――2061年11月22日 午前9時 神奈川県のどこか
コートにマフラー、その上から、もこもことした灰色の手袋まで嵌めているのに、僕はまだ肩をすくめたままだった。風が吹いているわけでもないのに、冷気だけが肌に張りつき、なかなか離れてくれない。
本当は両手を脇に突っ込みたい。けれど手の中には、花が一輪。だから腕を組むことはできなかった。
目の前には、直径1メートルほどの円い大理石の台座があり、その中央に、小さな庭が設えてあった。そこに立っているのは、枝だけが細く伸びた小さな木――樹木葬のための一本だ。
周囲を見渡すと、よく手入れされたヨーロッパ風の庭園が広がっている。地面の芝は黄味がかった金色に枯れ、等間隔に植えられた木々の足元では、祭壇の縁を囲むツゲだけが濃い緑を保っていた。
僕はもう一度、正面に視線を戻す。
木の根元、地面に埋め込まれるようにして、黒い石板が一枚。埃ひとつなく、磨かれた表面が明るく艶を返している。石板の縁には、白く象られた羽の意匠がいくつか刻まれていた。
そこに、一人の女性の名前。そして、その脇に小さく――〈ひまわり星で待つ ピオとピクとともに〉と刻まれている。
僕は石板に視線を置いたまま、静かに目を閉じる。それから目を開け、腰を折る。
手にしていた薔薇一輪を、石板のすぐ隣にある小さなステンレスの花筒へ挿す。筒は地面とほとんど同じ高さに埋め込まれていて、すでにいくつもの薔薇の花束が、まっすぐに挿されていた。
――真冬だというのに。
僕の薔薇もその間にすっと収まり、すぐにひとつの束の一部になる。
腰を伸ばし、木に向かって小さく頭を下げる。それから踵を返して、歩き出した。
***
樹林墓地の入口まで戻ると、黒いコートを着た女性が待っていた。腰のあたりまで伸びる黒髪は、耳の上で小さな白い子犬のヘアピンに留められている。マフラーで顔の半分を隠している。吐く息に合わせて、丸い眼鏡が白く曇っては消えている。
「ねえ、寒すぎ。早く行こ。毎年、どんどん寒くなってない?」
「そうですね。ニュースでは地球温暖化の影響だって言ってましたけど」
「温暖化って、あったかくなるんじゃないの? まあ、夏は夏で暑すぎて死にそうだけど」
僕は彼女の隣まで歩み寄り、震える肩を見て、思わず口元だけで笑った。それから自分の手袋を外し、彼女の手を取って被せはじめる。右手の手袋を外した瞬間、薬指の銀色が、雲ひとつない冬の陽をかすかに反射する。
「これ、使ってください」
「いいって。咲くんも寒いでしょ」
「大丈夫です。僕は平気です。僕、強いので」
すると彼女は僕を一度だけ見上げ、目元だけで笑ってみせる。それ以上は何も言わない。
手袋をきちんと嵌め終えたところで、僕は改めて声をかける。
「それより……本当に、手を合わせなくていいんですか」
「うん……家族でもないし。ボクが行ったら、かえって迷惑な気がして……」
「はぁ、ほんとそういうところありますよね。変な意地、っていうか」
「いいの。そういうのは、いい」
ちょうどそのとき、視界の端に業務アラートが滑り込んでくる。
『50分後、10:00 VRテック・サミットの基調講演スケジュールが開始されます』
通知を確認し、視線をずらして、保存していたサミットの告知ページを開き直す。
『VRテック・サミット 第40回』という大きなタイトル。
その下、基調講演リストにこうある。
『Next VR:低侵襲型VRとVRホスピスの明日――株式会社アフターグロウ代表 金子咲』
それを眺めていると、横から彼女が覗き込んでくる。
「なに、そんなにニヤついて。そんな嬉しいの?」
「全部、すいさんとか彩羽とか葵とか……みんなのおかげです。そりゃ、嬉しいですよ」
