三日目・残りダイブ時間:約三十分
市街地を離れ、電車でいくつも駅を過ぎ、さらに人が運転するタクシーへ乗り換えるまで。僕らの間では、どんな言葉も交わされなかった。
タクシーの助手席にはお客様。そのすぐ後ろの窓側に奥様が座り、隣にすいさん。反対側の窓際には僕がいる。
奥様はひたすら窓の外を見ていた。霜で真っ白に凍りついたガラスに指先を当て、円を描く。描いては消え、また描く。
キュ、キュッ、キュゥ――
湿った指先がガラスを擦る音が、密室の中でやけに鋭く響く。
その沈黙を割ったのは、誰でもない運転手だ。
「着きましたよ」
「……はい。これでお願いします」
お客様は、ほとんど聞こえない声で返事をし、現金を差し出した。それから先に車を降り、奥様側のドアを開けて待った。
僕が最後にタクシーを降りるころには、空はもう薄暗く沈みはじめていた。
日が落ちるにつれて、冷気はいっそう増していった。ダウンの隙間を縫って入り込む風が、生肌に鋭く刺さる。
空港の正面の入口にはガラスの自動ドア。その上には、真っ青な案内板が掲げられ、〈1番出口〉と表示されている。
その真下で、お客様は口を真一文字に結び、両手を拳にして立っている。それを見て、奥様は大きく息を吐く。
「寒くて死にそう。早く行こう?」
すると、お客様が口を開いた。
「……そうですね。寒いですね。よければ、これでも」
彼は右手を持ち上げる。手が震えているというより、かくん、かくんと不自然に跳ねている。
そして次の瞬間、手元に淡い空色の薄手のマフラーが現れる。それを両手でつかみ、奥様のそばへ寄る。首へ巻く動きは、息を詰めるほど慎重だ。
彼女はその手を両手で包み、下ろさせる。
「……やめて。そんなに震えないで。子どもじゃないんだから」
一拍置いて、彼女は続ける。
「死ぬのは……わたしなのに。なんでトトさんが震えるの」
彼女は彼の手を引いたまま、空港の中へ入っていく。
その二人の後を追って中に足を踏み入れると、磨き上げられた真っ白な大理石の床が視界いっぱいに広がった。外とは対照的に、ここには暖気が満ちている。
長いホールに、A、B、C、Dと並ぶ飛行機のチェックインカウンター。しかし、この広い空間のどこにも、人の姿はない。足音もない。あるのは、温風機の「ウウゥゥン……」という低い唸りだけ。
そして正面――長いホールのちょうど中央に、〈保安検査場〉の看板が掲げられていた。その下に、巨大なガラスの自動ドアがひとつ。
ところが、どういうわけか。ドアの向こうには黒い闇が沈んでいる。灯りはひとつもない。
その奇妙さのさなか、保安検査場の上にある黒い横長の電光掲示板――〈出発便〉が、ぱっと点滅する。最上段の一枠に、真っ白な文字が浮かび上がる。
『18:00 行先:ひまわり星 便名:2017 まもなく保安検査通過締切』
同時に、女性のアナウンスが場内に響く。
『ピヨピヨ航空、2017便、ひまわり星行き。まもなく保安検査場の通過締切時刻となります。ご搭乗のお客様は、お早めに保安検査場へお進みください。繰り返します――』
ひまわり星が何を意味するのか、僕にはまだ分からない。なのに、あまりにも可愛らしいその響きが――その名が呼ばれるたび、胸の奥の深いところまで連動して、一緒に揺さぶられる気がする。
奥様は電光掲示板を見上げ、ふっと笑う。それから首をめぐらせてお客様を見上げ、言う。
「なに、ちゃんと準備してたんじゃん」
言い終えると、彼女は彼の手をそっと離し、背を向けて保安検査場のほうへ視線を向けた。その瞬間――ほんの一瞬だけ。奥様の輪郭に、ザザッ、とノイズが走った。
けれど奥様は気にした様子もなく、背中で手を組んだまま、片足を上げて床をとん、とん、と軽く叩く。
「じゃ、わたし、行くね。あっちが……たぶん、旅の終着点」
そう言って、彼女は前へゆっくり歩きだし、言葉を継ぐ。
「……三日間、楽しかったよ、トトさん。ピピちゃん、ププさんも」
僕はお客様を盗み見る。
彼は俯いたまま、手袋が潰れるほど拳を握りしめていた。強く噛んだ唇の間から、血が滲んでいる。
奥様はもう一度、ノイズを纏うように揺れて――それでも足取りは止まらない。保安検査場のほうへ、ただ遠ざかっていく。
そのとき、すいさんが僕の手を掴む。片手で目元を覆い、肩を震わせている。
「このままは……いやだ……」
息混じりの、言葉にならない呟き。その次の瞬間、すいさんの姿が光の粒となって、消えた。
代わりに、視界の端へ無機質な通知がふわりと浮かぶ。
『1台のギアの接続が終了しました』
僕は反射的にすいさんへメッセージを送ろうとしたが、目の前を見て止まった。
保安検査場の自動ドアの手前。闇との境目。そこに立つ奥様の手首を、お客様が転ぶような勢いで駆け寄り、掴み止めた。
「……何してるんですか。約束、守らないとでしょう?」
奥様は振り返らない。背を向けたまま、乾いた声で言う。それでも、彼はその手を離さない。
「姫様は……あなたは……幸せ、でしたか……」
