小説『失われた西の王国にて』より一部抜粋
***
周囲には、人々のざわめきと、ガラガラ、というキャリーケースの車輪の音。見渡せば、誰もが旅の高揚を顔に浮かべて、隣の誰かと笑い合い、他愛ない話を交わしている。
けれど僕だけが、そこから取り残されていた。
僕は到着掲示板を見上げては、また自動ドアへ視線を戻した。
一度、目を閉じる。次いで両手を何度も握っては開き、足を入れ替えながら、落ち着きのなさを身体で誤魔化す。
スマホを取り出して時刻を確認する。
『21時05分』
続けてチャットアプリを開き、いちばん上にピン留めされた相手のトークを開く。アイコンは、スーツ姿にボタンみたいな目をしたゲームキャラクター。
スクロールすると、すぐに写真が一枚出てくる。〈21時05分到着〉と記された航空券の画像。
僕は息を止め、到着便の掲示板を見上げる。すると――僕が見上げたその瞬間、探していた便名の横に〈到着〉の文字が灯った。
その途端、冷え切っていた胸の奥に、小さな火花が走る。
スマホを握り直して、短くメッセージを送る。
『到着した?』
当然、返事はない。
電源を消し、黒い画面に映った自分の顔を一瞬確かめて、前髪を整える。スマホをジャケットの内側にしまい込み、背筋だけをまっすぐ伸ばす。
到着の下の自動ドアだけを、穴が開くほど見つめる。
やがて自動ドアが開き、人が一人ずつ流れ出てくる。扉が開くたび、胸の奥がどくん、どくんと暴れる。
どれくらい経ったのだろう。自動ドアが、もう一度開く。
胸元あたりまである真っ黒な長髪が、天井の光を受けて淡く艶めいている。目元は少し鋭い。小さく形の整った鼻。ふっくらと赤い唇。周りの誰よりも白い肌の中で、ひときわ目立つ、左目の下の小さな涙ぼくろがひとつ。
上着は淡い黄緑のフード付きジップパーカー。首元の下には青いシャツ、その下で、赤いリボンがはっきりと目を引いた。スカートは、膝にかかるかかからないかの丈。
背中には黒いリュックがひとつ。そこには彼女のプロフィール写真に似た、ボタン目のぬいぐるみ――スーツを着て、両手に銃を抱えたものがぶら下がっている。
視界には、ただ彼女だけが残る。
彼女は僕のほうを見ると、ゆっくり歩いてくる。途中から小さな小走りに変わり、弾む足取りで僕の目の前まで来る。
思っていたよりずっと小さくて、僕の顎に届くか届かないかくらいの、華奢な身体。
視線は、シャツの襟元に揺れるリボンへ吸い寄せられて、頬がかっと熱くなる。
先に口を開いたのは彼女だった。
「……ハヌ?」
僕は大きく息を吸い込んで、やっと返す。
「……うん」
短い返事のあと、気まずい沈黙が落ちる。視線の下で、彼女は両手の指先を合わせたまま、指をすり合わせている。僕も視線のやり場に困って、明後日の方向の看板に目を固定する。
今度は僕のほうが先に言う。
「ごめん。飛行機、遅い時間しか取れなくて……」
「ううん。これが一番安い便だったんでしょ? むしろ、こっちがごめん。わたし、もらってばっかで……」
また沈黙。喉の奥から、出してはいけない言葉が何度もせり上がってくる。僕はそれを、唾と一緒に無理やり押し戻し、別の話題を持ち出す。
「そろそろ行こっか。あんまり遅くなると、よくないし」
「……うん」
「じゃ、タクシー呼ぶから。ちょっと待ってて」
スマホを取り出し、タクシーアプリを起動して配車をかける。なのに、すぐにはしまえない。意味もなく画面のあちこちを触ってしまう。
一分ほどして配車確定の通知が出て、ようやく僕はスマホをポケットへ押し込んだ。
「五分で来るって。外で待つ?」
「うん……」
二人で空港の外へ出ると、背後の明るい照明がすっと遠のいて、代わりに夜空の星が目に入った。
しかしその絶景とは裏腹に、マイナス20度を超える風が容赦なく吹きつけた。
それでも僕にとっては、いつもの寒さだ。だが、隣の彼女の格好を思い出して、そっと横を見る。