「みんなのおかげだって。キラキラしてるね~」
彼女はくすくす笑う。僕はそんな彼女の横顔を一度だけ見て、もう一度口を開く。
「ほら、急ぎますよ。時間、あまりないので」
「はいはい、社長」
彼女はそう返しながら、駅のあるほうへ身体を向ける。僕は彼女の手首を掴み、足を止めさせる。
「寒いし……タクシー、乗りましょうか」
その言葉に、彼女は目を丸くして僕を見上げる。
「ほんと、変だって。タクシー乗ろうとか言うし、ヒューマノイドも雇うし」
「……AIも、使う側次第ですから」
「ふぅん……らしくないな」
それ以上は追及せず、僕は素早くタクシーを呼んだ。二人で並んで歩道の端に立ち、車が来るのを待つ。
いつの間にか、空から白い雪が、ひとひら、ふたひらと舞い落ちてきている。僕が顔を上げてそれを見ていると、彼女がぽつりと言う。
「それにしても。ボクも、もうすぐ三十三か」
「そうですね。僕も……もうすぐ三十代です」
返事を待っても、彼女は何も言わない。気になって横を見ると、彼女は首を少し傾け、呆れたように僕を見ていた。
「……なんですか」
「いや。やっぱり鈍感バカだなって思って」
「え、また? なんでですか、今度は」
「教えなーい。自分で考えなさい」
「ほんとにもう!」
そんなふうに小さく言い合っているうちに、黒い小型タクシーが一台、目の前に滑り込んできた。ドアが静かに開く。
彼女が先に乗り込むのを待って、僕も後から乗る。
ドアが閉まりはじめた、そのとき。彼女は窓の外を見ながら口を開いた。
「そういえばさ。あの小説家の先生。新作出したんだって」
「え? 本当ですか?」
胸が急に跳ねる。十年ぶりの新作。仕事に呑まれすぎて、最後に小説を読んだのがいつだったかさえ、思い出せない。
「えっと……タイトルがね」
彼女は少しだけ間を置いて、言った。
「――『僕が書いた世界の果てで、君の幸せを問う』」
コートにマフラー、その上から、もこもことした灰色の手袋まで嵌めているのに、僕はまだ肩をすくめたままだった。風が吹いているわけでもないのに、冷気だけが肌に張りつき、なかなか離れてくれない。
本当は両手を脇に突っ込みたい。けれど手の中には、花が一輪。だから腕を組むことはできなかった。
目の前には、直径1メートルほどの円い大理石の台座があり、その中央に、小さな庭が設えてあった。そこに立っているのは、枝だけが細く伸びた小さな木――樹木葬のための一本だ。
周囲を見渡すと、よく手入れされたヨーロッパ風の庭園が広がっている。地面の芝は黄味がかった金色に枯れ、等間隔に植えられた木々の足元では、祭壇の縁を囲むツゲだけが濃い緑を保っていた。
僕はもう一度、正面に視線を戻す。
木の根元、地面に埋め込まれるようにして、黒い石板が一枚。埃ひとつなく、磨かれた表面が明るく艶を返している。石板の縁には、白く象られた羽の意匠がいくつか刻まれていた。
そこに、一人の女性の名前。そして、その脇に小さく――〈ひまわり星で待つ ピオとピクとともに〉と刻まれている。
僕は石板に視線を置いたまま、静かに目を閉じる。それから目を開け、腰を折る。
手にしていた薔薇一輪を、石板のすぐ隣にある小さなステンレスの花筒へ挿す。筒は地面とほとんど同じ高さに埋め込まれていて、すでにいくつもの薔薇の花束が、まっすぐに挿されていた。
――真冬だというのに。
僕の薔薇もその間にすっと収まり、すぐにひとつの束の一部になる。
腰を伸ばし、木に向かって小さく頭を下げる。それから踵を返して、歩き出した。
***
樹林墓地の入口まで戻ると、黒いコートを着た女性が待っていた。腰のあたりまで伸びる黒髪は、耳の上で小さな白い子犬のヘアピンに留められている。マフラーで顔の半分を隠している。吐く息に合わせて、丸い眼鏡が白く曇っては消えている。