返事はない。続くのは、沈黙だけ。
数十秒が過ぎて、ようやく奥様が振り向いた。半分伏せた瞳から、透明な雫がこぼれ落ちる。
彼女はお客様の手を振りほどいた。空港の静寂を裂く声で叫ぶ。
「バカ……バカバカ! 何が幸せなの……!!」
彼女は一歩踏み出し、言葉を叩きつける。
「その鬱陶しい仮面つけてさ! 三日間、どこに行っても、隅っこで突っ立って。振り返ったら、しょんぼりした顔ばっかりして! それで、わたしがどうやって幸せになれるっていうの……?」
奥様は両手を握りしめ、片足で床を踏みつける。
こん、こん――小さな足音が、彼女の鋭い声に混じって響く。
「わたしが、そんなにバカに見えた? 記憶なんてなくても……誰かが毎日、髪洗って、オムツ替えて、背中掻いて、マッサージしてくれてることくらい、わかるよ!!」
彼女は自分の胸を強く叩く。
「何も見えない、何も聞こえない暗闇の中で……その手の感触だけが、世界の全てだった! 毎日、毎日、ずっと……!」
奥様はひとつ息を吸い、今度は指先でお客様の胸を、こつこつと突く。そのたびに彼の体は押し戻され、また元の位置へ戻る。
「……でも、あなた。わたし以外にも、見守らなきゃいけない存在がいるんじゃないの? そんなあなたが毎日、半分死んだわたしの世話だけして……。しかも、わたしはそれが誰なのかすら思い出せない。……その気持ち、わかる?」
叫びは、だんだん細くなっていく。やがて嗚咽に溶け、肩の震えだけが残る。
お客様は彼女の肩を抱き、喉の奥から絞り出すような声で言う。
「……じゃあ、僕は。どうすればいい……?」
彼女は涙に濡れたまま、答える。
「……もう、いいの。放して。……そして、あなたがしたいことをして。あなたが、幸せに生きて」
「……でも」
彼は言いかけて、一度言葉を呑み込む。それから、震える声で続ける。
「……あなたがいないと、僕は幸せになれない」
すると奥様の手が上がり――
――ぱちん。
乾いた音が、空港全体に響き渡る。
お客様は、叩かれた勢いで顔を横に向けたまま、何も言わない。ゆっくりと正面へ戻す。
奥様の輪郭に、またノイズが走りはじめる。不規則に消えかけては戻り、また消えかける。
「最悪……。じゃあ、わたしと過ごした時間って……あなたにとって、幸せじゃなかったってこと?」
「それは……」
奥様は一歩詰め、返事をする隙も与えず畳みかける。
「わたしと一緒にいて。あなた、幸せだった?」
「……はい」
「なんで? わたし、何した?」
「毎日、世話して……ご飯作って……咳するなって、マフラーも……服も作って。何から何まで、僕のために……」
その言葉を聞いて、彼女は両目を拭い、小さく頷く。
「……うん。そう。……それでいいの」
赤く充血した瞳を上げ、まっすぐ彼を見据えて言う。
「今日、料理して、編み物して……わかったの。わたしがやりたくてやっただけなのに、わたし自身は食べられないくらい辛い料理とか。別に好きでもない青い服とか……作ってみたら、結局ぜんぶ、あなたのためのものだった」
彼女はほんの少しだけ口元を持ち上げ、震える手を持ち上げる。指先で、慎重に彼の頬を撫でる。
「だから……あなたは、あなたの好きなことをして。わたしのことは、もう気にしなくていい。好きなことをして笑ってるあなたを見たら……わたしも、少しは幸せになれる気がする」
そのとき、視界に通知が割り込んだ。
『新しいデバイスからの接続が確認されました』
「すい……」
僕は反射的に視線を逸らし、言いかけて――すぐに口を閉じた。
そこに立っていたのは、僕の腰ほどの高さ。人形みたいに小さな影。腰まで届く黒い髪。白い肌。一重なのに切れ長で大きい目。白いワンピース。
素材リストにあった、謎の五つ目のアバター。
説明なんて要らなかった。言葉がなくても、この場所で彼女の存在が示す先は、ひとりしかいない。
そして、その少女は体にぐっと力を入れ、肩を上げると、前へ歩き出す。
誰かが近づいていることにも気づかないまま、お客様は自分の頬に置かれた奥様の手を握り直し、震える声で言葉を続ける。
「……でも。僕は、僕は……金もなくて、いい服の一着すら買ってあげられなくて……。いつもひとりで小説ばかり書いて……あなたが倒れることにも――」
だが、最後まで言い切るより先に。少女――娘さんが、お客様の真後ろまで来て、迷いなく、ぐいっ、と彼の足を踏んだ。そして、ちょこちょこと駆け寄って、奥様の胸に飛び込む。
「……ママ……っ、うぅ……」
奥様は最初、両手を宙に上げたまま目を丸くして娘さんを見つめた。けれど、すぐに小さく微笑んで、何も言わずに、泣きじゃくる小さな背をそっと引き寄せて抱きしめる。
何度か背中を撫でてから、奥様は顔を上げ、お客様を見る。反対の手を開き、胸元を少し晒すような仕草で言う。
「ほら、早く。最後だよ。仮面も、外して。トトさん」
お客様の右手が仮面へ伸びかけて、いったん止まる。それでも次の瞬間、ためらいを断ち切るように掴んだ。
