く感じる廊下を、音も立てずに歩き始めた。

***

 病院の外に出て、無言でどれだけ歩いただろう。駅へ続く巨大なショッピングモールが、視界の奥に滲みはじめたころだった。

「ふぅ……疲れたね。今日はおつかれ」

 すいさんが隣でコートのポケットに両手を深く突っ込み、息を吐いた。
 僕は何も答えず、ただ前の景色を見つめていた。
 鼻の奥から脳の奥まで、針で突き刺されるような冷たい風。なのに左右には、磨き上げたガラスでできた巨大なビルがずらりと並び、そこから滲む夕暮れめいた照明が、僕の目をぬるく溶かしてくる。
 ガラスの向こう、カフェには色とりどりのコートを着た人たちが座って、明るく笑っていた。でも、笑顔はみんな同じ型で、色だけ違う棒付きキャンディが並んでいるみたいだ。
 そして、そのビル群のど真ん中に、巨大なクリスマスツリーが突き刺さっている。VRで見た、あの森の緑とは違う。化学染料で塗り固めたような、目が痛くなるほど人工的な緑。

「……元気ないね。心配しすぎないで。奥様の状態も良かったし、きっと何も起きないよ」

 すいさんはポケットから手を出し、ぼんやりしていた僕の横に寄って、片方のバッグへ手を伸ばす。

「大丈夫です。僕が持ちます。どうせ会社も家と同じ方向ですし、帰り道に寄って返却すればいいので」
「……お前、家の方向、会社から逆でしょ」
「なんですいさんがそれを知ってるんですか……?」

 返事は返ってこない。代わりに、気まずい沈黙だけが伸びていった。
 そうして駅が近づいたころ、僕はふっと足を止め、静かに口を開いた。

「何も感じられない患者さんが、VRで世界を知って……数日後、また暗闇に放り戻されたら、どんな気持ちになるんでしょう」
「急にどうしたの。ボクたちは、いつも通り仕事をすればいい」
「……ただ。いろんな患者さんを見てきましたけど、聞けない、話せない、見えない……それに記憶もない人は、今回が初めてじゃないですか……」

 僕は小さく息を吐いてから、言葉をつないだ。

「暗闇にいた人に光を与えて、数日後にまた目隠しをする。それって……最初から何も見せないより、残酷なことじゃないですか」

 そこまで言って、僕は黙ったまま空を見上げた。頭上には、無数の星が建物の照明に挟まれても、光を失わずに瞬いていた。
 今日初めてVR世界に到着したとき。奥様が頭が壊れるほど叩きながら〈死ななきゃ〉と訴えていた光景が、目の前に生々しく蘇る。それだけじゃない。これまで見てきた患者たちの顔が、皮膚の斑点ひとつひとつまで見えるほど鮮明に、背骨を伝って這い上がってくる。

「お前、志願して医療事業部に来たんでしょ。VRで患者さんを幸せにしたいって。だったら、それだけ考えればいい。今日だって見たでしょ。奥様、幸せそうだったよ」

 すいさんは僕をまっすぐ見上げ、はっきり言う。

「はい。そうなんですけど……なんか、もやもやするんです。VRで幸せになっても、最期の日が来たあと、奥様は何を思うのか……いっそ、彼女が望むとおりに死なせてあげられるなら、死んだほうが――」

 その瞬間、ガッ、と二の腕を掴まれて引き寄せられた。すいさんが僕の耳元で低く囁く。

「……ねえ、お前、正気? 自分が何言ってるか分かってる?」
「すみません……」

 すいさんの靴先だけを見つめて、小さく答える。

「はぁ……しんどいなら、明日来なくていいから。それに、自分から言うのもアレだけど、金持ちの心配って、いちばん必要ない心配だよ」
「……いえ。大丈夫です。行きます」

 僕は黙って頷き、顔を上げる。

「もう一回でも今みたいなこと言ったら、強制的に来させないから。覚えといて」
「……はい」

 そうして駅に入った僕らは、互いに背を向けて、反対のホームへ歩いていった。
 手に提げた二つのバッグが、腕ごと地面へ引き下ろしてくるように重い。そこに付いた自社のロゴが、蛍光灯みたいにやけに鮮明で――視界の奥で、いつまでもちらついていた。

***

 ガタン、ゴトン……

 会社にギアを返却し、家へ向かう電車の中。ドアの外には、いつも見る景色が流れていく。煤けた灰色の森――同じ形の直方体が、ずらりと並び、航空障害灯の赤い目だけが、ぎょろぎょろと僕を見下ろしている。
 そして、決まって通る長いトンネルへ入った瞬間、外の音がすっと消えた。残るのは走行音だけ。
 外の景色が消え、ドアガラスが鏡に変わる。そこに映っていたのは、腐りかけの雑草みたいに首を垂れた、顔色の悪い男が一匹。その周りには、同じように俯いたまま光を失った街灯が、びっしりと並んでいる。
 トンネルを抜けると、さっきまでの光景は跡形もなく消えて、月明かりさえ吸い込まれそうな闇が広がった。その闇の上に、いつものホログラムニュースが流れはじめる。

『国会、厚生年金保険料率の引き上げを審議。今後10年間で8ポイント増、40%へ――』

 続いて、

『政府、米国のAI開発企業〈A社〉と協力。第4世代AIヒューマノイド開発に100億円投資を正式決定』
『日本・東京、AI都市指数 世界5位。幸福指数3位に上昇』

 ドアにもたれるように背を預け、そっと目を閉じる。それでも、まぶたの裏には、さっきのニュースの文字が、いつまでもまぶたの裏を蠢いていた。