玄関の鍵を回して、コートの裾を引きずりながらリビングへ入った瞬間。目に飛び込んできたのは、昨日とまったく同じ格好の彩羽だった。
床にうつ伏せになり、ギアに指先を添えたまま工具をいじっている。足は相変わらず、爪先まで青白く冷えている。
「おかえり……ごはん作っといたから、適当に食べて」
いつも通りの台詞。いつも通りの声。
僕は返事の代わりにコートを脱ぎ、彼女の頭から被せて顔を覆った。
「彩羽、靴下履けって言っただろ。それに、そのパジャマ、いつまで着てんだよ。前に新しいの買ってきただろ?」
コートの下で彩羽の身体がビクン、と跳ねた。彼女は工具を床に置くと、もぞもぞと全身をくねらせ、コートを払い落として叫ぶ。
「もー! なにすんの! 集中してたのに!」
そのまま同じ場所に座り直し、僕を見上げる。眉が八の字に歪んでいる。そんな彼女の顔は見ようともせず、僕はカバンを持ったままソファに腰を落とす。
「ねえ、無視? ほんと意味わかんない。早くごはん食べて、寝るなら寝てよ!」
横で声を荒らげる彩羽から目を逸らしたまま、それでも口は勝手に開く。
「なあ、彩羽、医大――」
「はぁ?」
低く硬い声が、僕の言葉を途中で切り落とす。
「何回言えばわかるの。イロハは、これでいいの。VRがいいって言ってるの!」
「……結局さ、お金がないから、やりたいことも我慢してるんでしょ」
僕は彼女に顔を向ける。彩羽の目尻はふっと落ち、薄い涙が滲んでいた。
「……なんで信じてくれないの。イロハが本当にやりたいって言ってるのに……」
「なんでよりによってVRなんだよ。就職しやすいから? それとも、僕の真似? それで……幸せなのか?」
すると彼女は目を据え、僕を睨み上げて答える。
「お兄ちゃん、ほんと、ばか……。イロハは、ただ……お兄ちゃんと一緒に働きたいだけなのに」
その言葉が、胸の奥に刺さって抜けない。彼女の顔を見ているだけで、こめかみの奥がずきずきと痛み出す。
口を開きかけて、すぐに閉じる。言えない。言えば、きっと何かが壊れる気がした。それでも、これまで踏んできた道の重さが、後悔の輪郭が、噤んだ唇をこじ開ける。
「……少し待てよ。次の昇進さえ取れたら、彩羽が本当にやりたいこと、ちゃんと――」
言い終わるより早く、彩羽が立ち上がる。
「なにその言い方……じゃあ、お兄ちゃんはイロハのために、無理して働いてるってこと? 家でも一回も笑わないで、毎日つらそうな顔して……?」
「当たり前だろ。僕が働くのは――」
「ばか」
声は小さいのに、僕の耳にはどんな音よりも鮮明に響いた。
「じゃあ、お兄ちゃんは何がしたかったの。お兄ちゃんがやりたいこと、やればいいじゃん。イロハのことなんか気にしないで……」
そう言いながら、彼女は両手で顔を覆う。指の隙間から、堪えきれなかったすすり泣きが漏れる。
「イロハのせいで、お兄ちゃんがあんなに無理してるの見て……医大なんて、行きたいって思うわけないじゃん! 幸せって……なによそれ。意味わかんない!」
叫ぶように言い捨てて、彼女は自分の部屋へ駆けていった。
バンッ!