さらり、と真っ白な仮面が光にほどけて、空へ消える。
背中側にいるせいで顔は見えない。見えないのに、見えてしまう気がする。
その顔を正面から見つめた奥様は、目をぎゅっと細める。瞳が埋もれてしまいそうなほどに。
開いたままの手を両目に押し当て、声にならない息をこぼす。
「……ほんと、バカ……。ずっと、そんな顔してたの……?」
するとお客様は何も言わず、両腕を広げて奥様と娘さんをまとめて抱きしめた。
三人の影が、ようやくひとつに重なる。
気づけば僕は、片手で目を覆って俯いていた。だが、ほどなくして掌を突き抜けるみたいに、メッセージが浮かんでくる。
『そっちはどう……? もう……奥様、長くないかも。状態、かなり悪い』
それを読んだ瞬間、僕ははっと顔を上げ、前を見る。
奥様の輪郭が、ぱち、ぱち、と点滅している。もうノイズなんて生易しいものじゃない。光の粒――データの原型に近いものが、心拍みたいな間隔で明滅しはじめていた。
そして視界に、工場出荷直後の機器特有の、英語混じりの文言が割り込む。
『ALERT:USER2に連動した生命兆候に持続的な異常値を検知』
ところが、次に来るはずの指示がない。あるのはただ、「ピッ、ピッ、ピッ」という鈍い警報音だけだ。耳の奥で、しつこく鳴りつづける。
僕は警告ウィンドウを消し、視界の片隅の〈強制終了〉を見つめる。そしてもう一度、目の前の奥様を見る。
瞬きひとつで、人の命が左右される。
そんな重圧に、奥歯を噛みしめすぎて顎が痙攣する。
いったん、目を閉じる。深く息を吸って、吐いて。何度も繰り返す。
浮かぶのは、父と翡翠姉さん。彩羽、そして、すいさん。思い出すだけで、胸の片隅が鋭く疼く。
……でも。
静かに目を開けて、前を見る。
そこには、互いに手を取り合う三人の姿がある。闇に飲まれそうなドアの前でも、天井の白い光の下でも、その輪郭だけははっきりと見える。
――幸福って、たぶん。
糸巻きを抱えて、自分が進みたい方向へ進んでいくうちに、いつの間にか糸が周りの糸と絡まり合って、かたちになっているもの。逆に、誰かの背中だけを追いかけていると、ほどけてしまうもの。
そう思うと同時に、僕は視界の〈強制終了〉ボタンを非表示にする。
それを合図に、お客様が小さく一歩だけ後ずさる。手の中に仮面を取り出し、また装着する。天井を一度だけ見上げ、すぐに視線を落として――
「さあ。まだ、最後の目的地には到着しておりません。それでは――ピヨピヨツアー担当、トト。最後まで、二人の姫君の旅を責任をもってお守りいたします!」
これまでで一番、明るく軽やかな声。きっちり腰を折って礼をした、その瞬間。
「ピヨォッ!!」
赤いサンタ服のトマトくんが、空港の正面扉をぶち壊して突っ込んできた。
轟音とともに、分厚いガラス壁が粉々に弾け飛ぶ。
外からは、「ウゥゥゥ――」というサイレンの音。パトカーの赤と青が明滅している。
『巨大怪獣を確認! まだ空港内にいる方は、速やかに避難してください! 緊急事態です!』
焦ったスピーカーの声が、外から割れたように聞こえる。そこへ消防車のサイレン、人々のざわめき、足音が雪崩れ込み――静まり返っていた空港は一瞬で、無数の音に埋め尽くされる。
「ピヨッ、ピヨッ」
そんな騒然とした空気の中で、トマトくんの背後から、ピオとピクがのんきにひょい、と姿を現す。その二羽は奥様の肩へ行儀よく留まり、軽やかに囀りはじめる。
「ピオ……ピク……そしてトマトちゃんも」
彼女は目を潤ませる。
その姿を見て、お客様はかすかに笑う。それから二人の背後へ回り、右の奥様と左の娘さんを腰から抱き寄せるように支える。
そして、跳ぶ。トマトくんの背へ、乗り移る。
「それでは、お姫様たち。次の目的地、ひまわり星へ。安全にお連れします」
「きゃっ!」
鼻水でぐしゃぐしゃの顔のまま、お客様に張り付いて叫ぶ娘さん。
奥様は上着を脱ぎ、娘さんの肩に掛けてあげた。続けて首元のネックレスを外し、マフラーの隙間から引き出して、娘さんの首へかける。
それから、滲む瞳のまま、やわらかな声で言う。
「……大丈夫。娘……には、わたしがいるから」
娘さんはお客様の膝に身を預けたまま、上半身だけを左へ傾け、奥様の胸に顔を押しつける。
そのまま声を殺して泣く。
「娘ってなに……。私、ことり。ことり、だよ……」
「……ごめんね。ことり。きれいな名前……」
「ことりちゃん」
「……ことりちゃん」
それから奥様は娘さんを右手で胸元へ、抱き上げた。
そのまま、右手薬指の指輪を静かに外す。娘さんへ差し出しかけて――だが、すぐに引っ込める。
そして自分の左手薬指へ、はめ直す。月光が指輪に鈍く反射し、その光が奥様の瞳の奥で、淡い燐光となって揺れている。
そのとき、頭上からお客様の声が降ってきた。
「さあ、ププさんもお早く。もう出国しちゃいますよ!」
「え……? 僕は大丈夫です……!」
両手を胸の前で上げ、左右に小さく振ってみせる。すると今度は彼の右に座る奥様が、僕を見下ろし。腫れきった瞼。
