僕が書いた世界の果てで、君の幸せを問う

 二日目・残りダイブ時間:約六時間

 空地の真ん中の廃車、その屋根の上。奥様はすいさんと並んで腰を下ろし、さっきまで楽しそうにおしゃべりしていたはずなのに。ふいに、奥様の表情が変わった。きゅっと目を細め、こちら――いや、正確にはお客様のほうを、じっと見据える。
 それに気づいたお客様が、ぱっと立ち上がる。そして、ほとんど駆け足で奥様の傍へ行く。

「トトさん、いつまでそこにいるつもりだったの?」
「姫様が楽しそうでしたので、あえて席を外しておりました」

 彼女は、読み取れない顔のまま答える。

「楽しいけど……まあ、いいや。それより、お腹すいてきた」
「それでしたら、次はこの先の川で巨大エビを捕まえる予定です。そろそろ移動なさいますか?」
「エビ!」

 一瞬でぱっと笑って、でもすぐ無表情に戻る。

「いや。トトさん、ひとりで行って捕ってきて。わたしはちょっと疲れた」
「……承知しました。では、僕が一人で取ってまいります。姫様は、こちらで荷物持ちの皆さんとお待ちください。その前に――」

 お客様はそう言って、空へ向けて二度、ぱん、ぱんと手を打つ。
 すると、空地の遠くから〈ピヨッー〉と甲高い音がして、二羽のインコが飛んできて、お客様の腕にちょこんと止まる。昨日見た、ピオとピク。あの子たちだ。

「僕の代わりに、ピオくんとピクくんがお相手します。どうぞご一緒に」

 お客様が腕を彼女へ差し出すと、緑の羽に灰色が混じったピオは奥様の頭の上へ、白い羽に青が混じったピクはお客様の前腕へ移る。

「ピクちゃん、ピオちゃん、かわいい〜 じゃ、トトさん、早く行ってきて。待ってるね」
「ええ。すぐ戻ります」

 奥様が指先でピクの頬を撫でている。ぱっと明るくなったその笑顔を背に、お客様は空地の端へ歩き出す。
 それから、少し経って。

「そういえば、甘いのも食べたいな……。ピピちゃん、トトさんのところに行って、甘いものもあるか聞いてきてくれない? ごめんね、お願い」

 彼女は、隣のすいさんの太ももに手を置き、眉をきゅっと下げて言った。すいさんは、空地の端へ遠ざかっていくお客様の背中へ視線を走らせ、答える。

「はい、もちろんです! すぐ行ってきます!」
「ありがとう! ゆっくりでいいからね!」

 すいさんの姿が遠ざかっていくのを確かめると、奥様はもう一度、こちらを振り向く。さっきまでの無邪気なお姫様がまとっていた甘い空気は、跡形もなく消えている。
 僕は彼女から視線をそらし、何か役に立てることはないかと、休めそうな場所でも探すように目を泳がせる。すると、前から声が飛んでくる。

「荷物持ちさん。こっち来てくれますか」

 呼ばれた瞬間、背中がこわばり、背筋が勝手に伸びた。僕は反射的に姿勢を正し、奥様のほうへ歩く。

「はい……お呼びでしょうか」
「ここ、座って」

 奥様は廃車の屋根、自分の隣を指さす。僕が腰を下ろすと、彼女は前腕に止まったピクから目を離さないまま、さらりと言う。

「……あなた、人間でしょ? VR会社の人?」
「あっ……」

 舌がひっかかって、噛みそうになる。僕は慌てて唾を飲み込み、引きつった笑いを浮かべたまま口を開く。

「い、いえ! 僕はAIです! 第4世代なんで、人間に見えたでしょ?」

 彼女はようやく僕を見た。

「なんでみんな、そんな下手なAIごっこするの。わたしが気を遣わずに、いろいろ頼んだり、使い走りにしたりできるように?  そもそもAIが、〈殺してあげる〉なんて言うわけないでしょ」
「……っ。す、すみません」

 小さく頭を下げ、鼻先を指でかいた。頭の中を必死にかき回しても、もう言い訳の一つも見つからない。

「まあ、いいや。それより、トトさん、わたしが記憶ないって思ってるみたいだけど……実は、うっすら覚えてるの」
「え?」

 頭の中が、一瞬だけ真っ白になる。彼女の瞳は暗く、覗き込んでも底が見えない。

「もちろん、頭の中は真っ白よ。思い出そうとしても、霧がかかったみたいで、うまく掴めないの」

 彼女は自分の胸元を強く握りしめる。

「でも、あの人を見ると……ここが痛い。懐かしくて、苦しくて……だから分かる。あの人は他人じゃない。たぶん、夫、かな。子どもも、いる気がする。インコを見ても胸がきゅっとするから……きっと、飼ってたんだと思う」

 ついさっきまで感情の読めなかった瞳は、もうどこにもない。薄く潤んだ目が、縋るように僕を見上げていた。

「……ほんとですか? じゃ、じゃあ早くトトさんに!」

 声が思わず跳ね上がる。
 その勢いのまま、すいさんにメッセージを送ろうとした、その瞬間。奥様がこちらへぐっと身を乗り出してきた。瞼をまつ毛の影が落ちるほど細めて、僕の網膜を覗き込む。