「ねえ、寒すぎ。早く行こ。毎年、どんどん寒くなってない?」
「そうですね。ニュースでは地球温暖化の影響だって言ってましたけど」
「温暖化って、あったかくなるんじゃないの? まあ、夏は夏で暑すぎて死にそうだけど」
僕は彼女の隣まで歩み寄り、震える肩を見て、思わず口元だけで笑った。それから自分の手袋を外し、彼女の手を取って被せはじめる。右手の手袋を外した瞬間、薬指の銀色が、雲ひとつない冬の陽をかすかに反射する。
「これ、使ってください」
「いいって。咲くんも寒いでしょ」
「大丈夫です。僕は平気です。僕、強いので」
すると彼女は僕を一度だけ見上げ、目元だけで笑ってみせる。それ以上は何も言わない。
手袋をきちんと嵌め終えたところで、僕は改めて声をかける。
「それより……本当に、手を合わせなくていいんですか」
「うん……家族でもないし。ボクが行ったら、かえって迷惑な気がして……」
「はぁ、ほんとそういうところありますよね。変な意地、っていうか」
「いいの。そういうのは、いい」
ちょうどそのとき、視界の端に業務アラートが滑り込んでくる。
『50分後、10:00 VRテック・サミットの基調講演スケジュールが開始されます』
通知を確認し、視線をずらして、保存していたサミットの告知ページを開き直す。
『VRテック・サミット 第40回』という大きなタイトル。
その下、基調講演リストにこうある。
『Next VR:低侵襲型VRとVRホスピスの明日――株式会社アフターグロウ代表 金子咲』
それを眺めていると、横から彼女が覗き込んでくる。
「なに、そんなにニヤついて。そんな嬉しいの?」
「全部、すいさんとか彩羽とか葵とか……みんなのおかげです。そりゃ、嬉しいですよ」
「みんなのおかげだって。キラキラしてるね~」
彼女はくすくす笑う。僕はそんな彼女の横顔を一度だけ見て、もう一度口を開く。
「ほら、急ぎますよ。時間、あまりないので」
「はいはい、社長」
彼女はそう返しながら、駅のあるほうへ身体を向ける。僕は彼女の手首を掴み、足を止めさせる。
「寒いし……タクシー、乗りましょうか」
その言葉に、彼女は目を丸くして僕を見上げる。
「ほんと、変だって。タクシー乗ろうとか言うし、ヒューマノイドも雇うし」
「……AIも、使う側次第ですから」
「ふぅん……らしくないな」
それ以上は追及せず、僕は素早くタクシーを呼んだ。二人で並んで歩道の端に立ち、車が来るのを待つ。
いつの間にか、空から白い雪が、ひとひら、ふたひらと舞い落ちてきている。僕が顔を上げてそれを見ていると、彼女がぽつりと言う。
「それにしても。ボクも、もうすぐ三十三か」
「そうですね。僕も……もうすぐ三十代です」
返事を待っても、彼女は何も言わない。気になって横を見ると、彼女は首を少し傾け、呆れたように僕を見ていた。
「……なんですか」
「いや。やっぱり鈍感バカだなって思って」
「え、また? なんでですか、今度は」
「教えなーい。自分で考えなさい」
「ほんとにもう!」
そんなふうに小さく言い合っているうちに、黒い小型タクシーが一台、目の前に滑り込んできた。ドアが静かに開く。
彼女が先に乗り込むのを待って、僕も後から乗る。
ドアが閉まりはじめた、そのとき。彼女は窓の外を見ながら口を開いた。
「そういえばさ。あの小説家の先生。新作出したんだって」
「え? 本当ですか?」
胸が急に跳ねる。十年ぶりの新作。仕事に呑まれすぎて、最後に小説を読んだのがいつだったかさえ、思い出せない。
「えっと……タイトルがね」
彼女は少しだけ間を置いて、言った。
「――『僕が書いた世界の果てで、君の幸せを問う』」