彼女は両拳をぎゅっと握り、肩を耳に届くほどすくめて震えていた。白く露出した脚は、白いというより、もう赤く染まっているように見える。
僕は静かにジャケットを脱ぎ、彼女の肩へ掛ける。すると彼女は僕を見上げる。
「……ありがと。でも、ハヌくんは寒くないの? 喘息もあるって言ってたじゃん」
「僕は平気。冬なんて、毎日こんなもんだし」
そう答えた端から、喉の奥がヒューと鳴りそうになるのを、奥歯を噛んで耐える。
僕はリュックを前に抱え、いちばん奥にしまっていた淡い空色のマフラーを取り出した。彼女に似合うと思って選んだ、とっておきの色だ。
彼女の首に巻いていく。顔が近すぎて、彼女の息が頬に触れそうな距離で、指先が少しだけもつれる。
巻き終えると、彼女が小さく言う。
「……なに、これ?」
「琴羽が来るって言ってたから。プレゼント」
「え、ほんとに?」
彼女は両手でマフラーをそっと押さえたまま、僕を見上げる。
彼女も自分のリュックを前に回し、内側から小さな四角い袋を取り出した。まだ漢字が読めないから何と書いてあるのか分からない。赤い地に、赤い実みたいな絵が描かれている。
「わたし、何もないけど。これ、あげる」
「ありがとう」
僕はそれを受け取り、慎重に開ける。中から、赤い小粒をひとつ摘まむ。正体不明の飴を口に放り込む。
最初は、ただ甘い。けれど噛んだ瞬間――中からとろりとした液が滲み出て、舌全体を包む。強烈な酸味が、舌の奥から鼻へ一気に抜けた。
思わず顔をくしゃっとさせ、ほとんど飲み込むように飴を嚥下した。そして、しまった、という気持ちで彼女を見る。
彼女は目を見開いたまま僕を見て、マフラーを引いて顔をはっきり出し、ぷっと吹き出す。
「酸っぱいの、苦手? 梅干しの飴、わたしの好物なんだけど……」
口元から覗いた、少し尖った犬歯。その表情を見た瞬間、胸の奥で何かが弾ける。必死に押し殺していた言葉が、勝手に喉元まで上がってくる。
そして、僕は彼女の手をそっと持ち上げて、言う。
「琴羽。僕と、付き合ってくれませんか。……好きです」
言い終えた途端、遅れて背筋が冷たくなる。嫌われたら、変な人だと思われたらどうしよう。実際に会うのは初めてだというのに。
頭の中が、最悪の妄想でいっぱいになっていく。
しかし彼女は、僕の手をさらに強く握り返した。掌越しに、どく、どく、と彼女の鼓動が伝わってくる。
彼女は視線を少し落とし、片足のつま先で地面をとん、とん、と小さく叩く。
「でもわたし、何もないし……ハヌくんに迷惑、かけるかも……」
「僕も、何もないよ。だったら二人で、積み上げていけばいいでしょ」
彼女はもう一度、つま先で地面を叩いて、それから動きを止める。ゆっくり顔を上げて、僕を見る。
視線が正面でぶつかる。夜空の星が、彼女の瞳の中で細かく揺れていた。
「じゃあ。じゃあ……わたしを、幸せにしてくれる?」
僕は唾を、ごくりと飲み込む。彼女の手を胸元へ引き寄せる。
その言葉は、考えるより先に口を衝いて出た。
「うん。もちろん。何があっても――絶対に」
それがどれほど重い約束になるか、知る由もなかった。ただ、目の前の彼女の笑顔を守りたい。その一心だった。
そうして何も言わず、互いの目を見つめ合い、手の温度だけを確かめていた、その最中。すぐ横で、到着したタクシーが「プッ」と短くクラクションを鳴らして、僕らを現実に引き戻す。
僕らは慌てて手を放し、僕はタクシーへ駆け寄ってドアを開ける。
彼女が先に乗り込み、僕も続く。ドアが閉まると同時に、タクシーは静かに走り出す。
僕はもう一度、隣に座る彼女の手を握った。指を絡めて、きゅっと握り込む。指と指の隙間から、彼女の温度がじんわり伝わってくる。それだけで、まだ冷えていた身体の奥が少しずつ温まっていった。
顔は反対に向けたまま、窓の外の夜空を見る。
これから彼女と刻んでいく物語の数だけ、星がある。そんなふうに、無数の光が空の上で瞬きながら、僕らを導いているように見えた。
たぶん僕は、いま世界でいちばん、幸せな男だ。