それでも、あの鋭さだけは残っていて、その視線に押されて、僕は何も言えなくなった。
結局、僕もトマトくんの背へ。
三人の背中から少し離れたところに腰を下ろした、その瞬間。翼が「ばさっ、ばさっ」と空気を叩きはじめる。
それと同時にトマトくんは、保安検査場の闇を背にして、反対側――破壊されたガラスの向こうに広がる、夜空へ向かって飛び出した。
そのまま僕らは冬の空へ滑り込んでいく。
雲を突き抜けたあたりで、世界の温度がふっと変わる。さっきまで遠くに見えていた星々が、頭のすぐ上で瞬いている。
下には雲の海。丸い満月の光を受けて、青白くうねりながら地平線のほうへ波打っている。
僕らはその中を進む。トマトくんの背に乗り、隣ではピオとピクが風を切りながら空を泳いでいる。
耳の奥ではまだ、奥様のバイタル異常を知らせる警告音だけが「ピッ、ピッ、ピッ」と鳴り続けていた。しかし、その音さえも、雲の波に溶け込み、ひとつの背景音になっていく。
片手を上げて風を遮りながら、前を見る。
奥様は、ぱちぱちと明滅しながら、ぎりぎり輪郭を保っていた。お客様の隣へぴたりと寄り、腕が触れ合うくらいの距離に座っている。右手は、娘さんの頭をそっと包むように添えたままだ。
奥様はさらに彼の体へ身を寄せながら言った。
「ありがとう。わがままなお願い、聞いてくれて」
「とんでもありません」
少しの沈黙のあと、彼女は言葉を継ぐ。
「……最後にもう一つだけ。お願いしていい?」
「もちろんです。何でも」
「……名前、教えて。たぶん、聞いたところで何も思い出せない気がして……聞かないつもりだったのに……。でも、やっぱり、知りたい」
「僕は――」
お客様は一瞬だけ迷って、それから静かに言う。
「ハヌル、です」
「へえ……ハヌル、ハヌル……か。呼びにくいから、ハヌでいい?」
「……もちろんです」
「じゃ、ハヌ!」
僕はただ、二人の背中を見ていた。
お客様の背筋は相変わらずまっすぐで、前だけを見ている。
その隣の奥様の輪郭は、少しずつ薄くなっていく。やがて体が透けはじめ、肩を寄せているはずなのに、前で奥様に抱かれている娘さんの姿まで、透き通ってうっすら見えてくる。
彼はただ前だけを見つめたまま、もう一度だけ口を開いた。声は、驚くほど柔らかい。
「僕も最後に、質問があります」
「なに?」
「姫様――いや。琴羽。君は……幸せだったか?」
すると彼女は、お客様の右手に自分の左手を絡め、指をきゅっと固く組む。
組み合った指先から、輪郭がさらさらと崩れはじめる。
そして――
『ALERT:USER2の心拍数急激低下』
『VITAL:30… 20… ERROR』
残酷なほど鮮明な赤い警告ウィンドウが、僕の網膜へ滝のように降り注ぐ。
奥様の声が、今にも途切れそうに震える。
「わたし――」
それきり。声はちりちりとノイズに攫われ、途切れた。
奥様の身体が、数え切れない光の粒へとほどけていく。
きらきらと、ゆっくり、ゆっくり。
一粒一粒の中に、微細なデータの亀裂が走る。その亀裂は文字となり、小説の夜空の奥へ静かに刻まれていった。
そして、それとほとんど同時に――
『SYSTEM:USER2の生体信号消失』
「ピ――――――――」
耳の奥で、一定の電子音だけが鳴り続ける。この世界の風の音も、インコたちの囀りも、少しずつ遠のいていった。
眼前には、星明かりへほどけていく光。耳元には、生命の終わりを告げる電子音。
その二つだけが、最後まで残る。
視界が滲んだ。僕はとっさに手を伸ばして、何かを掴もうとする。しかし指先に触れたのは、鋭く吹き抜ける風のうねりだけ。
次の瞬間、視界の片隅に無機質な通知が浮かぶ。
『1台のギアの接続が終了しました』
そのとき、不思議なことが起きた。
自由に空を飛んでいたピオとピクが、接続終了のアラートと同時にぱっと輝き、データの粒子へとほどけた。奥様とは違う、青い光と淡い若草色の粒。
そして迷いなく、すでに遠くへ散っていた奥様の光の中へ飛び込んでいく。
それぞれ違う色の粒が、ひとつに混ざって。一瞬だけ虹色に閃いたあと、星明かりの中でも光を失わないまま、どんどん小さくなって――最後はひとつの点になり、消える。
涙で濡れた視界を、僕は乱暴に拭う。
前を見る。
娘さんはお客様の太ももの上にうつ伏せになり、両拳を強く握りしめたまま、小刻みに震えている。
お客様は、宙に残った右手を不自然に開いたまま、指先だけをわずかに丸めて、その姿勢を保ち続ける。
そして、ぽつりと呟く。
「……それは。よかった」
何に対する返事なのだろう。彼にだけ聞こえたのか。それとも、彼がそう信じると決めただけなのか。どちらにせよ、それは僕が踏み入るべき領域じゃない気がした。
その言葉を背に、僕らはしばらく――長くはないはずなのに、永遠のような時間を過ごした。
星に手が届くその瞬間まで、ただ黙って、泳ぎ続ける。
忘れられない依頼。
そしてこれは、僕が長い夜を越えて、新しい夜明けへ踏み出すための――始まりの物語でもあった。