乾いた音が部屋を揺らし、ドアが乱暴に閉まる。
残されたのは、いつもよりいっそう薄暗くて、目まで霞んでくるような古ぼけた黄色の電灯だけ。
眉間に指を当てたまま、俯く。ローテーブルの上に置かれた夕飯が、視界の端からじわりと滲むように入ってくる。
白い湯気がふわりふわりと立ちのぼる炊きたての白米。油がつやつやと光る目玉焼きがひとつ。その横に、タコさんに切られたウインナーが三つ。水をいっぱいに注いだコップがひとつ。
香ばしいはずの匂いが、鼻の奥から喉までをひりひりと痛ませる。
箸を取る。けれど、口は動かない。
結局、箸を置いたまま、僕は自分の部屋へ戻る。
着替えもしないまま、部屋の隅のテントに潜り込む。マットレスに仰向けになり、テントの天井のいちばん高い一点――布が交わる頂点へ手を伸ばして、かすかに呟く。
「僕は、いったい、何がしたかったんだろう……」
テントの頂点は、指先に触れそうで触れない。伸ばせば伸ばすほど遠ざかっていく。
目を閉じると、瞼の裏に浮かんだのは――VRの向こうで、幸せそうに笑う父の顔。彩羽の顔。ほかの誰かたちの顔。だが、その幻は長くは続かなかった。
上から粘つく赤い液体がだらりと垂れ落ち、目の前の映像が塗り潰され、別のものに書き換わっていく。
体温を失って冷え切った黒い唇で、生気のない目のまま僕を見つめる父の顔。声を殺して髪を掴み、引きちぎるみたいに握りしめながら泣いている彩羽。血の気の引いた真っ赤な手でカバンを握りしめ、雪の中で足を取られながら歩いていく、すいさんの後ろ姿。
そして、VRを掲げる僕の足元で、涙をこぼしながら、それでも口元だけは笑って、手を伸ばしてくるお客様たち。
僕は布団の中で身体を丸めた。
『5分後、21:00 日次報告・業務スケジュールが開始されます』
見慣れた通知が、視界に滑り込んでくる。
僕は洗面台へ向かって冷水で顔を洗い始める。さっきまで火照っていた頬が、一瞬で冷え切る。
水を拭いもせず、ぼんやり鏡の中の自分を見る。
いつも通りの僕。伸び放題の黒髪。鋭いだけの小さな目。腫れているせいで、黙っているだけでも誰かを睨んでいるみたいに見える。
それでも今は、なぜか。濁って生気のなかったはずの瞳の奥に、確かな光が宿りはじめていた。
僕は洗面台を背にして、リビングへ戻る。彩羽が用意してくれた夕飯を、ほとんど噛まずに口へ押し込む。
コップ一杯の水を一息に飲み干し、床に置きっぱなしになっていた、彩羽の工具を拾う。それからリビングのクローゼット、奥の箱から、指の第一関節ほどの古いヒューマノイド用の大容量SSDを取り出す。
部屋へ戻り、テントの中へ。
手は自分でも驚くほど迷いなく動いた。ギアの後部パネルを外し、内部の奥、蜘蛛の糸ほど細い赤いラインが二本走っている場所を確認する。ためらいを押し殺して、ハサミを入れる。
プツン、と小さな断線音がする。
次に、右耳の後ろ。そこに埋め込まれた、細長い長方形のホログラム端末――外部プロセッサの脱着ボタンを指で探る。剃り残した髭一本ほどの厚みしかない突起が、指腹にかすかに引っかかる。
押し込むと、即座にアラートが浮かぶ。
『端末の外部プロセッサ脱着ボタンが入力されました。許可しますか?』
僕は視線で〈許可〉を選ぶ。
一瞬、視界が暗転し、ほどなくして戻る。
耳元からわずかにせり出したハードウェアを引き抜き、工具で慎重に分解する。SSDをヒューマノイド用に換装し、パーツを戻し、ハードウェアを再挿入。端末を再起動。
軽快な起動音のあと、また通知が現れる。