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周囲には、人々のざわめきと、ガラガラ、というキャリーケースの車輪の音。見渡せば、誰もが旅の高揚を顔に浮かべて、隣の誰かと笑い合い、他愛ない話を交わしている。
けれど僕だけが、そこから取り残されていた。
僕は到着掲示板を見上げては、また自動ドアへ視線を戻した。
一度、目を閉じる。次いで両手を何度も握っては開き、足を入れ替えながら、落ち着きのなさを身体で誤魔化す。
スマホを取り出して時刻を確認する。
『21時05分』
続けてチャットアプリを開き、いちばん上にピン留めされた相手のトークを開く。アイコンは、スーツ姿にボタンみたいな目をしたゲームキャラクター。
スクロールすると、すぐに写真が一枚出てくる。〈21時05分到着〉と記された航空券の画像。
僕は息を止め、到着便の掲示板を見上げる。すると――僕が見上げたその瞬間、探していた便名の横に〈到着〉の文字が灯った。
その途端、冷え切っていた胸の奥に、小さな火花が走る。
スマホを握り直して、短くメッセージを送る。
『到着した?』
当然、返事はない。
電源を消し、黒い画面に映った自分の顔を一瞬確かめて、前髪を整える。スマホをジャケットの内側にしまい込み、背筋だけをまっすぐ伸ばす。
到着の下の自動ドアだけを、穴が開くほど見つめる。
やがて自動ドアが開き、人が一人ずつ流れ出てくる。扉が開くたび、胸の奥がどくん、どくんと暴れる。
どれくらい経ったのだろう。自動ドアが、もう一度開く。
胸元あたりまである真っ黒な長髪が、天井の光を受けて淡く艶めいている。目元は少し鋭い。小さく形の整った鼻。ふっくらと赤い唇。周りの誰よりも白い肌の中で、ひときわ目立つ、左目の下の小さな涙ぼくろがひとつ。
上着は淡い黄緑のフード付きジップパーカー。首元の下には青いシャツ、その下で、赤いリボンがはっきりと目を引いた。スカートは、膝にかかるかかからないかの丈。
背中には黒いリュックがひとつ。そこには彼女のプロフィール写真に似た、ボタン目のぬいぐるみ――スーツを着て、両手に銃を抱えたものがぶら下がっている。
視界には、ただ彼女だけが残る。
彼女は僕のほうを見ると、ゆっくり歩いてくる。途中から小さな小走りに変わり、弾む足取りで僕の目の前まで来る。
思っていたよりずっと小さくて、僕の顎に届くか届かないかくらいの、華奢な身体。
視線は、シャツの襟元に揺れるリボンへ吸い寄せられて、頬がかっと熱くなる。
先に口を開いたのは彼女だった。
「……ハヌ?」
僕は大きく息を吸い込んで、やっと返す。
「……うん」
短い返事のあと、気まずい沈黙が落ちる。視線の下で、彼女は両手の指先を合わせたまま、指をすり合わせている。僕も視線のやり場に困って、明後日の方向の看板に目を固定する。
今度は僕のほうが先に言う。
「ごめん。飛行機、遅い時間しか取れなくて……」
「ううん。これが一番安い便だったんでしょ? むしろ、こっちがごめん。わたし、もらってばっかで……」
また沈黙。喉の奥から、出してはいけない言葉が何度もせり上がってくる。僕はそれを、唾と一緒に無理やり押し戻し、別の話題を持ち出す。
「そろそろ行こっか。あんまり遅くなると、よくないし」
「……うん」
「じゃ、タクシー呼ぶから。ちょっと待ってて」
スマホを取り出し、タクシーアプリを起動して配車をかける。なのに、すぐにはしまえない。意味もなく画面のあちこちを触ってしまう。
一分ほどして配車確定の通知が出て、ようやく僕はスマホをポケットへ押し込んだ。
「五分で来るって。外で待つ?」
「うん……」
二人で空港の外へ出ると、背後の明るい照明がすっと遠のいて、代わりに夜空の星が目に入った。
しかしその絶景とは裏腹に、マイナス20度を超える風が容赦なく吹きつけた。
それでも僕にとっては、いつもの寒さだ。だが、隣の彼女の格好を思い出して、そっと横を見る。
