僕が書いた世界の果てで、君の幸せを問う

「それで……わたしたち、どこへ行くんですか?」
「着けば分かりますよ」
「じゃあ……わたしの名前は何?」
「姫様のお名前は琴羽です。綺麗な名前でしょう」
「琴羽……か。そういや、トトさんのご主人って人は、来ないんですか?」
「事情がありまして。今は来られません」
「ええ……」

 目の前で、奥様の質問が途切れない。僕らはただ、お客様の背中に遅れないようについて歩く。
 時間を確認する。午前十一時。残りのダイブ時間は、もう七時間ほどしかない。
 すいさんにチャットを送る。

『いつまで歩くんです? 次の目的地、〈鳥の楽園〉までまだ遠いですよね。ワープしません? 僕から聞きましょうか』

 返事はすぐに来る。

『……まあ、少しくらい歩こうよ。前見て、ワープなんて言える?』

 すいさんに促され、僕はもう一度、前を見る。
 奥様の眉はまだ下がりきっているのに、口だけは止まらない。お客様の顔は仮面で読めない。それでも口元だけが、ほんの少し上がっている。

 ザッ、ザッ、ザッ――

 落ち葉を踏む二人の足音が、ぴたりと重なっている。

「それより、トトさんはなんで仮面なんですか? 目のそのボタン、なに? 前、見えてるんですか?」

 また質問が飛ぶ。
 お客様は間を置かず、平然と答える。

「この仮面はですね、僕が素顔で姫様を見つめると、ご主人様が嫉妬なさるんです。なので外せない呪いにかかっております。視界は……見えるぶんは見えますので、ご安心を」

 お客様に渡しているのは準編集者権限。そんな仮面、どこからでも外せるはずなのに。子ども向けのたわいないおまじないにしか聞こえない。

「ふぅん……じゃあ、トトさんも後ろの……えっと、荷物持ちさんたちは、人間? それともAI?」
「もちろん僕たちはAIです。ですので姫様、遠慮など一切なさらず、やりたいことがあれば何でもお申し付けください」

 彼女の無邪気な問いに、心臓が早鐘を打つ。下手なAIの真似なんて、小学生でも見抜く。僕は息を殺し、瞬きさえ我慢して自分がいちばんよく知っているヒューマノイドになりきった。
 奥様が立ち止まり、お客様の顔をじっと見上げてから口を開く。

「じゃあ、今ここで……わたしを殺してくれませんか」
「申し訳ありません。それだけは今はできません。ですが――約束通り、三日間を僕たちと過ごしてくだされば、叶えて差し上げます」
「へぇ……まあ、いいや」

 彼女は目を細め、仮面の奥を刺すように見つめた。そして振り返り、僕らのほうを見る。僕は口の端をぎこちなく吊(つ)り上げて、手をひらひら振ることしかできない。
 そのまま、どこか居心地の悪い沈黙。
 僕はメッセンジャーで、報告用のタスクをいくつか片付けていった。

***

 二十分ほど経った頃だろうか。
 二十メートル先。大木の回廊(かいろう)の出口から、強烈な光が溢れ出していた。 その光の洪水に飲み込まれた、次の瞬間。

「……わぁ」

 断崖(だんがい)の向こう、視界のすべてが暴力的なまでの色彩(しきさい)に塗り潰されている。エメラルドのように硬く光る緑。やわらかく甘い気配を含んだ緑。抹茶を思わせる、深く濁った緑まで――同じ緑が、ひとつもない。
 足元には、地平線まで続く翡翠色(ひすいいろ)の大河。空には、重力を無視して浮かぶ無数の岩礁(がんしょう)。
 そして空間を埋め尽くすのは、数万羽の鳥たちが巻き起こす極彩色(ごくさいしき)の竜巻だ。

 ピヨッ、ピヨッ――

 鋭いのに、耳の奥まで澄みわたる鳴き声。羽ばたきが風を連れて、あたたかい土と草の匂いが鼻先をくすぐる。
 憧れていた、小説の中のエルフの世界。
 目の前では奥様が、ただ頬をゆるめ、遠くの空と森を、子どもみたいに見つめていた。

「……これ、マジでやばいですね。過去イチの案件だって聞いてましたけど……ポリッシングチームが胸張ってた理由、分かる気がします」

 声を落としてそう言ってみたけれど、反応がない。

「すいさん……?」

 彼女の名前を呼びながら横を見ると、彼女は瞬きすることもなく、ただ呆然と光の奔流(ほんりゅう)を見つめていた。

「……あ! う、うん。まあ、そうだね」

 我に返った彼女は、誤魔化すようにわざとらしく咳払いをする。

「でも仕事だから、ぼーっとしないの。遊びに来たんじゃないんだからね」

 その慌てて現実に戻る感じが妙にくすぐったくて、僕は黙って笑ってしまった。するとまもなく、お客様の声が耳に届き、僕はそちらへ視線を向ける。

「では、姫様。参りましょうか」

 そう言いながら、彼は奥様を軽々と抱き上げる。いわゆるお姫様抱っこだ。

「えっ……? ちょ、待って!」

 彼女は目玉がこぼれ落ちそうなくらい丸くしたまま、抱え上げられる。
 止める間もない。踏み込みが爆ぜ、地面を蹴る音が弾けた。彼は腕の中の彼女を羽根布団か何かのように軽々と抱えたまま、迷うことなく断崖(だんがい)へトップスピードで突っ込んでいく。