市街地を離れ、電車でいくつも駅を過ぎ、さらに人が運転するタクシーへ乗り換えるまで。僕らの間では、どんな言葉も交わされなかった。
タクシーの助手席にはお客様。そのすぐ後ろの窓側に奥様が座り、隣にすいさん。反対側の窓際には僕がいる。
奥様はひたすら窓の外を見ていた。霜で真っ白に凍りついたガラスに指先を当て、円を描く。描いては消え、また描く。
キュ、キュッ、キュゥ――
湿った指先がガラスを擦る音が、密室の中でやけに鋭く響く。
その沈黙を割ったのは、誰でもない運転手だ。
「着きましたよ」
「……はい。これでお願いします」
お客様は、ほとんど聞こえない声で返事をし、現金を差し出した。それから先に車を降り、奥様側のドアを開けて待った。
僕が最後にタクシーを降りるころには、空はもう薄暗く沈みはじめていた。
日が落ちるにつれて、冷気はいっそう増していった。ダウンの隙間を縫って入り込む風が、生肌に鋭く刺さる。
空港の正面の入口にはガラスの自動ドア。その上には、真っ青な案内板が掲げられ、〈1番出口〉と表示されている。
その真下で、お客様は口を真一文字に結び、両手を拳にして立っている。それを見て、奥様は大きく息を吐く。
「寒くて死にそう。早く行こう?」
すると、お客様が口を開いた。
「……そうですね。寒いですね。よければ、これでも」
彼は右手を持ち上げる。手が震えているというより、かくん、かくんと不自然に跳ねている。
そして次の瞬間、手元に淡い空色の薄手のマフラーが現れる。それを両手でつかみ、奥様のそばへ寄る。首へ巻く動きは、息を詰めるほど慎重だ。
彼女はその手を両手で包み、下ろさせる。
「……やめて。そんなに震えないで。子どもじゃないんだから」
一拍置いて、彼女は続ける。
「死ぬのは……わたしなのに。なんでトトさんが震えるの」
彼女は彼の手を引いたまま、空港の中へ入っていく。
その二人の後を追って中に足を踏み入れると、磨き上げられた真っ白な大理石の床が視界いっぱいに広がった。外とは対照的に、ここには暖気が満ちている。
長いホールに、A、B、C、Dと並ぶ飛行機のチェックインカウンター。しかし、この広い空間のどこにも、人の姿はない。足音もない。あるのは、温風機の「ウウゥゥン……」という低い唸りだけ。
そして正面――長いホールのちょうど中央に、〈保安検査場〉の看板が掲げられていた。その下に、巨大なガラスの自動ドアがひとつ。
ところが、どういうわけか。ドアの向こうには黒い闇が沈んでいる。灯りはひとつもない。
その奇妙さのさなか、保安検査場の上にある黒い横長の電光掲示板――〈出発便〉が、ぱっと点滅する。最上段の一枠に、真っ白な文字が浮かび上がる。
『18:00 行先:ひまわり星 便名:2017 まもなく保安検査通過締切』
同時に、女性のアナウンスが場内に響く。
『ピヨピヨ航空、2017便、ひまわり星行き。まもなく保安検査場の通過締切時刻となります。ご搭乗のお客様は、お早めに保安検査場へお進みください。繰り返します――』
ひまわり星が何を意味するのか、僕にはまだ分からない。なのに、あまりにも可愛らしいその響きが――その名が呼ばれるたび、胸の奥の深いところまで連動して、一緒に揺さぶられる気がする。
奥様は電光掲示板を見上げ、ふっと笑う。それから首をめぐらせてお客様を見上げ、言う。
「なに、ちゃんと準備してたんじゃん」
言い終えると、彼女は彼の手をそっと離し、背を向けて保安検査場のほうへ視線を向けた。その瞬間――ほんの一瞬だけ。奥様の輪郭に、ザザッ、とノイズが走った。
けれど奥様は気にした様子もなく、背中で手を組んだまま、片足を上げて床をとん、とん、と軽く叩く。
「じゃ、わたし、行くね。あっちが……たぶん、旅の終着点」
そう言って、彼女は前へゆっくり歩きだし、言葉を継ぐ。
「……三日間、楽しかったよ、トトさん。ピピちゃん、ププさんも」
僕はお客様を盗み見る。
彼は俯いたまま、手袋が潰れるほど拳を握りしめていた。強く噛んだ唇の間から、血が滲んでいる。
奥様はもう一度、ノイズを纏うように揺れて――それでも足取りは止まらない。保安検査場のほうへ、ただ遠ざかっていく。
そのとき、すいさんが僕の手を掴む。片手で目元を覆い、肩を震わせている。
「このままは……いやだ……」
息混じりの、言葉にならない呟き。その次の瞬間、すいさんの姿が光の粒となって、消えた。
代わりに、視界の端へ無機質な通知がふわりと浮かぶ。
『1台のギアの接続が終了しました』
僕は反射的にすいさんへメッセージを送ろうとしたが、目の前を見て止まった。
保安検査場の自動ドアの手前。闇との境目。そこに立つ奥様の手首を、お客様が転ぶような勢いで駆け寄り、掴み止めた。
「……何してるんですか。約束、守らないとでしょう?」
奥様は振り返らない。背を向けたまま、乾いた声で言う。それでも、彼はその手を離さない。
「姫様は……あなたは……幸せ、でしたか……」
返事はない。続くのは、沈黙だけ。