『警告:端末に未確認のSSDが検出されました。容量が100テラバイトを超過しています。身体に危険が及ぶ恐れがあるため、近日中に近隣の専門店で交換・修理を推奨します』
僕はその通知を視界の端へ追いやり、いつも通りギアを頭に嵌める。そしてフルダイブボタンを押す。
ハーフダイブより強い圧迫感。きついスイムキャップを被せられたみたいに、頭が締め付けられる。
やがて視界は完全に闇へ沈み、聞き慣れた音声が耳の奥に落ちてくる。
『ようこそ、スタジオ・ジェネシスへ』
見慣れた台詞。いつもやる作業。でも、今日は違う。
今日も、お客様の笑顔のために。
いや、今日は僕と、皆の笑顔のために。
床にうつ伏せになり、ギアに指先を添えたまま工具をいじっている。足は相変わらず、爪先まで青白く冷えている。
「おかえり……ごはん作っといたから、適当に食べて」
いつも通りの台詞。いつも通りの声。
僕は返事の代わりにコートを脱ぎ、彼女の頭から被せて顔を覆った。
「彩羽、靴下履けって言っただろ。それに、そのパジャマ、いつまで着てんだよ。前に新しいの買ってきただろ?」
コートの下で彩羽の身体がビクン、と跳ねた。彼女は工具を床に置くと、もぞもぞと全身をくねらせ、コートを払い落として叫ぶ。
「もー! なにすんの! 集中してたのに!」
そのまま同じ場所に座り直し、僕を見上げる。眉が八の字に歪んでいる。そんな彼女の顔は見ようともせず、僕はカバンを持ったままソファに腰を落とす。
「ねえ、無視? ほんと意味わかんない。早くごはん食べて、寝るなら寝てよ!」
横で声を荒らげる彩羽から目を逸らしたまま、それでも口は勝手に開く。
「なあ、彩羽、医大――」
「はぁ?」
低く硬い声が、僕の言葉を途中で切り落とす。
「何回言えばわかるの。イロハは、これでいいの。VRがいいって言ってるの!」
「……結局さ、お金がないから、やりたいことも我慢してるんでしょ」
僕は彼女に顔を向ける。彩羽の目尻はふっと落ち、薄い涙が滲んでいた。
「……なんで信じてくれないの。イロハが本当にやりたいって言ってるのに……」
「なんでよりによってVRなんだよ。就職しやすいから? それとも、僕の真似? それで……幸せなのか?」
すると彼女は目を据え、僕を睨み上げて答える。
「お兄ちゃん、ほんと、ばか……。イロハは、ただ……お兄ちゃんと一緒に働きたいだけなのに」
その言葉が、胸の奥に刺さって抜けない。彼女の顔を見ているだけで、こめかみの奥がずきずきと痛み出す。
口を開きかけて、すぐに閉じる。言えない。言えば、きっと何かが壊れる気がした。それでも、これまで踏んできた道の重さが、後悔の輪郭が、噤んだ唇をこじ開ける。
「……少し待てよ。次の昇進さえ取れたら、彩羽が本当にやりたいこと、ちゃんと――」
言い終わるより早く、彩羽が立ち上がる。
「なにその言い方……じゃあ、お兄ちゃんはイロハのために、無理して働いてるってこと? 家でも一回も笑わないで、毎日つらそうな顔して……?」
「当たり前だろ。僕が働くのは――」
「ばか」
声は小さいのに、僕の耳にはどんな音よりも鮮明に響いた。
「じゃあ、お兄ちゃんは何がしたかったの。お兄ちゃんがやりたいこと、やればいいじゃん。イロハのことなんか気にしないで……」
そう言いながら、彼女は両手で顔を覆う。指の隙間から、堪えきれなかったすすり泣きが漏れる。
「イロハのせいで、お兄ちゃんがあんなに無理してるの見て……医大なんて、行きたいって思うわけないじゃん! 幸せって……なによそれ。意味わかんない!」
叫ぶように言い捨てて、彼女は自分の部屋へ駆けていった。
バンッ!