「……え? あの?」

 その光景に僕は反射的に駆け出しながら、奥様のモニタリング画面を開く。

「待って、止まっ――きゃああああっ!!!」

 奥様の悲鳴が風を切り裂く。数秒もしないうちに、二人は崖(がけ)の縁(ふち)からすっと落ちるみたいに姿を消した。
 僕が追いついたとき、残っていたのは遠ざかる声だけだった。
 立ち尽くして口をぱくぱくさせている、その次の瞬間。突如、崖下(がいか)から暴風が吹き荒れる。

「……は?」

 視界が、黄色に埋め尽くされる。下から、巨大な影がせり上がってきたのだ。
 淡い黄色の巨体。僕の頭ほどもある黒い瞳に、鮮やかなオレンジ色の頬。頭頂部の冠羽(かんう)がゆらりと揺れた。

「ピヨォォォッ!!」

 咆哮(ほうこう)のたびに羽ばたきが空気を叩き、僕の全身の羽毛が剥がれ落ちそうな錯覚が走る。
 お客様の声が、その背中の上から響く。

「さあ行きましょう! 我らが巨大鳥(ナルシャ)――トマトくんに乗って、次の目的地、さわやか酸味のオアシスへ!」
「やばい、やばいって!!」

 僕の焦りなど知らない顔で、二人は怪獣――いや、トマトくんの背で、ただ笑っている。

「……は、はは」

 僕は乾いた笑いしか出せなかった。

「なにそんなに驚いてんの。何回目よ」

 背後から、すいさんが口元を上げて近づいてくる。

「セーフティモードあるのに、ほんと大げさだよ」
「……いや、だって、万が一ってこともあるんじゃないですか」

 僕は言い訳しながら、存在しないはずのもみあげを掻(か)く真似をする。
 すいさんは正面の虚空を覗き込みながら、さらりと言う。

「大丈夫。生命兆候(バイタルサイン)と接続(シナプシス)負荷も全部正常。快・不快の数値もポジティブ6.5。すごく喜んでくださってる」
「……それなら、よかった」

 〈喜んでる〉の一言が、胸の奥に溜まっていたもやもやを、少しだけ洗い流してくれた気がした。

「じゃあ次の目的地は、さわやか酸味のオアシス。先にワープして待ってよっか」

 すいさんが虚空へ手を伸ばした瞬間、僕はその手首を掴んで、ゆっくり前へ歩き出す。しかし彼女は、アバターの脚力を限界まで使い、苔むした地面に足を踏ん張った。

「ちょ、ちょっと……何する気?」
「何って、僕らも飛ぶんですよ」
「……お、お前は勝手に飛びな。ボク、高いとこ無理だから……!」
「え、ハーフダイブですよ? それに、ワープなんていらないって言ったの、誰でしたっけ?」
「そんなこといってない! だめだめだめ、咲(さく)くんまっ……きゃああああっ!!」

 僕がそのまま崖へ踏み出すと、すいさんが獲物を逃がさない蛇みたいに全身で僕に巻きついてくる。でも痛みはない。あるのは、背中越しの体温だけ。
 視界いっぱいに広がるのは、果てのない空。光に波打つ森と大河。そこを裂いて飛ぶ、無数の鳥の群れ。
 ほどなくして、ばさっ、ばさっ――僕が両腕をゆっくり振ると、身体がふわりと浮いた。重力がほどけ、上昇気流にすくい上げられる。風そのものになったように、僕らは空へ溶け込んでいく。

「うわあああっ! 死ぬ! 死ぬって!!」
「はぁ……目、開けてください」

 背中のすいさんに、そっと声をかけた。

「わぉ……」

 表情は見えない。でも、その声だけで全部伝わってくる。

「ほら、飛んで正解だったでしょ? うちの会社の最高傑作なんだから、体験しないともったいないですよ」
「……ふ、ふん。まあ、綺麗なのは綺麗だけど」
「で、いつまでくっついてるんです? 重いんですけど」

 背中には二十キロのプレートを三枚重ねたような重量感がある。けれど触れた感触は驚くほど柔らかく、ふわふわと温かい。首に回った腕からは、香ばしいパンの匂いがする。

「……重い?」

 背中越しに伝わっていた体温が、一瞬で絶対零度まで冷えた。

「い、いえ! めちゃくちゃ軽いです! 何もいないのかと思いました!」
「……さて、お前。今のは重罪だな? よし、じゃあ目的地までこのままおんぶね」
「はい……」

 僕の声は情けなく細くなったのに、なぜか口元だけが勝手に緩みそうになる。
 そうして僕らは、笑い声をこぼしながら飛ぶ二人を追い、群れ飛ぶ鳥たちに紛れて光の中を進んでいった。