数十秒が過ぎて、ようやく奥様が振り向いた。半分伏せた瞳から、透明な雫がこぼれ落ちる。
彼女はお客様の手を振りほどいた。空港の静寂を裂く声で叫ぶ。
「バカ……バカバカ! 何が幸せなの……!!」
彼女は一歩踏み出し、言葉を叩きつける。
「その鬱陶しい仮面つけてさ! 三日間、どこに行っても、隅っこで突っ立って。振り返ったら、しょんぼりした顔ばっかりして! それで、わたしがどうやって幸せになれるっていうの……?」
奥様は両手を握りしめ、片足で床を踏みつける。
こん、こん――小さな足音が、彼女の鋭い声に混じって響く。
「わたしが、そんなにバカに見えた? 記憶なんてなくても……誰かが毎日、髪洗って、オムツ替えて、背中掻いて、マッサージしてくれてることくらい、わかるよ!!」
彼女は自分の胸を強く叩く。
「何も見えない、何も聞こえない暗闇の中で……その手の感触だけが、世界の全てだった! 毎日、毎日、ずっと……!」
奥様はひとつ息を吸い、今度は指先でお客様の胸を、こつこつと突く。そのたびに彼の体は押し戻され、また元の位置へ戻る。
「……でも、あなた。わたし以外にも、見守らなきゃいけない存在がいるんじゃないの? そんなあなたが毎日、半分死んだわたしの世話だけして……。しかも、わたしはそれが誰なのかすら思い出せない。……その気持ち、わかる?」
叫びは、だんだん細くなっていく。やがて嗚咽に溶け、肩の震えだけが残る。
お客様は彼女の肩を抱き、喉の奥から絞り出すような声で言う。
「……じゃあ、僕は。どうすればいい……?」
彼女は涙に濡れたまま、答える。
「……もう、いいの。放して。……そして、あなたがしたいことをして。あなたが、幸せに生きて」
「……でも」
彼は言いかけて、一度言葉を呑み込む。それから、震える声で続ける。
「……あなたがいないと、僕は幸せになれない」
すると奥様の手が上がり――
――ぱちん。
乾いた音が、空港全体に響き渡る。
お客様は、叩かれた勢いで顔を横に向けたまま、何も言わない。ゆっくりと正面へ戻す。
奥様の輪郭に、またノイズが走りはじめる。不規則に消えかけては戻り、また消えかける。
「最悪……。じゃあ、わたしと過ごした時間って……あなたにとって、幸せじゃなかったってこと?」
「それは……」
奥様は一歩詰め、返事をする隙も与えず畳みかける。
「わたしと一緒にいて。あなた、幸せだった?」
「……はい」
「なんで? わたし、何した?」
「毎日、世話して……ご飯作って……咳するなって、マフラーも……服も作って。何から何まで、僕のために……」
その言葉を聞いて、彼女は両目を拭い、小さく頷く。
「……うん。そう。……それでいいの」
赤く充血した瞳を上げ、まっすぐ彼を見据えて言う。
「今日、料理して、編み物して……わかったの。わたしがやりたくてやっただけなのに、わたし自身は食べられないくらい辛い料理とか。別に好きでもない青い服とか……作ってみたら、結局ぜんぶ、あなたのためのものだった」
彼女はほんの少しだけ口元を持ち上げ、震える手を持ち上げる。指先で、慎重に彼の頬を撫でる。
「だから……あなたは、あなたの好きなことをして。わたしのことは、もう気にしなくていい。好きなことをして笑ってるあなたを見たら……わたしも、少しは幸せになれる気がする」
そのとき、視界に通知が割り込んだ。
『新しいデバイスからの接続が確認されました』
「すい……」
僕は反射的に視線を逸らし、言いかけて――すぐに口を閉じた。
そこに立っていたのは、僕の腰ほどの高さ。人形みたいに小さな影。腰まで届く黒い髪。白い肌。一重なのに切れ長で大きい目。白いワンピース。
素材リストにあった、謎の五つ目のアバター。
説明なんて要らなかった。言葉がなくても、この場所で彼女の存在が示す先は、ひとりしかいない。
そして、その少女は体にぐっと力を入れ、肩を上げると、前へ歩き出す。
誰かが近づいていることにも気づかないまま、お客様は自分の頬に置かれた奥様の手を握り直し、震える声で言葉を続ける。
「……でも。僕は、僕は……金もなくて、いい服の一着すら買ってあげられなくて……。いつもひとりで小説ばかり書いて……あなたが倒れることにも――」
だが、最後まで言い切るより先に。少女――娘さんが、お客様の真後ろまで来て、迷いなく、ぐいっ、と彼の足を踏んだ。そして、ちょこちょこと駆け寄って、奥様の胸に飛び込む。
「……ママ……っ、うぅ……」
奥様は最初、両手を宙に上げたまま目を丸くして娘さんを見つめた。けれど、すぐに小さく微笑んで、何も言わずに、泣きじゃくる小さな背をそっと引き寄せて抱きしめる。
何度か背中を撫でてから、奥様は顔を上げ、お客様を見る。反対の手を開き、胸元を少し晒すような仕草で言う。
「ほら、早く。最後だよ。仮面も、外して。トトさん」
お客様の右手が仮面へ伸びかけて、いったん止まる。それでも次の瞬間、ためらいを断ち切るように掴んだ。
さらり、と真っ白な仮面が光にほどけて、空へ消える。