彼女は両拳をぎゅっと握り、肩を耳に届くほどすくめて震えていた。白く露出した脚は、白いというより、もう赤く染まっているように見える。
僕は静かにジャケットを脱ぎ、彼女の肩へ掛ける。すると彼女は僕を見上げる。
「……ありがと。でも、ハヌくんは寒くないの? 喘息もあるって言ってたじゃん」
「僕は平気。冬なんて、毎日こんなもんだし」
そう答えた端から、喉の奥がヒューと鳴りそうになるのを、奥歯を噛んで耐える。
僕はリュックを前に抱え、いちばん奥にしまっていた淡い空色のマフラーを取り出した。彼女に似合うと思って選んだ、とっておきの色だ。
彼女の首に巻いていく。顔が近すぎて、彼女の息が頬に触れそうな距離で、指先が少しだけもつれる。
巻き終えると、彼女が小さく言う。
「……なに、これ?」
「琴羽が来るって言ってたから。プレゼント」
「え、ほんとに?」
彼女は両手でマフラーをそっと押さえたまま、僕を見上げる。
彼女も自分のリュックを前に回し、内側から小さな四角い袋を取り出した。まだ漢字が読めないから何と書いてあるのか分からない。赤い地に、赤い実みたいな絵が描かれている。
「わたし、何もないけど。これ、あげる」
「ありがとう」
僕はそれを受け取り、慎重に開ける。中から、赤い小粒をひとつ摘まむ。正体不明の飴を口に放り込む。
最初は、ただ甘い。けれど噛んだ瞬間――中からとろりとした液が滲み出て、舌全体を包む。強烈な酸味が、舌の奥から鼻へ一気に抜けた。
思わず顔をくしゃっとさせ、ほとんど飲み込むように飴を嚥下した。そして、しまった、という気持ちで彼女を見る。
彼女は目を見開いたまま僕を見て、マフラーを引いて顔をはっきり出し、ぷっと吹き出す。
「酸っぱいの、苦手? 梅干しの飴、わたしの好物なんだけど……」
口元から覗いた、少し尖った犬歯。その表情を見た瞬間、胸の奥で何かが弾ける。必死に押し殺していた言葉が、勝手に喉元まで上がってくる。
そして、僕は彼女の手をそっと持ち上げて、言う。
「琴羽。僕と、付き合ってくれませんか。……好きです」
言い終えた途端、遅れて背筋が冷たくなる。嫌われたら、変な人だと思われたらどうしよう。実際に会うのは初めてだというのに。
頭の中が、最悪の妄想でいっぱいになっていく。
しかし彼女は、僕の手をさらに強く握り返した。掌越しに、どく、どく、と彼女の鼓動が伝わってくる。
彼女は視線を少し落とし、片足のつま先で地面をとん、とん、と小さく叩く。
「でもわたし、何もないし……ハヌくんに迷惑、かけるかも……」
「僕も、何もないよ。だったら二人で、積み上げていけばいいでしょ」
彼女はもう一度、つま先で地面を叩いて、それから動きを止める。ゆっくり顔を上げて、僕を見る。
視線が正面でぶつかる。夜空の星が、彼女の瞳の中で細かく揺れていた。
「じゃあ。じゃあ……わたしを、幸せにしてくれる?」
僕は唾を、ごくりと飲み込む。彼女の手を胸元へ引き寄せる。
その言葉は、考えるより先に口を衝いて出た。
「うん。もちろん。何があっても――絶対に」
それがどれほど重い約束になるか、知る由もなかった。ただ、目の前の彼女の笑顔を守りたい。その一心だった。
そうして何も言わず、互いの目を見つめ合い、手の温度だけを確かめていた、その最中。すぐ横で、到着したタクシーが「プッ」と短くクラクションを鳴らして、僕らを現実に引き戻す。
僕らは慌てて手を放し、僕はタクシーへ駆け寄ってドアを開ける。
彼女が先に乗り込み、僕も続く。ドアが閉まると同時に、タクシーは静かに走り出す。
僕はもう一度、隣に座る彼女の手を握った。指を絡めて、きゅっと握り込む。指と指の隙間から、彼女の温度がじんわり伝わってくる。それだけで、まだ冷えていた身体の奥が少しずつ温まっていった。
顔は反対に向けたまま、窓の外の夜空を見る。
これから彼女と刻んでいく物語の数だけ、星がある。そんなふうに、無数の光が空の上で瞬きながら、僕らを導いているように見えた。
たぶん僕は、いま世界でいちばん、幸せな男だ。