乾いた音が部屋を揺らし、ドアが乱暴に閉まる。
残されたのは、いつもよりいっそう薄暗くて、目まで霞んでくるような古ぼけた黄色の電灯だけ。
眉間に指を当てたまま、俯く。ローテーブルの上に置かれた夕飯が、視界の端からじわりと滲むように入ってくる。
白い湯気がふわりふわりと立ちのぼる炊きたての白米。油がつやつやと光る目玉焼きがひとつ。その横に、タコさんに切られたウインナーが三つ。水をいっぱいに注いだコップがひとつ。
香ばしいはずの匂いが、鼻の奥から喉までをひりひりと痛ませる。
箸を取る。けれど、口は動かない。
結局、箸を置いたまま、僕は自分の部屋へ戻る。
着替えもしないまま、部屋の隅のテントに潜り込む。マットレスに仰向けになり、テントの天井のいちばん高い一点――布が交わる頂点へ手を伸ばして、かすかに呟く。
「僕は、いったい、何がしたかったんだろう……」
テントの頂点は、指先に触れそうで触れない。伸ばせば伸ばすほど遠ざかっていく。
目を閉じると、瞼の裏に浮かんだのは――VRの向こうで、幸せそうに笑う父の顔。彩羽の顔。ほかの誰かたちの顔。だが、その幻は長くは続かなかった。
上から粘つく赤い液体がだらりと垂れ落ち、目の前の映像が塗り潰され、別のものに書き換わっていく。
体温を失って冷え切った黒い唇で、生気のない目のまま僕を見つめる父の顔。声を殺して髪を掴み、引きちぎるみたいに握りしめながら泣いている彩羽。血の気の引いた真っ赤な手でカバンを握りしめ、雪の中で足を取られながら歩いていく、すいさんの後ろ姿。
そして、VRを掲げる僕の足元で、涙をこぼしながら、それでも口元だけは笑って、手を伸ばしてくるお客様たち。
僕は布団の中で身体を丸めた。
『5分後、21:00 日次報告・業務スケジュールが開始されます』
見慣れた通知が、視界に滑り込んでくる。
僕は洗面台へ向かって冷水で顔を洗い始める。さっきまで火照っていた頬が、一瞬で冷え切る。
水を拭いもせず、ぼんやり鏡の中の自分を見る。
いつも通りの僕。伸び放題の黒髪。鋭いだけの小さな目。腫れているせいで、黙っているだけでも誰かを睨んでいるみたいに見える。
それでも今は、なぜか。濁って生気のなかったはずの瞳の奥に、確かな光が宿りはじめていた。
僕は洗面台を背にして、リビングへ戻る。彩羽が用意してくれた夕飯を、ほとんど噛まずに口へ押し込む。
コップ一杯の水を一息に飲み干し、床に置きっぱなしになっていた、彩羽の工具を拾う。それからリビングのクローゼット、奥の箱から、指の第一関節ほどの古いヒューマノイド用の大容量SSDを取り出す。
部屋へ戻り、テントの中へ。
手は自分でも驚くほど迷いなく動いた。ギアの後部パネルを外し、内部の奥、蜘蛛の糸ほど細い赤いラインが二本走っている場所を確認する。ためらいを押し殺して、ハサミを入れる。
プツン、と小さな断線音がする。
次に、右耳の後ろ。そこに埋め込まれた、細長い長方形のホログラム端末――外部プロセッサの脱着ボタンを指で探る。剃り残した髭一本ほどの厚みしかない突起が、指腹にかすかに引っかかる。
押し込むと、即座にアラートが浮かぶ。
『端末の外部プロセッサ脱着ボタンが入力されました。許可しますか?』
僕は視線で〈許可〉を選ぶ。
一瞬、視界が暗転し、ほどなくして戻る。
耳元からわずかにせり出したハードウェアを引き抜き、工具で慎重に分解する。SSDをヒューマノイド用に換装し、パーツを戻し、ハードウェアを再挿入。端末を再起動。
軽快な起動音のあと、また通知が現れる。
『警告:端末に未確認のSSDが検出されました。容量が100テラバイトを超過しています。身体に危険が及ぶ恐れがあるため、近日中に近隣の専門店で交換・修理を推奨します』
僕はその通知を視界の端へ追いやり、いつも通りギアを頭に嵌める。そしてフルダイブボタンを押す。
ハーフダイブより強い圧迫感。きついスイムキャップを被せられたみたいに、頭が締め付けられる。
やがて視界は完全に闇へ沈み、聞き慣れた音声が耳の奥に落ちてくる。
『ようこそ、スタジオ・ジェネシスへ』
見慣れた台詞。いつもやる作業。でも、今日は違う。
今日も、お客様の笑顔のために。
いや、今日は僕と、皆の笑顔のために。