背中側にいるせいで顔は見えない。見えないのに、見えてしまう気がする。
その顔を正面から見つめた奥様は、目をぎゅっと細める。瞳が埋もれてしまいそうなほどに。
開いたままの手を両目に押し当て、声にならない息をこぼす。
「……ほんと、バカ……。ずっと、そんな顔してたの……?」
するとお客様は何も言わず、両腕を広げて奥様と娘さんをまとめて抱きしめた。
三人の影が、ようやくひとつに重なる。
気づけば僕は、片手で目を覆って俯いていた。だが、ほどなくして掌を突き抜けるみたいに、メッセージが浮かんでくる。
『そっちはどう……? もう……奥様、長くないかも。状態、かなり悪い』
それを読んだ瞬間、僕ははっと顔を上げ、前を見る。
奥様の輪郭が、ぱち、ぱち、と点滅している。もうノイズなんて生易しいものじゃない。光の粒――データの原型に近いものが、心拍みたいな間隔で明滅しはじめていた。
そして視界に、工場出荷直後の機器特有の、英語混じりの文言が割り込む。
『ALERT:USER2に連動した生命兆候に持続的な異常値を検知』
ところが、次に来るはずの指示がない。あるのはただ、「ピッ、ピッ、ピッ」という鈍い警報音だけだ。耳の奥で、しつこく鳴りつづける。
僕は警告ウィンドウを消し、視界の片隅の〈強制終了〉を見つめる。そしてもう一度、目の前の奥様を見る。
瞬きひとつで、人の命が左右される。
そんな重圧に、奥歯を噛みしめすぎて顎が痙攣する。
いったん、目を閉じる。深く息を吸って、吐いて。何度も繰り返す。
浮かぶのは、父と翡翠姉さん。彩羽、そして、すいさん。思い出すだけで、胸の片隅が鋭く疼く。
……でも。
静かに目を開けて、前を見る。
そこには、互いに手を取り合う三人の姿がある。闇に飲まれそうなドアの前でも、天井の白い光の下でも、その輪郭だけははっきりと見える。
――幸福って、たぶん。
糸巻きを抱えて、自分が進みたい方向へ進んでいくうちに、いつの間にか糸が周りの糸と絡まり合って、かたちになっているもの。逆に、誰かの背中だけを追いかけていると、ほどけてしまうもの。
そう思うと同時に、僕は視界の〈強制終了〉ボタンを非表示にする。
それを合図に、お客様が小さく一歩だけ後ずさる。手の中に仮面を取り出し、また装着する。天井を一度だけ見上げ、すぐに視線を落として――
「さあ。まだ、最後の目的地には到着しておりません。それでは――ピヨピヨツアー担当、トト。最後まで、二人の姫君の旅を責任をもってお守りいたします!」
これまでで一番、明るく軽やかな声。きっちり腰を折って礼をした、その瞬間。
「ピヨォッ!!」
赤いサンタ服のトマトくんが、空港の正面扉をぶち壊して突っ込んできた。
轟音とともに、分厚いガラス壁が粉々に弾け飛ぶ。
外からは、「ウゥゥゥ――」というサイレンの音。パトカーの赤と青が明滅している。
『巨大怪獣を確認! まだ空港内にいる方は、速やかに避難してください! 緊急事態です!』
焦ったスピーカーの声が、外から割れたように聞こえる。そこへ消防車のサイレン、人々のざわめき、足音が雪崩れ込み――静まり返っていた空港は一瞬で、無数の音に埋め尽くされる。
「ピヨッ、ピヨッ」
そんな騒然とした空気の中で、トマトくんの背後から、ピオとピクがのんきにひょい、と姿を現す。その二羽は奥様の肩へ行儀よく留まり、軽やかに囀りはじめる。
「ピオ……ピク……そしてトマトちゃんも」
彼女は目を潤ませる。
その姿を見て、お客様はかすかに笑う。それから二人の背後へ回り、右の奥様と左の娘さんを腰から抱き寄せるように支える。
そして、跳ぶ。トマトくんの背へ、乗り移る。
「それでは、お姫様たち。次の目的地、ひまわり星へ。安全にお連れします」
「きゃっ!」
鼻水でぐしゃぐしゃの顔のまま、お客様に張り付いて叫ぶ娘さん。
奥様は上着を脱ぎ、娘さんの肩に掛けてあげた。続けて首元のネックレスを外し、マフラーの隙間から引き出して、娘さんの首へかける。
それから、滲む瞳のまま、やわらかな声で言う。
「……大丈夫。娘……には、わたしがいるから」
娘さんはお客様の膝に身を預けたまま、上半身だけを左へ傾け、奥様の胸に顔を押しつける。
そのまま声を殺して泣く。
「娘ってなに……。私、ことり。ことり、だよ……」
「……ごめんね。ことり。きれいな名前……」
「ことりちゃん」
「……ことりちゃん」
それから奥様は娘さんを右手で胸元へ、抱き上げた。
そのまま、右手薬指の指輪を静かに外す。娘さんへ差し出しかけて――だが、すぐに引っ込める。
そして自分の左手薬指へ、はめ直す。月光が指輪に鈍く反射し、その光が奥様の瞳の奥で、淡い燐光となって揺れている。
そのとき、頭上からお客様の声が降ってきた。
「さあ、ププさんもお早く。もう出国しちゃいますよ!」
「え……? 僕は大丈夫です……!」
両手を胸の前で上げ、左右に小さく振ってみせる。すると今度は彼の右に座る奥様が、僕を見下ろし。腫れきった瞼。