「荷物持ちさん。バカじゃなさそうだけど……脇が甘いの?」
「……はい?」

 返した途端、ぞわりと粟立つ。

「ふぅん……そっか。でもさ――なら、なんで正体を明かさないの?」

 僕は言葉を失って、ただ自分の指先を見つめた。忘れたふりをしていた言葉が、記憶の奥からふいに浮かび上がる。

 ――できるだけ妻が混乱しないよう、現実の話や僕の正体は伝えないでください。

 あの、念押しのメッセージ。
 言い訳を探す暇もないまま、彼女はすぐに話題を飛ばす。

「ところで、明日、ほんとにわたしを殺してくれるの? 自分のことだけ、黒い墨で塗りつぶされて何も思い出せないのに……それ以外の、一般的な知識はちゃんと残ってるの。安楽死だって禁止でしょ?」
「……」
「何も言わないんだ。まあ、いいけど」

 彼女は前を向き、ぶらぶらと脚だけを揺らす。

「じゃあさ。幼稚な演技、わたしも付き合ってあげる。代わりに、お願いを二つだけ聞いてくれる?」
「……二つ、ですか? どんなお願いを――」

 僕が聞き返すより早く、奥様は即答する。

「ひとつめ。手紙を書きたいの。紙と鉛筆を用意してほしい。あとで書くから、明日、最後の日が終わってから、トトさんに必ず渡して。もちろん、あんたは絶対読まないでね。さすがに、それくらいの良心はあるでしょ?」
「それなら、できます。二つめは……?」
「セーフティモード、解除して」
「……?」

 耳の奥で、音だけが跳ね返る。

「い、いや……そんなの、ありません」

 奥様がこちらを振り向く。黒い瞳に吸い込まれそうになる。

「わたしのこと、バカだと思ってる? 世界に分厚いゴム膜が張ってるみたいなの。風も、匂いも、この薔薇の手触りも……全部、一枚隔(へだ)ててつるつる滑っていく。それがわからないと思った?」
「……え、え?」

 僕は慌てて自分にセーフティモードを入れ、指を動かす。たしかに少し鈍い。でも、彼女が言う分厚いゴム膜ほどでは断じてない。

「だから、早く解除して。どうせ明日が最後なんだから。変なことはしない。……約束するから、ね?」

 脳裏に、セーフティモードの条項が断片的によぎる。
 管理者権限、責任、万一の事故。
 それに昨夜、帰り道で見た家計簿の数字。そして病床の上の奥様のやつれた顔が、頭の中に鮮明に浮かんでしまう。
 僕は、必死に首を振った。

「だめです。解除だけは」
「へぇ。じゃあ、トトさんに言っちゃおっかな~ 荷物持ちさんが、わたしにニヤニヤしながら情報こぼしたって」
「……それでも、だめです」

 僕の言葉が終わるか終わらないかのうちに、奥様は小さく舌打ちし、廃車から降りた。それからしゃがみ込み、地面の何かを片手で拾い上げて立ち上がる。
 ピオは奥様の頭に、ピクは肩に。インコたちは変わらず、そこにいる。
 変わったのは、奥様の手に握られている、泥で少し汚れたガラス片だけだ。たぶん、車の窓ガラスの破片。周りの薔薇が反射して、血みたいに赤く揺らめいている。
 彼女はそれを、ためらいなく自分の喉元へ運ぶ。

「え、ええ!? な、何して――!」

 僕が飛び降りようとした瞬間、奥様はもう片方の手を突き出して制する。

「来ないで。解除しないなら刺す。慌ててるってことは、過負荷でわたし、ぽんって死ぬのかな?」

 ガラス片が、さらに首へ近づく。僕は必死で目を走らせ、緊急停止のボタンを探す。

「目、きょろきょろしないで。ピオ、ピク、あの人噛んで!」

 号令と同時だった。さっきまで嘴で羽繕いしていたピオとピクが、鋭い羽音を立てて僕のほうへ飛んでくる。視界の前を横切り、肩と首筋を容赦なくついばむ。
 ハーフダイブなのに、痛い。皮膚の上を、細い針で突かれるような痛みが何度も走る。

「うわっ、ちょ、待っ……! わ、わかりました、わかりました! 解除します! 解除しますから! でも危険ならすぐ戻します!」
「そうこなくちゃ。ピク、ピオちゃん――おいで〜」

 そう言うと、僕をついばんでいた二羽はぱっと引き返し、彼女の肩に並んで止まる。

「ほら、早く」
「……はい。ちょっと待ってください」

 僕はその場に、どさりと座り込んだ。それからAIモニタリングが正常に動いているか確認し、危険があれば自動で復帰する設定にして、セーフティモードを解除した。
 ほとんど完璧に近い性能。頭ではそう理解している。それでもAIという二文字だけが、やけに薄っぺらく見える。
 途端に、奥様は両手をぎゅっと握って、ぱっと開いた。瞳を大きく見開き、しゃがみ込んで貪(むさぼ)るように薔薇へ顔を埋める。肺の奥まで香りを吸い込み、ゴホッ、とむせるように咳き込んだ。それでも構わず、彼女は指先を鋭い薔薇の棘に押し当てる。ぷくりと滲んだ赤い血の玉を、うっとりと見つめている。
 そして僕のほうを見て、小さく笑う。目の下が、ほんのり赤くなっているのが見えた。

「……ありがとう、ププさん」
「はは……どういたしまして」

 ただ、インコを連れた一人の女性が、薔薇の前で笑っているだけ。それなのに僕には、美しい毛皮を被った老獪(ろうかい)な狐が、獲物を前に舌なめずりしているようにしか思えなかった。