それでも、あの鋭さだけは残っていて、その視線に押されて、僕は何も言えなくなった。
結局、僕もトマトくんの背へ。
三人の背中から少し離れたところに腰を下ろした、その瞬間。翼が「ばさっ、ばさっ」と空気を叩きはじめる。
それと同時にトマトくんは、保安検査場の闇を背にして、反対側――破壊されたガラスの向こうに広がる、夜空へ向かって飛び出した。
そのまま僕らは冬の空へ滑り込んでいく。
雲を突き抜けたあたりで、世界の温度がふっと変わる。さっきまで遠くに見えていた星々が、頭のすぐ上で瞬いている。
下には雲の海。丸い満月の光を受けて、青白くうねりながら地平線のほうへ波打っている。
僕らはその中を進む。トマトくんの背に乗り、隣ではピオとピクが風を切りながら空を泳いでいる。
耳の奥ではまだ、奥様のバイタル異常を知らせる警告音だけが「ピッ、ピッ、ピッ」と鳴り続けていた。しかし、その音さえも、雲の波に溶け込み、ひとつの背景音になっていく。
片手を上げて風を遮りながら、前を見る。
奥様は、ぱちぱちと明滅しながら、ぎりぎり輪郭を保っていた。お客様の隣へぴたりと寄り、腕が触れ合うくらいの距離に座っている。右手は、娘さんの頭をそっと包むように添えたままだ。
奥様はさらに彼の体へ身を寄せながら言った。
「ありがとう。わがままなお願い、聞いてくれて」
「とんでもありません」
少しの沈黙のあと、彼女は言葉を継ぐ。
「……最後にもう一つだけ。お願いしていい?」
「もちろんです。何でも」
「……名前、教えて。たぶん、聞いたところで何も思い出せない気がして……聞かないつもりだったのに……。でも、やっぱり、知りたい」
「僕は――」
お客様は一瞬だけ迷って、それから静かに言う。
「ハヌル、です」
「へえ……ハヌル、ハヌル……か。呼びにくいから、ハヌでいい?」
「……もちろんです」
「じゃ、ハヌ!」
僕はただ、二人の背中を見ていた。
お客様の背筋は相変わらずまっすぐで、前だけを見ている。
その隣の奥様の輪郭は、少しずつ薄くなっていく。やがて体が透けはじめ、肩を寄せているはずなのに、前で奥様に抱かれている娘さんの姿まで、透き通ってうっすら見えてくる。
彼はただ前だけを見つめたまま、もう一度だけ口を開いた。声は、驚くほど柔らかい。
「僕も最後に、質問があります」
「なに?」
「姫様――いや。琴羽。君は……幸せだったか?」
すると彼女は、お客様の右手に自分の左手を絡め、指をきゅっと固く組む。
組み合った指先から、輪郭がさらさらと崩れはじめる。
そして――
『ALERT:USER2の心拍数急激低下』
『VITAL:30… 20… ERROR』
残酷なほど鮮明な赤い警告ウィンドウが、僕の網膜へ滝のように降り注ぐ。
奥様の声が、今にも途切れそうに震える。
「わたし――」
それきり。声はちりちりとノイズに攫われ、途切れた。
奥様の身体が、数え切れない光の粒へとほどけていく。
きらきらと、ゆっくり、ゆっくり。
一粒一粒の中に、微細なデータの亀裂が走る。その亀裂は文字となり、小説の夜空の奥へ静かに刻まれていった。
そして、それとほとんど同時に――
『SYSTEM:USER2の生体信号消失』
「ピ――――――――」
耳の奥で、一定の電子音だけが鳴り続ける。この世界の風の音も、インコたちの囀りも、少しずつ遠のいていった。
眼前には、星明かりへほどけていく光。耳元には、生命の終わりを告げる電子音。
その二つだけが、最後まで残る。
視界が滲んだ。僕はとっさに手を伸ばして、何かを掴もうとする。しかし指先に触れたのは、鋭く吹き抜ける風のうねりだけ。
次の瞬間、視界の片隅に無機質な通知が浮かぶ。
『1台のギアの接続が終了しました』
そのとき、不思議なことが起きた。
自由に空を飛んでいたピオとピクが、接続終了のアラートと同時にぱっと輝き、データの粒子へとほどけた。奥様とは違う、青い光と淡い若草色の粒。
そして迷いなく、すでに遠くへ散っていた奥様の光の中へ飛び込んでいく。
それぞれ違う色の粒が、ひとつに混ざって。一瞬だけ虹色に閃いたあと、星明かりの中でも光を失わないまま、どんどん小さくなって――最後はひとつの点になり、消える。
涙で濡れた視界を、僕は乱暴に拭う。
前を見る。
娘さんはお客様の太ももの上にうつ伏せになり、両拳を強く握りしめたまま、小刻みに震えている。
お客様は、宙に残った右手を不自然に開いたまま、指先だけをわずかに丸めて、その姿勢を保ち続ける。
そして、ぽつりと呟く。
「……それは。よかった」
何に対する返事なのだろう。彼にだけ聞こえたのか。それとも、彼がそう信じると決めただけなのか。どちらにせよ、それは僕が踏み入るべき領域じゃない気がした。
その言葉を背に、僕らはしばらく――長くはないはずなのに、永遠のような時間を過ごした。
星に手が届くその瞬間まで、ただ黙って、泳ぎ続ける。
忘れられない依頼。
そしてこれは、僕が長い夜を越えて、新しい夜明けへ踏み出すための――始まりの物語でもあった。

